第32話



 ――忙しなく、慌ただしく過ぎる日々に充足感を感じていると、ソレは背後と言わず、影と言わず。ただ音も気配もなく忍び寄り、気づけば総てを呑み込んで、絶望の底へと叩き落としてほくそ笑む。




 時に平成二十二年。私達家族は兵庫県神戸市最西部に有る、明石市に隣接した地域に生活の拠点を移していた――。


 正直に言って、私の認識は甘かった。元々大阪府の大阪市内に暮らした私だが、神戸市がこんなに横に長いとは。皆さん、神戸と聞いて思い出されるのは殆どの方が中心地である三宮などを含む中央区や、所謂富裕層の暮らす芦屋などでしょう。あ、因みに「姫路城」は姫路市であって、神戸市では有りません。まぁ、芦屋も「市」であり、厳密には違うのですが。では、神戸「市」はどの様な物かと言えば、まず東灘区、灘区、中央区と呼ばれる、皆さんのよくご存知で、想像できる「神戸」です。が、しかしてその地域は正直言って神戸市の約三十%も満たない面積です。勿論三区合わせてです。実は神戸市、最大の地区面積を持っているのは「北区」と呼ばれる地域であり、次いで「西区」と呼ばれる、都会田舎が存在するのです。兵庫県という縛りで見ればそこまで大きいのかと疑問を挟む余地はありますが、皆さんよく聞いて下さいね。なんとこの兵庫県。


 ――日本海側と、太平洋側の両地域にまで跨る、唯一の県なのです。


 まぁ、土地面積の大きさ云々は賛否あろうと思いますし、実際の厳密なことは私も知りません。あくまでこれは私の感じたイメージなのですから。ただね、同じ神戸市でありながら「ちょっと三宮へお買い物に――」なぞ軽々しく言えない距離があるのは確かです。


 えぇ、そうです。私が暮らした「神戸市」は西区であり、市内であるにも関わらず、最寄り駅は「明石駅」でしたから。



 閑話休題。



 さて、まさに心機一転。生活の拠点が変わり「レンタル業務」としての私の研修が始まりました。所長として赴任した彼は、元々そこに駐在していた、前所長からの引き継ぎや挨拶回りに忙しく、また私も、機器のレンタル業務自体は未経験だったので、支部の社員さんに付いて一から学ぶ日々。そこではやはり、工場で経験した機器の構造やその原理を把握していた為に、使い方自体はすんなり覚えられました。


 ……唯、私はこの時、自分の業務に追われて、のです。この会社の昔ながらの上の連中は、一匹狼だという事を。


「おはようございま……▢▢、どうした?」

「……へ?! あ、おはようございます」


 何時ものように出勤すれば、一番に彼が出社している。事務所の机でパソコンを睨みつけ、キーボードを叩いては溜息を零し。初めは聞いても教えてくれなかったが、その夜、現場の最終確認後、事務所に一人残った彼を捕まえて「顔色が悪いぞ」と言った所で、ポツリと溢し始める。


 ――前所長、かなりやらかしてたんです。


 それは帳簿の確認作業中の事だったらしい。何社かの貸出伝票と、請求書の金額がどうも合わず、何度も調べていた所、前所長が「あぁ、そこは『信用貸し』してるから」と言い出した。


 ……信用貸し? いや意味は理解しているし、その内容も分かっている。ただ、ならばどうして最終金額で、帳尻が合わないのだと聞き返したところの返事がこうだった。


 ――ん? 何言ってるんだ? 信用貸しなんだから、料金の上積みなんてねぇよ……。


 彼の開いた口は、しばらく閉じられなかったそうだ。そりゃぁそうだろう。それは信用貸しではなく、唯だけだ。それを懇切丁寧に説明した所、その人はこう返してきた。


「……ははは、それこそが「営業」だろうが「損して得取れ」って意味知らないのか」

「……ですが、調べた所、この会社だけで一年分以上の――」

「細かいなぁ! んなこと言ってたら、この業界務まらねぇんだよ。競合他社が何社有ると思ってんだ?!」

「……それは解りますが、ならこの損益はどの様に――」

「んなもん、所長が身銭切るんだよ。俺だって幾ら切ってきたと思ってんだ? あ、そうそう、その金額、後で請求するんでよろしくな「所長」」



 ……大の大人が、声を殺して俯き、ブルブルと肩を震わせて落とす涙の雫。



 それこそ血の滲む努力を重ね、七年と言う歳月をかけて、やっと戻ってきた地元で、心機一転頑張ろうとした矢先、彼の努力は粉微塵になってしまう。私がいくら「いや、それってお前が被ることじゃないやろう!? 大体それって虚偽決済やんけ! 本社に報告して――」と言ったが、そこで彼は首を振り。


「……年度決算が終了してて、尚且つ、その埋め合わせはんですよ。……つまり」

「つまり?」


 ――書類上の不備や、虚偽ではないんです。……ただ、あの人が個人で埋めてただけで。


「何やねんそれ?! じゃ、じゃあ逆にその請求書を無視すればいいだけ――」

「……引き継ぎ終了時点で、引き落とされてました。だから、今期分の請求書にズレが生じてるんです」

「はぁ?! いや待てよ! それって犯罪ちゃうんか? 横領? 背任? なんか、なんかそんなんじゃないのか?!」


 ――この時ほど、自分の学の無さに、どれほど腹立たしかったことか。彼は一切何も悪くないのに、その内容すら聞いているのに、なら社長に直談判しようと、息巻く私をまたも彼はゆっくり首を振り「いえ、それは止めましょう。大事おおごとにした所で、あいつの首が飛ぶだけです。お金が戻ってくるわけじゃない」「いや、それこそあいつから取り返せば――」


 ――いえ、そこは仕事で見返したいです!


 そう言い切った彼の目は真っ直ぐで、年下であるにも関わらず、私は彼に『おとこ』を見た気がする。



 私達は死に物狂いで頑張った。本社に「新型」の機械を発注し、デモをして回ったり、販売にも注力した。特に彼はそちらが本業だったため、毎日営業車で走り回っていた。



 そうして、四半期決算の合同会議で、彼は「辞表」を提出した――。

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