第37話

   二


 和議の交渉に異を唱える最初の王との談合はそれほど苦労しなかった。

「よいか、先を手を出してきたのは奴らなのだ」「そも、地獄の亡者が上手く収まっておるのは我ら十王がおればこそ、異国(とつくに)の言葉も介せぬ者の指図ではなにひとつ上手くゆくはずがない」「かつて闇羅瞞喩(あんらまんゆ)なる異国の魔王と軍勢を跳ね返したこともあるのだ、こたびもできぬはずがない」

 同じ話をくり返しながら、十王のひとり太山王(たいざんおう)は談合ではなく祝詞を捧げるがごとくひとりでしゃべりにしゃべり一刻半は声を発し続けた。

「どうだ、南蛮浄土との和議などありえぬこと承知したか?」

 その最後に、得意満面の笑みで太山王は問いかける。とたん、岩布が無邪気な顔で口を開いた。

「わかりませぬ」

 瞬間、は、と太山王は声とも息ともつかないものをもらして目を点にする。

「なんともうした」「だから、わまりませぬ、ともうしあげました」

 信じられないという顔をする太山王に、岩布は満面の笑みで返した。

 これは、事前に道鬼斎が立てた太山王への策のひとつだ。道鬼斎は生前、信玄に使者を任されたこともあり、当然そういった局面では交渉の技量というものが求められた。城下で太山王への風聞を集めた勘助は磨き上げた交渉の術でもってこの場に臨んでいるのだ。

 太山王のように一方的にしゃべりつづける者にはまず重い楔を打っておくことが肝要だと、道鬼斎は事前に説いていた。そもそも、城下をおとずれたメルショルたちは茨木童子の挨拶まわりに同道して太山王についての人柄その他の話について多数の者から聞き出していた。

「わかりませぬゆえ、もう一度、お話しをお聞かせください」

 岩布は無邪気な声で求める。

「慮外なことを」

 眩暈を感じる、そんなようす太山王はで額に手を当てる。その仕草は演技ではなく、心からのものであることは表情のあきらかな変化からして明白だった。

「わしは暇ではない、今は南蛮浄土が攻めてきておる最中ぞ」

 次の瞬間、太山王は目を吊り上げ声を張り上げた。

「されば、約定を反故(ほご)になさるともうされるのですか?」

 とたん、千代女が悲しげに問いかける。

「約定? なんの」といいかけて、太山王がなにかを思い出した顔つきとなった。とたん、その眉間に深いしわが刻まれる。

 そう、確かに“約定”はなされていた。事前に、

「承知されておらぬ王としかと談合いたしたことの閻魔王への証左とするため、この書状に手ずから名を記されてくだされ」

 といって勘助がそういって差し出した書面には、『この談合は双方がとことん得心がいくねばなされねばならない』と記されていたのだ。太山王は、理はこちらにあるのだ納得させるのはたやすかろう、と前記の一文を軽く見たのだろう。油断大敵だ、不利な立場にある者が知恵を絞らないはずがない。

 しかし千代女はいう「人というのは面白いもので、みずから書いた事柄の中身に支配される。知らずのうちに従おうとし、それに抗うと負の感情に襲われるのだ」。それは鬼にも当てはまる、とメルショルより先に地獄に落ちて閻魔王のもとで忍び働きをしてきた千代女は確証を得ていると断言した。

 太山王は楔を打たれた上に鎖で縛られた。言の葉のせめぎ合いであっさりと追い込まれたのだ。談合も戦いだという事実の認識が欠けていた太山王の不見識が招いたのが今の状況だった。

「仰せの儀はわかりませぬ。されど、陛下が十王の中でも抜きんでた武勇を誇ることは承知しております」

「う、うむ」どう返答いいいかわからなくなっているところへの称賛に太山王はとっさにという風情で首肯する。

「唐土から大八嶋への陣払いの折も、殿(しんがり)をつとめられ万余の敵を単身、撥ね退けたとか」

 殿をつとめたのは事実だが、単身というのは嘘だ。が、千代女の言葉に太山王は小鼻をふくらませた。「ま、まあな」

「されど、陛下は武勇だけの王ではないとか。元服したばかりの鬼の若武者の死に涙を流されたとか」

「恥ずかしゅうことをもうすでない」

 単純だが、いい気にさせるというのは、心をあやつる手管としては有効なもののひとつだ。

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