兄と許されない過去2
クラシック音楽が流れる。
優雅な昼下がりだった。
店の外を流れゆく人並みは忙しない。
弦楽器の演奏に耳を傾けるが、なにせ教養がないのでなんの曲かわからない。
妹なら知っているだろうか。
彼女が指定した時間からは十分遅れている。
興はたまたまこの場所に近いところにいたから、約束よりかなり早く着いていた。
苛立ちよりも心配が勝つ。
彼女が選ばなそうなこの店を選んだことも含めて嫌な予感がする。
くぐもった鈴の音がして、入り口に目を向けると茶髪の小柄な女性が入ってくる。
彼女は興を見つけると、気まずそうに視線を彷徨わせた後、目線を落としている。
「わざわざ休みの日に……すいません」
声を聞かなくてもわかったことだが、彼女はだいぶ沈んでいる。
朝子は静かに座ると、注文をとりに来た店員にアイスティーを頼んだ。
注文が届くまでのほんのわずかな間だったが、二人の間に沈黙が広がる。
興は朝子の表情を見て、朝子は興の気配で、お互いの気持ちを探ろうとする。
表面に水滴のついたグラスが置かれて、朝子は小さくお礼を言った。
それから鞄を漁る。鞄から出したなにかをそっと机の上に置く。
写真だった。
よく知る顔がそこにはあった。
「戸田伊織……知ってますよね?」
興は戸惑う様子も見せずにじっと朝子を見ている。
朝子は思わず俯いてその視線を避ける。
「私の、兄です」
BGMが変わる。この曲はそう、椿が弾いていた。幻想即興曲だ。
「知ってますよね?」
さっきよりはっきりと言う。彼女の声は、誤魔化すことを許さない。
「ああ……知ってる。親友だ。」
朝子は唇を噛んだ。
膝の上で拳を強く握って顔を上げる。
「お兄さんが死んだのは、俺のせいだ」
興の言葉に朝子の顔が歪む。
「なんで……なんでですか。」
朝子は今にも泣きそうな顔で聞く。
「なんとかするって言ったんじゃないですか。」
「そのつもりだったんだ。組織のことを突き止めて、あいつを解放しようとした。けど、俺がいろいろと調べていることがバレて、あいつは……」
「兄は、自殺じゃなかったんですか?」
声を詰まらせながら聞く。朝子はまだ泣いていなかった。
「自殺だよ。」
興は強く目を瞑って息を吐く。
「組織は君のことを調べた。それでお兄さんのことを脅した。余計なことするなって。」
「それって……」
興が組織を壊すための証拠を集めていることがバレて、兄は追い詰められたというのか。
そこに、朝子まで利用されていたとは。
朝子の命が惜しければ、裏切らな、と。
まさか、私のために。
「俺がもう少し慎重にしていれば……」
興の言葉に朝子は顔を見ないまま早口で言う。
「そもそも、そんな無茶なこと……あなたにも身の危険があったんじゃないですか……なのに、なんで。」
言ってはいけない。止まろうとする朝子がいる。でも、止まらなかった。
「あなたが、なにもしなければ兄は生きていたかもしれません。」
重苦しいピアノの音が響く。
「お兄ちゃんも、あなたも……最低です。」
息が詰まる。
ギュッと目を瞑った朝子は立ち上がって机の上に置いた写真を手に取る。
「もう、会いません」
そう言って立ち去ろうとする。
興が口を開く。
朝子は興に背を向けたまま立ち止まる。
「方法は良かったとは言えないけど、お兄さんは君を守ろうとした。それだけは誇ってやってほしい。あいつのことを……責めないでくれ」
目に溜まった涙が溢れないように、力を入れて朝子は店を出る。
店には朝子の乱暴な足音だけがいつまでも反響したように残っている。
そう言えば、お金を置いてこなかった。
人混みの中でふと立ち止まって、そう思いついた。
誰かがぶつかって朝子は謝る。
再び歩きながら考える。考えないようにしたってしょうがないから、考えて決着をつける。
興は悪いことをしただろうか。朝子に興を責めることができるだろうか。
友人のために、無関係の自分の命を賭してくれた彼を結果が悪かったから責められるだろうか。
でも、結果、兄は死んだ。もう二度と戻ってこない。
そんなことのために死ぬ理由はなかったのだ。どれだけ追い詰められていても、たとえ兄が逮捕されようと、生きていればよかった。
どんなことがあろうと、兄は兄だった。
あーあ、私失恋したよ。お兄ちゃんのせいで。
自分が嫌いで、恋愛なんてできなかった。自分に自信のない人間に恋愛は向いていない。そもそも人を好きになれないのだ。
だから、運命の人だと思ったんだけどなあ。
涙を拭う。
止まらない雫が、朝子の足取りを覚束なくさせる。
すれ違う人が二度見する。
だんだんと詰まる息に足元がおぼつかなくなって、歩く人とぶつかる。
ぶつかった人は朝子が泣いているのに気づくと気まずそうに顔をそらして足早に行く。
右肩が誰かにぶつかる。
若い可愛らしい声が「ごめんなさい」と焦ったように謝る。
朝子も思わず返す。泣き顔のまま。
その顔を見た少女が小さく声を漏らす。
細い体を制服で包んだ可憐な姿。純粋さと少しの大人っぽさをもつつぶらな瞳がこちらを見ている。
「えっと……戸田、朝子さん?」
「え?」
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