第8話
泣かなきゃよかった、と後悔するまで時間はかからなかった。とてつもなくこっ恥ずかしい。運転手が終点であることを告げ、ドアを開ける前に、私はさっさと立ち上がった。
今のところ蛭峡とは、ごくごく普通の田舎町だった。民家と見間違うほど小粒な公民館と、全商品売り切れの自販機が哀愁を誘った。秋の田舎の象徴のように、黄金色の稲穂がふさふさと風に揺れ、赤とんぼが空はせましと縦横無尽に飛び回っていた。道路が濡れている様子はなかったから、蛭峡では雨は一滴も降っていないようだった。むしろカラッとしたいい秋晴れで、それがさらに私の羞恥を煽った。
「行くぞ」
幸田が仏頂面を作ると能面感がより増した。そう思うのは私の精神状態のせいかもしれないけれど、幸田も何かしら思うところはあるようで、歩幅もいつもより小さかった。おかげで追いつくのも簡単だったけれど、それも癪で、少し離れて歩いた。
私はあいつの背中を、にらむように見た。感情が滝のようにあふれてやまなかった。早苗からの続報はまだだけれど、事態は一分一秒を争う。人形の凶行もこれまた続報は届かないが、早苗たちのように襲われて閉じ込められている人もいるかもしれない。だから、泣いている場合ではないし、解決すると決めた以上手と手を取り合わなければならないのに、私は素直になれないし、あいつも何も言おうとしない。それが妙に歯がゆくて、気持ちが悪かった。自分に腹が立って、あいつに苛立って。
あいつだってそれを止めたいわけなのに。歴史の長い家の占い結果のくせに時間も曖昧だってのに、いつ押し寄せるか知れない化け物のためにピアノを弾き続けろなんて、ソラブジよりも困難なことを要求していたのは自分だった。よく知らない化け物に敵意を向けるより、近場にいる同級生を憎んだほうが手っ取り早いと勘違いしているだけなのに。わかっているのに。なのに。だのに。
電気屋での尋問のときの、あいつの表情がなかなか離れてくれない。能面――言葉は丁寧ながらも、武田店長のことを何ひとつ想っていないような、無の顔。武田店長や商店街の人たちの切実な事情を見抜いていながら、何もいたわりの気持ちがない、無感情なロボットのような表情だった気がして仕方がない。それが、怖いのだ。取調室で容疑者を詰問する刑事みたいな、なじるような声色ではないことが、余計に怖さを増幅させるのだ。
怖いから泣いた。同級生が怖かったから泣いた。そういうことにさせてくれ。
――と、とりとめのない考えを頭の中でガラス細工のように散りばめていたからいけなかったのだ。
「……あれ?」
目の前に幸田はいなかった。T字路の交差点に駆けて、素直な小学生のように右左右を確認するが、人の気配はない。
……はぐれた?
自慢じゃないが、方向音痴にかけては私の右に出るものはいないと自負している。早苗と出かけるときにも必ず彼女が先頭に立たなければならないし、でなければ行きはよいよい帰りは怖い、二度と帰れなくなる可能性が大であることを早苗も私も理解している。けれど幸田がそれを知っているわけがなかった。
「もう、なんなのよ!」
あいつの電話番号は知らなかった。
大人になって道に迷ったことのある人は共感してくれるだろうが、大人になって迷子になるのと子ども時代に迷子になるのとでは、心細さのレベルが違う。成長は悲しきもので一人で大っぴらに外に出ることを許されるゆえに、責任が伴う。責任というのは、一人で出かけた以上一人で帰ってこられるという信頼のために生まれるものである。方向音痴とはその責任を、同行者に一緒に背負ってもらわなければならない悲しき宿命を負った生き物なのだ。
今私は、責任の置き場がない状態で、それは己のちっぽけなプライドというか、反発心が生み落とした結果なのだ。
「だとしても、振り返ってついてきてるか確認してくれてもいいじゃないのよ!」
いや、そこまで世話を焼いてくれるのは家族か早苗ぐらいか。
私は他に誰もいないのをいいことに、地べたをガンガン踏みつけ、腕をぶんぶん振り回し、ストレスの発散をおこなった。ただそれは、行き場のない苛立ちを助長し、疲れが重なるだけの不毛な時間だった。はあはあ息を整えていると、
「ひゃあ!」
私はみっともない叫び声をあげて、確実に三十センチは前へ飛んだ。私の腰を猫がなでたのである。いや、にしてはピンポイントというか、普通猫がいたずらを仕掛けてくるとき、腰をなでるものなのか。
「……な、何?」
私は唇をワナワナ震わせながら背後を確認した。そして今度は上へ、二十センチは飛び上がった。
そこにいたのは猫ではないが、小動物のようにかわいらしい女の子と男の子だった。
「…………」
女の子は長い髪を二つに分けて横結びにしている。男の子は半袖半ズボンで、膝に絆創膏を貼った絵に描いたような元気っ子である。しかしひとつ元気じゃない点は、二人は一言も声を発さなかった。顔が強張っているところを見ると、私の醜態に怖気づいたのだろうか。
これこそ恥ずかしい。私は威厳を取り繕わんと、カッコよく額の冷や汗をぬぐい、おしゃれ雑誌やTGCぐらいでしか見たことないような素敵なポーズを作った。
「お、お姉ちゃんに何かご用事?」
二人は顔を見合わせて、同時にこちらを凝視した。失敗だったようだ。幸田に見られなくてよかったと胸を撫で下ろしながら、慣れないポーズを崩すと、幼稚園の先生が子どもに対しおこなうようにしゃがみ込み、二人と視線を合わせた。
「お姉ちゃんに、何かご用事?」
二人は再び顔を見合わせ、同時にこちらにうなずいた。単なるトンチキ女ではないとあらためてくれたようだ。
「ご用事って、何?」
「…………」
「うーん」
私は頭をかきむしった。人見知りなのかもしれないけど、まったくしゃべってくれないと困る。もしかしてこの子たちも迷子で、心細いから私のような大人に声をかけたのかもしれないが、そうだとしたらお門違いであると突き放つしかなかった。しかしそれも気分が悪い話で。どうしよう……と今さらながら思案していると、
「……うわあ!」
女の子は左の手を、男の子は右の手を、それぞれ取り、ぐいぐい引っ張る。想像していただけるだろうが私はしゃがんだ状態だからバランスが取りにくい。子ども相手でも不利である。引っ張られた拍子に足が言うことを聞かなくなって、気づいたときには脳天がアスファルトとこんにちはしたのも、当然の帰結だった。二人は驚きにぱっと手を離した。
「いってー……」
星が走る。血でも出てねえよな……と頭をさすると、幸い何も問題はなかった。まったく、ついていない。しかし、
「……ふふっ」
「……へへっ」
風がそよぐような音が聞こえて、顔を上げると、二人の子どもが顔を見合わせくすくすと笑っていた。この子たちの声を、はじめて聞いた。
「……ははっ」
私も思わずつられて笑ってしまった。
文字どおりの怪我の功名で、これで緊張がほぐれた。私は二人のご用事に付き合うことにした。見知らぬ町でただあてもなくさまようよりも、この子たちについていきながら大人を探し、あの妙ちきりんな祓い屋探しに協力してもらうのも悪くない選択だろう。楽観的だと思われるかもしれないが、方向音痴が足の赴くままに人探しをしても、ドツボにはまるだけなのであると、私は身をもって知っているのである。
それにこの子たちと別れるのは、違う気がした。
二人はぎゅっと互いの手を握り、子どもの歩幅で歩いていく。私は二人に合わせてついていく。お母さんになった気持ち――というより、はなはだ奇妙な感覚である。この無口な少年少女に子どもらしい無邪気さは感じられない。かといって邪気だらけというわけでは無論なく、彼らからはただ、ついてきてほしいから連れていく、連れていきたいからついてきてほしい、という純粋な欲求が見える。人はそれを子どもらしさと呼ぶのかもしれないけれど、どうも、引っかかる。
否! 私は首を振り回し、大人の汚れた妄想を振り払った。いったい子ども相手に何を心配しているのか。幸田のせいで、ゆがんできているのかもしれない。蛭峡の空気に、あてられているのかもしれない。
奇妙な一団は住宅街の塀の迷路を進む。抜け道なのか、猫一匹しか通れないほどの細っこい路地に案内されたときには夜のアイスを断とうと決意しなければならなかったけれど、無事にうんしょと細道を抜けた先に昔ながらの駄菓子屋を見つけたときには、私は幼い時分になくしたペンダントを押し入れから見つけ出したような、望郷の念に似た心地に打たれたものである。
子どもたちは手をつないだまま駄菓子屋へ駆け出していく。女の子はチョコレートの缶に目を輝かせて、男の子はアイスケースの中の二十円の激安アイスキャンディーを覗き込んで、氷の束に頭を突っ込みそうである。
「ほらほら、はしゃがないの」
私はほのあたたかい気分で二人を眺めていた。そういえば早苗も、ショッピングモールの駄菓子売り場で浮かれに浮かれて、あんなに安い店で一万円近く購入し、店の人にあきれられていた。店にたどりつくまでは早苗の手助けがなければ無理だけれど、舞い上がる彼女に釘を刺す役目は私である。
「…………」
二人はおもちゃ箱をひっくり返したような魅惑の売り物を眺めたあと、私のところへ寄ってきて、くいくい制服の裾を引っ張る。最初何かと思ったが、すぐにピンと来た。
「はいはい、一人三百円までよ。遠足と一緒ね」
私の言葉に二人は顔をぱっと太陽のように明るくさせて、再び駄菓子屋へジャンプ。カラフルなラムネ、甘いチョコレート、しょっぱいせんべい、秋の日でもまだまだ恋しいアイスなど、きっちり三百円内に収めて戻ってきた。
「アイス溶けちゃうから、そこのベンチで食べさせてもらおっか」
二人は大きくうなずくと、駄菓子屋の横のベンチにちょこんと腰を下ろした。二人の隣に座ると、女の子が私の膝の上に小さなものを置いた。版権キャラクタートレーディングカードシリーズ『ヴィアベル』版のカードである。
「くれるの?」
女の子はにこっと笑った。
「せっかく買ったのに、いいの?」
女の子は首を縦に振り、私を隔てて奥でアイスに頭をやられている男の子を覗き込んだ。男の子は女の子の視線に気づき、親指をぐっと立てた。彼らなりの、お礼のつもりなのだろう。
「ありがとう。とっても嬉しいわ」
愛想ではなく、本当に心の底から嬉しかった。ヴィアベルトレカといえば結構昔に発売されて、今でも扱っているところは秋葉原か大阪の日本橋ぐらいしかないと噂に聞く。ましてやこれはマーチア&ベルベットのシークレットレアカードではないか。ネットフリマだと一枚ウン万円で取引されているプレミア品、マチベル推しからすれば垂涎ものの代物である。駄菓子屋とは昔から、コレクターが見たら卒倒するんじゃないかというような珍品がたまに発掘されると聞くが、トレカ界隈でもそうだったのか。ありがたい話だった。
女の子ににっこり笑顔をかけると、彼女は子猫のように嬉しそうに声を鳴らして、私の頭を指さした。いったい何を思っているのかと考えたが、すぐに気づき、頭の髪飾りをはずし、子どものぷにぷにした手に乗せた。
「これ、ベルベットの髪飾りに似てるでしょ」
「…………」
女の子は目をパチパチさせている。アイスを食べ終えた男の子もベンチからぴょこんと飛び降りると、駆け寄ってきて、手のひらの上のキラキラした物体を凝視した。私はレアカードのベルベットの髪飾りを示した。二人は二つの似た品を見比べて、混乱したように顔を見合わせている。明日香いわくトップコスプレイヤーレベルに似ているそうだが、彼らの目から見ると脳内がごちゃごちゃするほどらしい。
そうだ、明日香……私の脳裏に巨大な感情が舞い戻ってきた。
こんなところで子どもたちと戯れている場合ではないのである。いくら地図との和解を諦めた身の上とはいえ早く幸田と合流しなければならないのに。でも、彼らと離れるのもそれはそれで惜しいことであると、本能が呼びかけている気がするのはなぜだろう。こういう感覚、今朝も感じた――
と、そこへだ。
住宅街の塀の死角から、小ぶりな物体が飛び出してきて、私たちはそちらに集中した。
「ニャア」
猫だ、と判断したのは鳴き声からである。見て姿を確認するより早く、続くように幸田も飛び出してきたのである。
「幸田! あんた」
「離れろ!」
宙を切り裂く声に詰め込まれた激情に、体はベンチに縫いつけられてしまった。
「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女!」
ああ。
私はこの瞬間を、一生忘れないだろう。
幸田は――クラスの問題児幸田伊織ではなく、祓い屋幸田伊織は――右手の人差し指と中指を立ててちょうどチョキの形を作る。手を上に持ち上げ、下ろす動きを三度。そして私から見て右へ腕をやり、左へ三度。
幼稚園児でも簡単にできる動作。ラジオ体操第一の二番目の動きより遥かに簡単。
なぜたったこれだけのことが、私の脳裏に焼きついて離れないのか。
極限の集中状態でおこなっていることが手に取るようにわかるからだ。
「……幸田!」
私は幸田から目を逸らせなかった。
「伊織チャン!」
猫が細い目を開くだけ開いて、甲高い声で叫んだ。
「あれ見い! あれ見い!」
幸田に猫の言うとおりものを見る余裕はなかったに違いないのだが、ゾーンに入りながらも、あいつは黒目だけを動かし――
瞬間、空気が変わった。
あいつの目に住まう烈々たる集中の炎が、水をぶっかけられたように消えた。かわりにその目に宿ったのはえも言われぬ困惑の光だった。
「――岡崎」
幸田は私の名を呼びながら一歩近づいた。上がる呼吸にまみれながら言葉を絞り出した。
「その髪飾りは」
「……髪飾り?」
私は子どもたちを見下ろした。女の子はあてられたように男の子の腕を握りしめ、男の子は彼女をかばうように幸田に不穏な視線を向けている。髪飾りは女の子の手に大事なもののように握りしめられていた。
幸田と男の子は、コンマ数秒相まみえた。
「……そうか」
幸田は吹っ切れたような笑みを浮かべると、「さぶ」と言った。猫が足元に寄ってきた。
「おまえもそう思うんだな」
「伊織チャン。よくない、よくない」
「わかった。――君たち。案内してくれないか。このお姉さんを連れていきたいところがあったんだろう」
特有の能面の目を思わせる無感情な瞳ではない。感情のある人の目で子どもたちに目配せした。彼らは得心したのか、お互いを見つめ合ってうなずきあい、駄菓子屋とは反対方向へ駆けていく。
「おい、ちんたらするな」
「ニャア」
一人と一匹は彼らのあとを追いかけるよう促す。私はただ置いてけぼりのようにベンチに腰をつかまえられていたが、そうともしていられないので立ち上がった。
少し離れて、元いた場所を振り返ると、駄菓子屋は跡形もなく消え去っていた。
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