第16話

 夕餉のあと、小用で宮殿の廊下を歩いていたメルショルは角の向こうから恫喝の声がひびいてくるのを耳にした。

「おい、こんなところをなんで薄汚い蜘蛛が歩いている」

「床が泥や煤(すす)で汚れるだろうが」

 なんだ、といぶかしみながらメルショルや歩みをやや早めた。

 角を曲がって視界に入ってきたのは、二匹の鬼に行く手を遮られている地蜘蛛の岩布の姿だった。

「おいらは閻魔王の下知で和睦のために働くことになった地蜘蛛だ、それで閻魔殿にいる」

「嘘をもうすな、陛下が地蜘蛛などにさようなことを命じるか」

「地蜘蛛にさような大役が果たせるはずがなかろう」

 岩布の言葉に鬼たちは聞く耳を持たず嘲りの言葉を投げるばかりだ。眼目が嫌がらせにあるのは明白だった。

「その仁がもうすことはまことだ」

 とたん、腹に熱をおぼえてメルショルは大きな声を発している。そして、足音荒く岩布に並び立った。

「なんだ、うぬは」

 軽く鬼がこちらを小突こうとする。

 刹那、メルショルは剣術の動きを無手で再現して腕を払った。それに鬼はたたらを踏んだ。

 虚を衝かれた鬼は目を丸くする。そして、メルショル自身もおどろいていた。

 三途の川のほとり、賽の河原では鬼の怪力を前にとにかく触れないよう、捕まらないようにするのに奔走させられたのだが、これなら必ずしもそんな戦法をとらずに済む。

「“黄泉戸喫(よもつへぐい)”の効用だよ。彼岸の物を口にすると、人も鬼ほどではないけれど、大力を得られるんだ」

 ほかにも鬼道を使えるようになる物が稀にいる、と岩布が状況を忘れたように得意げに説明する。自分の知っていることを教えるのがどうにもうれしいらしい。

「黄泉戸喫(よもつへぐい)、だと」

「おぬし、陛下が呼んだ和睦の使者の役を命じられた者か」

 やり取りを耳にした鬼たちが顔色を変えた。このままだと面倒なことになるかもしれない、そんな心情がうかがえる。

「さようだ。お手前らが我らを虐げることは、陛下の意に異議を唱えることも同じだろう」

 首肯した上でメルショルは相手を脅迫する言葉を吐いた。

「知らぬことであったというなら、こたびの儀はことは水の流すゆえ早々に立ち去られよ」

 メルショルの用意した逃げ道に、「ふん、人めが」「偉そうに」と毒づきながらも脇にどいたメルショルと岩布の横を通ってその場から姿を消した。あくまで“閻魔王の権威に屈した”という形をととのえることでメルショルは相手の矜持を保ちつつ退けられるのでは、ととっさに考えたのだが正解だったらしい。

「ふん、鉄砲があればあんな連中、吹き飛ばしてやるのに」

 吹き飛ばす? と不機嫌な声をもらした岩布を見やった。

「おいらは鬼道が使えるのさ。それは銃丸に爆発する力を与えるものなんだ」

 鬼なんて粉みじんだ、と岩布は自慢げに小鼻を膨らませる。

「さようなことができるのか」

 素直にメルショルは驚愕した。閻魔王が仲間に選んだ者とはいえ、鬼のように一見してその迫力で強さが分かるような外見ではなかったため内心、地蜘蛛の同道に疑問をおぼえていたのだ。

「そうさ、あんたは大船に乗ったつもりになってくれていいよ」

「さようか、それは頼もしい」

 無邪気に言い放つ岩布にメルショルは苦笑いしながらうなずく。なんだか子どもを相手にしているような気分になっていた。

「地蜘蛛は義理堅いんだ、一度助けてもらった恩は一生忘れない」

「さような大げさなことでもないと思うがなあ」

「いや、助けてもらって、嬉しかった」

 メルショルのせりふは本音なのだが、岩布は大きく首を左右にふる。

「改めて、よろしくな」「こちらこそ」

 語気強く告げる岩布に笑みを深くしながらメルショルは応じた。

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