第33話




 まず今までずっとお読みになってくれた方々へ心よりの感謝と、その深き懐に御礼を。


 このお話より、かなり雰囲気が暗く陰惨なものへと移っていく可能性が多分にございます。ですがあくまでこれはノンフィクション。起きたことを。私の言葉の限りを尽くして、ただ淡々と。書き連ねていく所存です。故に、ご気分を害されたり、読むに値しないと判断された場合は、どうぞ、そのままご退場くださいませ。





 ――地獄の蓋が開いたまま、知らぬ振りをしていたら、何時しかその縁に立たされていることに、私自身は気が付かなかった。



 


 時に、平成二十二年の夏の盛り。私の勤めるレンタル会社の神戸支部で、一番奥の所長の事務机に私は座って居た。


 その前日まで、私がこの椅子に座るなどと、誰も想像することは無かったと思う。何しろ、私はレンタル事業の作業員で、大阪支部立ち上げの第一号要員なのだ。実際、この神戸支部にも研修と名目上なっているし、給与に其の為の手当も頂いている。……事務員はこの事務所に居るし、元から居た先輩社員も何人も居るのだ。だから当然、私が事務作業を覚えるためなら、事務員の隣で良いわけだし、もっと言えば机や椅子すら必要ない。都度パイプ椅子で彼女の隣で話を聞けば良いのだし、実際何度かそう言うやり方で事務作業の勉強もしていた。なのに……。



 ――、私にこの支部の所長になれと、何故社長は言ったのだ?


 確かに、この神戸支部、よくよく見れば本社で「研修」を受けた人間が私と彼以外居なかった。前の所長は転勤族だったし、先輩たちに至っては現地採用の、現場しか知らない人たちばかり。聞けば、元々居た「研修済み」の他の社員は既に離職していて、人手が足りず、急遽前所長がかき集めた「即席栽培」ばかりだったのだ。そうして内情を知れば知るほど、彼が追い込まれていった原因がよく見えた。そしてこの机に乗ったパソコンからしか見れない情報を読めば読むほど、吐き気と頭痛で気分が悪くなっていく。日々日報代わりに届く社長からのメールには『立て直し案と大阪立ち上げ要員の確保状況を』とが添えられ、引き継ぎすら受けていない私にどうしろと? と心の中で叫びながら『……現在、鋭意制作中です。人員につきましてはもう暫くお待ちいただきたく――』と、こちらも定型文を送り返していた。


 日々続くストレスと、家族との会話の減り具合に奥さんのストレスが爆発したのはその頃だ。極力会社のゴタゴタを持ち帰るのを嫌った私は、日々のサビ残がとんでもない事になって居た。朝は六時前に出社し、帰宅は毎日午後十一時を過ぎていた。当然ながら子どもと話すこともなく、週に一度の休みはほぼぐったりとして、家族サービスどころではない。見かねた奥さんは何度も「仕事、考えてもいいよ」と言ってはくれたが、何度も繰り返した引っ越しや、子どもの出費で、既に貯金は使い果たしている。現在の財布の紐は奥さんに任せていたが、私だけの給料なら憶測は出来る。そうした色々なことが日々怒涛に押し寄せて、いつからだろう、食は細くなり、便秘状態が続いたある朝、私の顔を見た奥さんが大きな声で私を怒鳴りつけたのだ。


 ――いつから、仕事があんたの嫁になったの?! もう、ウチらが要らんのなら、はっきり言ってよ!



 ……冷静に聞いてみれば、なんと理不尽な怒号だろうか? 別に私は家族を蔑ろにしたつもりは無かったし、それ以前に家族の生活の為に必死に、必死に……会社にしがみついていたのに。


「……要らんわけないやろ! ってか、家族のた――!」


 そう、はっきり覚えている。この時私は「た」までしか発音できなかった。突如襲った腹痛が、あまりに痛すぎて吐いてしまったのだ、血の混じった吐瀉物を――。



 次に目覚めたのは見知らぬベッドの上だった。体がだるく、思うように動かない。何だと思って見回せば、沢山の透明な袋がぶら下がり、そこから伸びた細い管が私に向かっているのに気がついた。思わず「何だ?」と口にしようとするが、うまく口が動かない。そうしてただもぞもぞと蠢いた所で、不意に声が聴こえてきた。


 ――気が付かれました? ここは病院ですよ――。


 腸イレウス――。

 腸閉塞の一つで、単に腸が捻じれてしまう症状ではなく、麻痺性を伴うものを区別するらしい。特に私の場合、便秘状態を唯のストレスだと勘違いし、それを放置し続けた結果、腸の一部が壊死してしまっていた。結果、小腸を一メートルほど切除し、腹部切開のために身体に力が入らないのだと説明された。


「……ごべんなさいぃぃ」


 看護師が外に出て、医師を連れて戻ってきた時、顔をグシャグシャにした彼女奥さんが、息子を抱きながら謝ってきた。……だが今回の件は勿論彼女のせいではない。だから「違う」と言いたいのだが、何故か異常なまでに疲れて、ただ手を握るしか出来なかった。医者が「まだ麻酔が切れてすぐだから、声が出しにくいんだと思います。腹部も切開しているので、横隔膜も少し切っています――」と何やら専門用語を絡めて彼女に説明しているが、息子がもらい泣きして私に抱きつこうとするのを見て居ると、自分が少し情けなくて、涙が零れそうになる。


 それから二週間と少し、私は入院をした。流石に彼女にとっては、ショッキングだったろう。ブチ切れて文句を言ったと思えば、眼の前で血の混ざったゲロを吐き、ぶっ倒れてしまったのだ。よく、救急車をきちんと呼べたと褒めたら「まじで死んだと思った……」と涙をにじませながら怒られた。



 ――身の丈に合わなかったんやと思う。


 退院して自宅に戻った私が、妻にそう打ち明けると「……わかった。もうは見たくないもん」と返事が来た。



 平成二十二年、十月。息子が幼稚園に入園したこの年、私は急いで次の就職先を探す羽目になってしまった。




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