第7話
いついかなるときも私情を挟まず、冷静沈着に物事を把握し、国民の皆様に必要事項を落ち着いて伝えるのがアナウンサーならば、そのときのテレビのニュースは失格と言わざるを得なかった。とはいえこの若く麗しい女性アナウンサーが、声を上ずらせるのも、無理からぬことだと国民全員が許したことだろう。地震、雷、火事親父……知ってる災害とはまったく別次元の災害に、世界中が恐怖した。
『臨時ニュース、臨時ニュースです。各地の家族で異常死が相次いで起こっている模様です。都内、F県、G県、T県、O県、S県――アメリカ、ニューヨークでも同じことが起こっています。被害者は全員壁に叩きつけられたような格好で殺害されており、床に埋め込まれたような遺体も見受けられるとのことです。詳しいことは判明次第お知らせします』
「ほえー……」
魚屋のおっちゃん、本屋のお姉さん。テレビの音が耳に入る範囲にいた全員が駆けつけてきて、大きく口をあっぴろげている。この電気屋は看板の具合から老舗のようだが、店先のテレビにこんなに人が集まったのは力道山の空手チョップ以来かもしれなかった。
私たちはそのさまを、まるで他人事のように、数メートル離れた場所から眺めていた。
『ちょっと、二人ともぉ!』
押し黙った私たちを早苗が涙声で呼び上げる。私たちは夢を破られたようにはっとし、
「ごめんごめん。で、人形が消えたって?」
『どういうことなのか意味がわかんない! 瞬間移動みたいにぱっと消えたの!』
「あんた、ちょっとニュース見てみなさい。大変なことになってるから。あと、本当に人形は一人もいないのよね?」
『全然よ』
「よし、ならば演奏はやめでいい。おまえたちは待機しておけ。道が塞がれていて救急車は来られない」
『そんなぁ!』
「こらえろ」
幸田は強引に電話を切った。
私はスマホをしまいながら、幸田の言葉を待った。
「……十中八九、間違いないだろうな。人形の仕業だ」
私は神妙にうなずく。壁に叩きつけられたような遺体。床に埋め込まれたような遺体。人形のあの、えげつない腕力で横から吹っ飛ばされたら。上から殴られたら。明日香のように。
今さらながら、恐ろしさに身震いを走らせるしかなかった。
私は声を振り絞った。
「消えたって……」
早苗の悲痛な声と、状況がリンクする。
「消えたなんて、不思議はないさ。やつらはそういうものなんだよ。人智を遥かに超えた力を持つ。だからあやかしなんだ」
そのときの幸田の真っ黒い目に、私は何も声をかけることができなかった。このような事態が起これば、沈むのも当然。しかし彼にはもっと深い、私たちのように普通の家族の元に生まれて普通に成長してきた人間には計り知れない、ドス黒いものがある気がしてならなかった。
「と、とにかく」
私は空気を変えるべく、手をパンパンと叩いた。
「こうしていられないわ。すぐにでも止める方法を探さないと、被害者の数は増え続ける一方よ」
そうこうしている間にもまた速報が入り、私たちはテレビに釘付けになった。今、日本中の全メディアがこの前代未聞の事態に夢中になっていよう。ゆえに情報が更新されるのも早かった。
『都内に住んでいた岡田さんご家族の近所のAさんから話を聞くことができました。専業主婦である岡田千佳さんは死の間際Aさんと家の前で話しており、やかんが沸いたからと台所に引き返したのですが、いつまでたっても戻ってこないのを心配し……』
「あれ、あれえ!」
と事件の重大さに似合わぬ素っ頓狂な声が響き、私たちは声のするほうへ顔を向けた。商店街で今、牛肉コロッケより大安売りより、注目を集めている電気屋の主である。白髪と黒毛が混じった長髪を背中でくくり、手にちりとりとほうきを持っている。店の前の掃除に出たら、この事件に出くわしたということか。
「ありゃあ、
とあげたのは野次馬の老婆である。武田店長は掃除道具を振り回さんがごとく、
「そりゃそうでえ。岡田さんっつったらうちの将司の離婚の前に隣に住んでた家族よ。ええ、ええ方やったのにとんでもねえことになってもうて……うっうっ」
武田店長は腕を顔に当てて、鼻をすすっている。
「それだけじゃねえやい。F県の孝蔵んとこも将司とは年の離れた飲み仲間よ。な、なんちゅう星の下に生まれてえ!」
と天に叫ぶとまたおいおいと泣きはじめる。
私は呆然と眺めるしかなかったが、幸田は前へ一歩進み、
「すみません、武田さん」
「ああん? 兄ちゃん、見ん顔だね」
「殺された人たちとお知り合いで?」
「お、おうよ!」
武田店長は顔を袖でぐしゃぐしゃとぬぐうと、唇を噛み締めて、地団駄を踏み声を荒げた。
「まったく、あんなろくでもねえ息子にもよおくしてくれたええ人らだってのに、こんな死に方なんぞ、ひどい、ひどすぎる!」
とめどない感情が滝のようにあふれて止まらない武田店長をなんとか数人がかりで押さえつけて、私たちは数分後、電気屋の奥の和室に通された。奥さんが暴れる夫を収めたお礼として茶菓子なんぞを用意してくれたので、お言葉に甘える格好である。しかし、天から降ってきたような好都合だった。
「調査にお付き合いいただき、ありがとうございます」
幸田が頭を下げると、武田店長は面目なさそうに頭をかきむしった。
「ええ、ええ、わしこそ取り乱してもうて」
「さっそくお話をうかがいたのですが。こちら被害者の方々の一覧なのですが……岡田さん一家と下村孝蔵さん一家の他にもお知り合いの方はいらっしゃいますか」
「ほえ、こりゃこりゃ……」
「お見苦しくてすみません」
また幸田は頭を下げる。誰がお見苦しい字だ、誰が。私はキッと幸田の澄まし顔をにらみつけるが、もちろん意に介さない。いったいこの華奢な体のどこに敬語や他者への丁寧な態度と、授業を平気でサボり人が一生懸命書いた名簿をこき下ろす、矛盾した性質が同居しているのだろうか。
武田店長は老眼鏡をかけると、紙を穴が空くほど眺めて、不思議げに首をひねった。
「こんなもん、ニュースでは言っとらんようだが。あんたら下手人の知り合いかい」
「いろいろ情報網がありまして」
幸田は不敵に笑うが、ただネット掲示板で拾ってきただけである。ネットというものは有象無象があることないことないことあることないことないこと鼻をほじくりながら書き込んでいるだけの無間地獄みたいな場所で、玉石混交どころか河原ぐらい石ばかり。よってこれも真実と決して声を大にして言うわけにはいかないのだが、岡田という文字や孝蔵という名前が連ねてある以上、一概にガセとは言えない。正式な情報を首を長くして待つ時間もなかった。
「ふうんむ」
武田店長は黒目に力を入れて名前を眺めていたが、あるところでかっと驚愕に見開き、「母さん、母さん」と台所の妻を呼び寄せた。
「はいはい、なんですか」
「これを見い、これを見い」
武田店長は紙をしきりに押しつける。奥さんは大根をテーブルに置き、目を細めて紙を見て、「あれあれ、まあまあ」と口を驚きに丸くした。
「佐々木さんとこの愛子ちゃんじゃあないですか。こっちは前野さん。あららあ……」
このあと二人揃って記憶をたどりながら名前を調べていき、最後には三人寄れば文殊の知恵と、商店街の仲間も巻き込んで大規模な記憶点検作戦がスタートした。結果、
「十五人か」
ネットにばらまかれた五十弱人の被害者のうち十五人もの人間が、商店街メンバーと何かしらの関わりがあると判明した。肉屋の息子が元警察官で顔が広かったのも功を奏した。
「この人は田上町で教師をしていた。この人は横江町で営業マソだった。こっちは平町でラーメソ屋を営み、こっちは……」
「馬鹿にしてるでしょ。営業マン、ラーメン屋、よ!」
私はやつの面の皮にカレーパンを押しつけた。幸田は顔をしかめながらもくっついたパンを取り、口に入れた。武田店長は気をきかせて土産にテレビをやると言ってのけたが、乾電池や懐中電灯ならともかくそんなでかいものをもらったって持ち運びに困る。かわりにとパン屋の主人がクリームパン、メロンパン、チョココロネなどなどを袋いっぱいくれたのである。
場所を変えて最初の自然公園。幸田は紙を見ながらうんうんうなり、私はベルベットのキャラクターパンをかじりながら、
「偶然にしてはできすぎてるわ」
「じゃあ偶然じゃないんだろう。偶然は行き過ぎたら必然になるからな」
幸田はコロネを手に取った。カレーパンはとっくのとうに平らげた。朝食は朝の集会のあとのはずだったから、二人とも腹ペコなのである。早苗たちは大丈夫だろうか、と私は空を見ながら考えた。
「十五人全員が田上、横江、平……加賀美市出身だ。田上から
幸田は赤ペンでひとつの名前に乱暴に丸をつけた。
「
私はうなずいた。
商店街メンバーから仕入れた情報である。和菓子屋の娘がマスコミ志望で、特に憧れを抱いていたのがこの藤林達臣だった。フリーのジャーナリストで年齢は四十路。徹底した取材能力と読ませる文章力を併せ持ち、業界では引っ張りだこだった。何よりも取材に関して「遺族や被害者を傷つけてはいけない」という確固たる信念を掲げ、関係者からも好感を持たれていたという。
「藤林は加賀美の人間ではないが、いちおう加賀美ともつながりがある。それが」
「蛭峡事件……ね?」
やりきれない思いが頭をもたげ、私は額をもんだ。口の中の甘いパンが心なしか苦く感じた。
蛭峡事件――この名前を聞けば多くの人は、私のように暗澹たる思いに心を支配されるであろう。ここ加賀美市蛭峡町にて、五年前に起こった大量殺人事件である。今さら説明するまでもないがいちおう概要を述べておこう。
過疎化の一途をたどる地方都市。加賀美市も例外ではないことは察せられるであろう。かつては町ごとにあった小学校も合併に次ぐ合併で、今や生き残っているのは二、三校しかない。しかし蛭峡小学校が廃校になったのは、少子化とか過疎化とか、わかりやすい問題が原因ではなかった。
五年前。季節は今頃か。午後のことである。穏やかな昼下がりを文字通り引き裂くような、鋭い刃が小学校を襲った。日本刀を所持した男が学校にいた人々を切り殺したのである。通報者は近所の人で、運よく抜け出した児童から助けを求められたという。最初に凶刃の犠牲となったのは警備員だったとのことである。
学校は坂を上った高台にあったから、通りがかりの人が異変に気づくことはなかった。犯人とすれ違ったという近所の人は、鞘に収めていた日本刀をまさかモノホンだとは夢にも思わなかったと証言したが、よく考えればちょっと顔色がまともじゃなかったとも言う。のちの調べによると彼は薬物中毒者だったらしい。そうでなけりゃ小学校に乗り込んで人殺しなんかしないし、顔もフードやマスクで隠していただろう。
児童教師、合わせて六十数人が犠牲になったこの「蛭峡事件」は、戦後最悪の殺人事件と言われる津山事件を上回る恐怖として、長く人々の心にしこりを残している。
「蛭峡って、加賀美だったのね。T県ってことは覚えてたけど」
「ああ、俺も今の今まで忘れてた」
なお男Aは、六十人を殺害したあと屋上で腹を切って自害しているため、正式に法に裁かれることは永遠に叶わない。犯人自殺。この事件がやりきれない一因である。
幸田はしばし考えたのち、パンをいっぺんに口にねじ込むと、すっくと立ち上がって尻の砂をパンパン払った。私も朝食を終え、立った。最後に今一度、商店街にお礼の言葉を述べに行くのも悪くはなかった。
いや、嘘をついた。
私たちはまだ、何も手がかりをつかめていなかった。被害者の多くが加賀美市出身であることは判明したけれど、それがどうしてなのか、私たちは知らなかった。けれどもこれほどたくさんの人が犠牲になって、友人たちが閉じ込められている以上、ただ考え込むばかりで動かないわけにはいかなかった。ただ気を紛らわせたかっただけかもしれないが。
こいつは……私は幸田の横顔に目をやる。
私より焦っているのはこいつに違いなかった。原因を突き止める、と息巻いて山を飛び出した以上、これより犠牲者を出すことはなんとしても避けなければいけないに違いない。それがこいつに与えられた宿命ならば、なおさらだ。
少し歩くと商店街である。さすがにテレビの前から人は消え去っていたが、心なしか人通りが少なくなっていて、一見シャッター通りの様相だった。私は一安心した。事件を知ってほいほい外を歩いていられるほど図太い神経を持った人は、少なくてよかった。
電気屋を覗くと、奥のレジの椅子に体を沈めた武田店長がこめかみをもむような仕草をしていた。客の気配に気づくと「らっしゃい」と暗い声で言ったが、私たちであることに気づいたらしく、驚き顔で立ち上がった。
「おや、あんたら……」
「あらためてお礼をと思いましてね」
幸田は展示のテレビやパソコンをかき分けて進んでいく。
「そ、それはそれはご丁寧にねえ」
武田店長は明らかな作り笑いを施した。とても不自然だった――が、私よりコンマ一秒早くその不自然さに気づいたのは幸田で、私より手が早かったのも幸田だった。
「あなたにひとつ聞きたいことがある」
幸田はレジの天板に、優しく片手を置いた。しかし声色は優しくなかった。
「先ほどネットニュースで正式に被害者の名前が公表されました。あなたに見せた名簿とほぼほぼ一致していたのはネット民のなせるわざといえばわざですね。ですが一大権力には敵いません……ネットニュースには被害者の年齢と、子どもの場合は学年も載っていました。その年齢を見たところ、ひとつ気づく点がありました」
店長は黙々として、幸田の言葉に耳をかたむけていた。それは右の穴から左の穴へ風が通り過ぎるような、空虚な音を聞くような、当たり障りのない表情だった。
「まず前提として、被害者の共通点がひとつありました。それは多くが加賀美市の出身であること、そして小学生から高校生の子どもを持つ家族であるということ。独り身や子どものない人は一人もいなかった。そして問題はこの子どもたちです。小学生の場合、最低でも六年生。高校生の場合は大きくても二年生。小学五年生以下や高校三年生は一人もいないんですよ。これは偶然といえば偶然ですが」
幸田は抑揚もなく、告げていく。私は幸田の言っている意味がわからなかった。が、口をはさむことはできなかった。
「武田店長。あなた、何か隠しているならおっしゃってください。べつに糾弾するような真似をするつもりは毛頭ありません。だってあなたは何も悪いことをしているわけじゃない。彼らの事情を知っていて、死者の面目のために隠しているだけでしょう」
幸田は相変わらず、淡々としていた。私はそれが逆に違和感を覚えた。感情を込めなければならない場面のはずなのに、ただ頭に叩き込んだ台詞を口にしているだけの大根役者のような、声色だった。しかし当の武田店長にとっては、そのほうがありがたかったのかもしれない。
店長はレジスターに大きなため息を吐きかけた。
「あんたは名探偵やね。その調子だと事情も知っちょるんじゃろ」
「まあ、なんとなく見当がついただけですがね」
「間違っちゃいないと思うで」
店長は憑き物が取れたような、笑顔を浮かべた。それは作り笑いなんかじゃない、背負っていた荷物を下ろしたような晴れやかな笑顔だった。
私たちは再び、奥に通された。
「あんたの思っとるとおり。あの面々の子どもらはな、皆全員かの忌々しい蛭峡事件の生き残りじゃ。岡田さんも孝蔵さんも他の皆々も、そうじゃ」
「生き残った子どもは二十五人です。子どもたち二十五人に対して今回被害にあったのは加賀美市の人間は十五人、あなたたちが知らないだけでもっといると考えられますが、全体でも今回亡くなったのは五十人です。子どもの家族を含めるといささか少なすぎると思われますが」
「そこはあんたの勘違いじゃ。岡田さんや孝蔵さんはな、事件のあといたたまれんようなって引っ越していったんじゃ。特に田舎じゃからな。あんたらはどこの子かえ。加賀美の人間じゃないんじゃろ」
「O県の生天目市です」
幸田の言葉に、店長は目を細めた。
「生天目なら、田舎のことはわからんじゃろな。村八分という言葉がある。子どもを亡くした親と子どもが生き残った親が同じ地で暮らしを続けるのはむつかしい話でな。誰も責めやせん。どっちも、誰も責めやせんのにのお」
とても、心が痛くなった。涼しい秋風が窓の隙間からぴゅうと吹き込んでくるのに、冬のように冷たく感じた。もしかしたら加賀美市の人は、関係者にしろそうでないにしろ、誰もがこのような思いを抱えて生きているのかもしれなかった。それほどあの蛭峡事件が及ぼした影響は、すさまじいものがあるのかもしれなかった。
私たちはお礼を述べて、電気屋をあとにした。そろそろ降るだろう、降るだろうと覚悟していたけれど、いよいよ曇り空が鈍色の雨模様に変わっていて、軒に打ちつける針のような雫が痛く聞こえた。幸田は空を確認して、
「この調子じゃ幸左衛門は来ないだろうな」
「そうなの?」
「羽根が濡れるのを嫌うんだよ。すみません、このあたりに蛭峡行きのバス停はありますか」
「そこの道に市バスの停留所があろう。終点じゃからな、乗っとけば着く。バス停には屋根はあるが……せっかくじゃ、来るまで雨宿りしていきなさい」
「いえ、お構いなく」
雨をよけて、店の軒下を飛び石を渡るように進み、バス停のベンチに腰を下ろした。古びた時刻表はかろうじて読めるぐらいで、目を凝らすとあと十五分ほどで蛭峡行きのバスが来るところだった。
私たちはベンチに、拳ひとつ分間を空けて座った。私の幸田に対する悪感情が、山を発つ前ほど残っていたとしたら、人一人分は空けていたはずだった。しかし今は、離れるのが怖かった。ただ断っておくが、決してあいつによい感情を持ちはじめたわけではなく、ただこの町への言いようもない恐怖心がなせるわざだった。むしろ……
私はちらと幸田の横顔に目をやった。霧が町の景色を白くにじませ、濁って見える中、隣の彼の存在だけが、リアルの証明のように感じた。でも……
バスが水しぶきをまき散らしながら到着した。私たちは黙って立ち上がり、お金を払って、最後尾に座った。他に乗客は誰もいなかった。
「終点までは三十分かからない、と」
幸田は言った。乗るときに運転手に尋ねたらしかった。
「おまえはどう思う?」
「幸左衛門くんがいたらひとっ飛びだったろうけど、濡れねずみになってただろうからこれでよかったと思うわ」
「そうか」
質問の意図と違う答えだったであろうことは重々承知だった。しかし幸田は聞き直さず、頬杖をついて走る景色に視線を投げていた。こいつなりに何か考えたいことがあったのだろう。私に意見を求めたのも、こいつらしからぬことだが社交辞令のようなものなのだろう。
こっちは聞きたいことが山ほどある。なぜ自分なのかとか、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』のこととか、そもそもの祓い屋のこととか、整理しきれないことばかりで、質問がうまくまとまらないレベルだった。ただひとつだけ、どうしても聞いておきたかったことはあるのだが、どんな答えが返ってくるのか、恐ろしさを感じていた。武田店長を問い詰めたときの能面のような表情が頭に浮かんでは消えて、また浮かぶ。
「幸田」
「なんだ」
「あのー……」
「なんだよ」
「あの」
言葉が出てこない。オリエンテーリングのときとも、さっきパンを一緒に食べたときとも、いやもっと前に、教室で班の集まりがあったとき、サボったこいつを呼びに行ったときとも、違う。なぜだ。
「あんたね」
「早く言え」
幸田はいよいよ堪忍袋の緒が切れかかっているらしく、頬杖をやめてこちらを向いた。私は前を向いたまま、極力あいつの顔が視界に入らないように気をつけながら、
「あんた今回林間学校先で異常事態が起こって、モーツァルトが鍵になること、ずっと前から知ってたんでしょ? なのになんで、手遅れになるまでに弾きはじめなかったの?」
あいつの顔は見えない。好都合だった。
「バス停で待ってるとき、早苗からチャットが来たわ。明日香は生死の境をさまよっているそうよ。ふれあい館の人に事情を説明してなんとかまともな救急器具を用意してもらってるらしいけど、時間の問題らしいわ。なんで……」
「それ以上言うな」
貫かれた。
それでも止められなかった。
私は喉の奥で息を飲み込み、心臓を貫く氷の剣を溶かさんがごとく、炎のようにまくし立てた。
「明日香だけじゃないわ。A組の斎藤くんは陸上部で、大会が近いのよ。奈緒子はウィンターカップのスタメンなのよ。ゆかりはトロンボーン担当なのよ。みんな、足や手に怪我を負ったわ。いつ回復するのか、また走れるようになるのか、楽器を持てるのかわからないのよ。私だって……」
「それ以上言うな」
今度こそ、ダメだった。
冷え切った剣は、小娘の火で消える程度のものではなかった。祓い屋という異界の響きのものは、私の精神にまで干渉してくるのか。いや、これは稼業ではなく、あいつ自身の性が生み出した魔性の武器なのか。
しかし火は無駄ではなかった。少しずつ溶かされ、目から水としてあふれてゆく。
「どうして……どうしてよ」
私がもっとしっかりしていれば。私が鶴のような、みんなを奮い立たせて、どこからでもいい、窓でもなんでも、避難させられるぐらいの威信を持ち合わせていれば、こんなことにはなかったのか。
泣きじゃくる私を慰めようともせず、拭くものを差し出すこともしない男。ただ私は前を向いたまま涙を流し続け、幸田は再び頬をつき、外に意識を飛ばしていた。
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