兄と許されない過去

久しぶりの休日だった。

今日は気分がいい。

なんでってすっきりとした朝に、すっきりとした目覚めだったから。

体にまとう眠気はすべて布団に置いてきた。それくらい体が軽い。

眠る前も、ご飯を食べるときも、仕事中でさえ、興のことが頭から離れない。

これが恋ってやつ……?朝子は肩をすくめて笑う。

頭の九割が仕事でいっぱいで、プライベートなんてほとんどないも同然だったから、時間的にも、精神的にも恋愛をできる余裕はなかったはずだ。

でも、うちから湧き上がる気持ちだけはどうにもならないらしい。

ぎゅうぎゅうに詰まった心の中で、嫌いなものを押しのけながら膨らんでいく。

たとえ相手が若い社長だとしても、自分に釣り合わないと思っても、気持ちは止まらない。朝子の心には悲観的になれる隙間はない。

こんなに前向きな自分は久しぶりだ。

仏壇の前に座って手を合わせる。

いつもは神頼みでもするような思いで、亡き兄に助けを求めるような気持ちでここに座っていたのに、今日は「うれしい報告」と心の中でつぶやく。

「やめなさいよ、告白されたわけでもないのに。」と心の中で自分をたしなめる。

でも、人を好きになるっていいことでしょう?

秋晴れの高い空も、どこからか飛んできてベランダに積もる落ち葉も、全部が自分を祝福しているみたいだった。

いつもはバナナか、味のない食パンで済ませていた朝食を、サラダと目玉焼きを加えて豪華にしてみる。

食べ終わって、たまりにたまった家事を一通り終わらせて時計を見ると、まだ昼前だった。

少し早い昼食にしようかと思ったが、お腹は空いていない。

部屋をぐるりと見渡して朝子は思いつく。


「よいしょ……おっと。」

納戸の高いところから、大きな段ボール箱を引っ張り出す。

バランスを崩したのは、それが見た目に反して軽いせいだ。

そこには大きく兄の名前が書いてある。

母の字だ。習字の先生であったはずの母の字は綺麗だけれど、朝子からすれば、殴り書いたんだろうな、とおもわれるものだった。

どうせならもっときれいに書いてあげればよかったのに。

亡くなったとき、もうすでに一人暮らしをしていた兄は、かなり貧しい暮らしをしていたらしく、部屋に置いてあるものは少なく、処分せずに残しておこうと思った物は思ったより少なかった。

なぜそれを朝子が持っているのか。

それは両親がすべてを捨てようとしたとき、朝子が止めたからだ。

両親が兄に対して複雑な気持ちを抱いているのは言うまでもないが、それは朝子も同じことだった。自分で引き受けておきながら、今まで開けることもできなかった兄の形見に今、手を付けようとしている。

兄が亡くなってから何年たっただろうか。兄はそのとき十九歳だった。だとすればまだ五年もたっていない。

恋愛と言う単純な理由で兄の死と向き合うことになる自分が、単純で恥ずかしくもなるけれど、兄はきっと許してくれる。兄は優しかったから。そう、朝子が知っている兄は優しかったのだ。

クラス委員を務めるくらいの兄だったけれど、まじめと言うわけではなく、朝子からすれば、世渡り上手という感じだった。

小学生のころからやんちゃはしていたし、「子どもみたい」と朝子があきれることも少なくなかった。

それでも、兄は朝子にとってはずっと兄だった。困っているときは助けてくれるし、いつも朝子を思いやってくれる。いつも明るくて、笑顔の兄は朝子のあこがれでもあった。

それは、ほかの人にしてみても同じことだった。

兄は誰かをいじめることもなかったし、一人ぼっちの子を見れば必ず輪の中に入れる。誰に対しても平等で、一緒にいる人を笑顔にする。いつも輪の中心にいた。

勉強もある程度できたし、運動はものすごくできた。

先輩や、先生たちからも愛されていた。両親や親戚、近所の人たちからも。

だからこそ朝子は「とろい」と言われていじめられたりもしたのだけれど。

兄が死んだ理由は人づてに聞いたから、すべてを知っているわけではない。

聞いた話によると、大学進学を機に上京した兄は大学で悪い人――薬物とか、未成年飲酒とか、そういうことをする人たちと仲良くしてしまったらしい。

兄はそこで詐欺らしき犯罪に手を染めて、それを苦に自殺してしまった。

誰かを傷つけることは決してなかった兄にとって、誰かからお金をだまし取ることはなによりも許しがたい苦痛だったのだろう。

直前まで兄と連絡を取っていた高校の同級生から、兄がだんだん憔悴していたこと。自分たちじゃどうにもできないくらい思いつめられていたことを聞いた。

兄が犯罪の片棒を担がされていた組織は、後になって警察によって幹部が逮捕され、解散となったらしい。そのことをテレビのニュースで見た。

名前こそ知らなかったが、兄の同級生からそれが兄とかかわりのあった組織なんだと聞いた。

そのやり口はむごたらしいものだった。学生証などを取り上げ、裏切ったら家族に言う、警察に言う、などと脅して逃げられないようにする。

それを知ってもなお、犯罪に手を染めた兄を両親は許さなかった。

兄と連絡を取っていた同級生がもう一つ言っていたことがある。

亡くなる一か月ほど前、兄は一度、嬉しそうに電話をしてきたそうだ。

「あいつが、どうにかしてくれるって!」と。その『あいつ』というのは、兄と仲の良かった別の同級生のことだが、朝子は名前を憶えていない。

しかし、亡くなる直前の兄は「あいつが余計なことをしたから」と恨み言を残したそうだ。それが兄からの最期の電話だった。

彼がなにか兄の死にかかわっていることは間違いないと、同級生はそういった。

名前こそ憶えていないが、その人のことは少しだけ覚えている。

かなり荒れた、いってしまえば不良として有名だった。

先生に反抗してトラブルを起こすのは日常茶飯事。時には危ない組織の人とかかわったりもしていた。いつもどこかしらに傷をつけていた。

そんな彼と兄のかかわりは、二人が所属している剣道部でだった。

素行は悪いくせに剣道の腕前は確かで、県大会で表彰台に上がる兄でもかなわないときがあった。最も、彼は試合には出してもらえなかったようだけど。

兄は彼のことを嬉しそうに「ライバルだ」と言っていた。

兄は持ち前の明るさで彼の心を開かせると、彼の悪行も少しは収まったと聞いている。

兄と彼が二人でいるところは朝子もよく見かけた。

朝子は彼が許せない。


兄の部屋の片付けをしたのは母だから、ダンボールに何が入っているかを朝子は全く知らない。

賞状や卒業アルバムが顔をのぞかせる。

アルバム類は中を見るのが憚られる。

箱の下の方にいくつかの写真立てが裏返して置かれていた。

一つを裏返すと、そこには小学生の頃の朝子と兄が写っている。朝子が習っていたバレエの発表会で撮った写真だ。

バレエは決して上手くなかったし、舞台に立っても端役だったからすぐ辞めてしまった。

兄は、こんな私を自慢の妹だと言ってくれていた。

二つ目の写真立てを裏返す。

「あれ?」

そこには高校生ごろの兄の姿がある。たぶん、剣道の大会だ。

歯を見せて眩しく笑う兄の横にいるのは、絆創膏だらけの顔に不機嫌そうな表情の男。

朝子はその顔に釘付けになる。

まさか、兄を追い詰めたのは……

「興さん……」

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