第11話
そうして所変わって、こちら喫茶店である。
小学校から目と鼻の先、私たちが大冒険を繰り広げた住宅街で隠れ家的に営業しているこの店が、どうやら慰霊碑の管理者の持ち物であるらしい――という情報が、蝿のべっちから伝えられた。たださすがの動く監視カメラ、蝿のべっちも子どもたちの名前まではわからない模様。
迷い込んだおとぎ話みたいなログをキリマンジャロの薫り高い酸味が中から溶け出し、店全体を優しく雲のように包み込む。実に穏やかな午後の味。しかし私の鼻孔をくすぐるのは、水の無臭と焼きそばの下町バンザイな濃い濃い匂い。私はウインナーコーヒーの生クリームをストローでつぶしながら、
「……この店は、匂いの混ざり合いを気にしないのね」
「どういうことだ?」
「普通、お洒落な喫茶店に焼きそばはないでしょう? 匂いがこびりつくじゃない。知ってる? デパートの化粧品売り場が一階にあるのって、コスメの匂いが充満しないためだそうよ」
「美味い。気に入った。星を五つ差し上げよう」
焼きそばでご機嫌の幸田は指で丸を作る。口の周りがソースでベタベタだ。私はナプキンを取って渡してやる。幸田は礼もなく口を拭き取り、また節操なくそばを放り込んで再度ベタベタ。こいつは焼きそばを前にすると見境がなくなるらしい。
「……まったく」
私はあきれてストローをすすった。私はブラックコーヒーは断固拒否、カフェラテもあまり得意ではないのだがウインナーコーヒーは別。生クリームとコーヒーを一緒にすると素晴らしいデザートと化すことを見つけた人に金一封を差し上げたいと思う。
しかし今は、心なしか苦く感じてしまう。
「……まったく」
私は二度目の言葉を漏らした。幸田は皿に細かく散らばったそばの欠片を拾うのに夢中で、人の感傷など知る由もないだろう。
脳天気な男だ。
ものの五分でそばを平らげた幸田は、私の顔色をうかがうように、口を拭いて、箸を皿の上に置いた。
「……さて」
私は緊張した。大好物で腹を満たした幸田は双眸を鋭く持ち上げた。ここからが本番だ。
「ちょうど他に客はいない。今がチャンスだぞ」
私たちは示し合わせたように、カウンターのほうに顔を向けた。
常連客のための専門のカップが飾りもののように並んだ棚を背にして、飲食店経営の邪魔にならない、衛生的に整えられた髭が上品な紳士がしきりにカップを磨いている。幸田がフードファイターのように焼きそばと格闘している間も、ずっと瞳を閉じて、延々と磨いている。削れてなくなってしまわないだろうか、と懸念を抱くほどに。
彼がこの喫茶『ラリュ』のマスター。名札には『
「……おまえ、まだ飲めるか?」
「えっ? でもまだ……」
「マスター、この女にウインナーコーヒーをもうひとつ」
「かしこまりました。すぐに用意しますゆえ、少々お待ちを」
飲み終わってないのに! というかこの女とはなんという言い草だ。
早回しのごとし手際で飲み物を用意し、情緒ある木のトレイに乗せて一ミリもカップをズラさずに運んでくる。私はズズズーと幸田を悪く言えないほど行儀悪く飲み、頭がキーンとなった。
「ありがとうございます」
幸田は知らない人ならばころっと騙されるいっちょまえな外面のよさを発揮した。
「焼きそば、美味しかったですよ」
「それはそれは、ありがたき幸せでございます」
「普通の焼きそばよりソースが少なく薄いように感じられますが、だからこそキャベツやにんじん、肉、そしてそばの本来の味が表に出てきます。キャベツは和寒、にんじんは富良野ですか」
「よくおわかりで」
本当に、よくおわかりで。
「それにしても、喫茶店で焼きそばとは珍しいですね。デパートの化粧品売り場が一階にあるのは、コスメの匂いが充満しないためですが、これだとコーヒーの匂いが焼きそばソースでかき消されてしまいますよ」
「まあ、そうでしょうねえ」
マスターは困ったように笑った。
「しかし、焼きそばだけは残していかなければならないのですよ」
「思い入れがあるんですか」
「お客様にするような話ではないですが。一人娘がわたしの作った焼きそばが大好物でしてね。思い返せば子どもの頃、北海道の祖父母からよくメロンや野菜が送られてきていましてね、母がよくそれで焼きそばを作ってくれたのです。他の子どもと同じようにわたしもにんじんは嫌いでしたがこれだけは食べられましたよ。やはり血筋は争えないというか、うちの子にも同様に和寒の越冬キャベツと富良野のにんじんで焼きそばを作ってやったらそれはそれは喜びましてね。ああ、老いぼれが長い話をすみません」
「いえいえ……娘さんは?」
「亡くなりました。いろいろありましてね」
私の視界の隅に、カウンターの棚が目に入る。お行儀よく整列したカップの部屋のひとつに、違う様相のものがひとつ置いてあることに私は気づいていた。写真立てだった。
写っているものは、私の視力では限界があるので見えない。ただ予想はできる。小学生の女の子だ。きっと、あの、煙のように消えた女の子と同じ制服を着て、同じように学校に通う、どこにでもいる幸せな少女だったのだろう。
「マスター……いえ、大橋元PTA会長」
幸田は瞳を一瞬、いつの間にか陰った窓の外に飛ばし、最後にマスターの目を注視した。
「これをご覧ください」
幸田の催促するような目配せに、私はポケットから紙を取り出した。
自慢ではないし、自慢するほどでもないが、私は絵を描く。マーチアやベルベットのイラスト、漫画を描き、SNSにアップしたこともある。通信簿は五教科副教科オール「3」というある意味褒められるべき器用貧乏っぷりだが、美術だけは小学校の頃から途絶えることなく「4」である。上昇も下降もない、グラフにしたらあくびが出るほどの「4」パレードであるが、とにかく描けないことはないのだ。少なくとも書道よりはだいぶんマシなのだ。
「この二人を見たことはありませんか。当時小学四年生。生きていれば中学三年生ぐらいですかね」
「ふむ……」
マスターは突飛な客の突拍子もない質問に面食らったようだが、カウンターから眼鏡を持ってきて、じっくりと見た。
「……特徴をよく捉えていますね。なるほど、見たことがありますよ。よく二人で、ふざけ合いながら下校していた覚えがあります」
「名前は?」
「少しお待ちを。うちに名簿があったはずです。うちは近いですから、取ってまいりましょうか」
「お願いします」
マスターは慌ただしく店を出ていって、昼時の喫茶店は臨時休業。もっとも元より開店休業状態だから、そう損失もないのだろうけど。
幸田は返された力作を透かすように見ながら、首をひねった。
「……特徴?」
「うるさいわね。あんたが急かせなかったらもっともーっと丁寧に描けたんだから」
私は頬を膨らませるが、それほど嫌ではなかった。
マスターに褒められたのももちろんだが、幸田のマスターへの態度に、電気屋の武田店長に対するロボットのような人間味のないものとは明らかに違う、労りが垣間見えたような気がしたからだ。この際、デパコスの例えに関してはチャラにしようと決め、私は春先の雪だるまのように溶けた生クリームをすくった。
この数秒後、久実乃の山の崖から舞い落ちた、底知れない悪が窓をこじ開けるとは夢にも思わずに。
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