第29話

「さようなものが地獄におるのか」

「存外に娑婆にいる禽獣の多くがこの地獄にもいるわ」

 千代女の返答に、ふたたびメルショルが脳裏に描いていた地獄像が修正されることになる。地獄といえばもっと恐ろしい畜生ばかりが跋扈しているものだと思っていたのだが。

「あなたも和睦の調停役の仲間だから、この役目に役立つ細作の心得をひとつ教えてあげるわ」

「それは」

「思い込みを無くせ、よ」

 千代女の返答に、メルショルはあっけにとられ眉をひそめる。

「当然のことではあるけれどそれはむずかしいものなのよ。その道に通じた者は、様々な知恵を蓄積させたぶんそれらに縛られる。一〇の口伝(くちづて)によって作り上げた推量は、同じく一〇の反証を突きつけてもくずれない。五〇、一〇〇の否定の材料がないと得心できない」

「そんな数の反証が入用なのか」

「そう、だからこそわたしと道鬼斎はできる限り多くの推量を出した」

 千代女の言葉に、夕餉のときの道鬼斎と千代女のやり取りがよみがえった。その重要性が今になって実感できる。

「また、人は八つ以上の異なる口伝(くちづて)を耳にするとこれらを巧みに御することができなくなる。口伝をおのれの手におえるような量に減らすために好みに合う物ののみを残してあとは無視するなんてこともする」

 まさか、さような、といいかけてメルショルは口を閉ざした。

 豊後を中心に起きていた仏門と切支丹の衝突はお互いへの誤解や偏見で起きたものも少なくなかった、異国(とつくに)の酒が血と間違われたことや、仏門の者は誰もが衆道にふけているという伴天連の思い込みなど、どうしてそんな思い違いが起きるのかと徒労感をおぼえることの連続だった。

「思い当たるようなことがあるようね」

 千代女が同情と寂寥が入り混じったような笑みを見せる。

「人は生きていても色々あるけれど、死んでも色々あるようなだから精々、力を尽くすことにしましょう」

「ああ」千代女の言葉にメルショルはとりあえずうなずいた。

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