椿と因縁
「まどか先輩!」
椿が声をかけると、前を歩いていた背中が振り返る。
その瞳が椿の姿を認めると、優しく笑う。
「髪切ったんですね。」
駆け寄った椿が言うと、口角を思いっきり上げてはにかむように笑う。
「よく気づいたね。」
「一瞬、誰かわからなかったです。」
実際、スカートではなくスラックスを履いて、すらりと身長の高いまどかを男子と見間違えるのも無理ない。
「失恋ですか?」
椿はからかうように言う。
「まさか。」
まどかは恋愛しない主義だった。
はっきりそう口に出したのは一度だけだったが、言動の端々ににじむものがあった。
「でもびっくりしました。」
「なんで?」
「先輩のトレードマークって感じだったので。」
まどかと言えば、つややかな長い髪にポニーテールというイメージだったから。
「確かに、ずっと長かったからまだ慣れなくてそわそわしてるけど。」
勝気な眉尻が下がって笑う。
「でも似合ってます。イケメン!って感じ!」
「椿は髪切らないの?」
「結構勇気いりますよ。」
まどかがなにか返そうと口を開いたとき、高い声がまどかの名前を呼ぶ。
「まどか先輩!」
声の方には陸上部の後輩――木田兎がいた。
「まどか先輩、これ大会の参加同意書です。」
まどかはなんてことないというように書類を受け取る。
椿は少し目を伏せる。
「椿先輩、何の用ですか。」
けん制するような声色。
「特に……あ、私そろそろ戻ります。」
そう言って場を去ろうとした椿を兎の声が追いかける。
「復帰しないんですか。」
椿はゆっくりと振り返る。
怒りがこみあげて、そのあとを悲しさが追いかける。
「なんで?」
静かに言った。
「エースだったんだし、もう嫌う相手もいないんだから復帰したらいいじゃないですか。」
椿の表情は変わらない。
まどかは瞳の明度を少し落としただけで、変わらないまま。
「今、戻ってもついていけないよ。」
頑張って笑みを作っても、取り繕えていないことは椿にもわかっていた。
「そうですか。」
ただの相槌だった。
どういうつもりなんだろう。椿を煽っておいて、こんな単調な相槌。
兎はまどかに頭を下げると、自分の教室へ戻っていく。
まどかは「困ったやつだな」と言って笑う。
「私のほうからも言っておく。許してやる必要はないけど、あいつも一途なだけだからさ。」
まどかのすらりとした手が椿の肩にのせられて、励ますように何回か優しく肩をたたいた。
「……ありがとうございます。」
あの日のことは忘れられるようになってきたのに。
強く握った椿の手が小さく震えている。
「ほんと無理。」
兎は声を張り上げて言う。
「どうしたの?」
決まり切った流れだ。
「京極椿だよ。」
「兎、その先輩本当に嫌いだよね。」
兎は口に残ったガムを吐き捨てるくらいの顔をした。
「見るからに気持ち悪いじゃん。男侍らせて、純粋ですーみたいな顔してさ。」
一部始終を見ていた清臣はそれが椿の悪口だと気づくと、静かに兎に近づいていく。
友人が小さく悲鳴を上げる。黄色い悲鳴。
「守間先輩だ!」
兎は清臣を見て顔を曇らせる。
清臣のことは椿の裏の顔を知らないバカだと思っている。
そんな相手を芸能人みたいにあがめたたえるときの友人のことも。
「今、なんて言った。」
「は?」
興奮した様子だった友人が顔を青くして黙りこむ。
「別に、先輩に関係ないですよね。」
「兎、やめなよ……」
清臣は静かな声に怒りをにじませる。
「そんなことない。君も隣の友達の悪口聞いて笑ってられるかよ。」
珍しい清臣の様子――といっても噂に聞いていた清臣の様子だが――とあまりに違って、兎の表情にだんだんと焦りがにじんでいく。
「椿を悪く言っても、みじめになるだけで鬱憤は晴れないぞ。」
「なんなんですか、何も知らないくせに。」
知らないのはそちらだろう、と清臣は心の中で言う。
だが清臣も、兎と椿の関係は知らない。
二人の間に激しく火花が散る。
「守間くん!先生が呼んでる!」
唯華だった。
二人の間に割って入るように言うと、兎から清臣を引き離す。
「威嚇したりしたらダメよ。あの子、相当性格悪いから、またあることないこと言われるかもしれない。」
清臣は顔をしかめて、あからさまな不機嫌さを醸し出す。
「わかるわよ、私もあの子嫌いだもの。」
なだめるように唯華は言う。
「椿のことをよく知らない人の中には、椿をよく思ってない人が一定数いる。その原因は、椿を嫌って意図的に悪い噂を流してる人たちがいるからなの。」
その一人が兎だということか。
「私たちがなにかして解決する問題ならとっくに片付いてる。椿が黙って我慢してるんだから、私たちが下手に刺激する必要ないでしょう。」
それから唯華は小さくため息を吐く。
「復帰するんだって。」
「なにを?」
唯華は宙をにらんでいた。
「陸上部。今度の大会に出るんだって。」
怒りのこもった瞳は、何か別のことを思い浮かべているようにも見える。
「陸上部、私たちの学年の人数が少なくて、団体戦とかリレーとか人手不足なんだって。だからって……」
唯華は言い切らずに唇を噛んだ。
「聞きました。大会に出るんですね。」
「へ?」
椿は腑抜けた声を出して清臣を見る。
「とはいえ、あと一週間しかないから、向こうからしたら迷惑な話かもしれないけど……」
「人数、足りなかったんですよね。」
「足りることは足りるんだけど、みんな億劫になっちゃったみたい。」
よくわからない。
「一個上にすごい速い先輩がいるんだけど、最後の大会で足引っ張りたくないからって。」
椿は困ったように笑う。
そこに本心が隠れているような気がした。
「あ、だから一週間だけ帰りが遅くなっちゃうの、ごめんね。」
「構わないですよ。」
椿の笑顔を見て、清臣は唯華の言葉を思い出す。
「椿は強いの。打たれ強い。逆境に負けない。燃えることはないけど、芯がしっかりしてて、常に強さを保っている。」
でもね、と唯華は静かに告げる。
「あの子が心からの弱音を吐いたところ、一度も見たことない。相手の気持ちもわかるからって許しちゃう。でも、それって強がりじゃないかなって思うの。」
唯華は人差し指を二つつなげて棒を作る。
「ピンと張ってるからこそ、いつか耐えきれなくてぽきって折れちゃうときが来るんじゃないのかな。」
繋がった指先が離れてぽきりと折れる。
唯華があの話を自分にした理由は何だったのだろう。
唯華はもう、これ以上椿の心に深入りできないと察したのだろうか。
自分では触れられない領域が椿の心にあると知って諦めた。
そんな色をしていた。
だから、清臣に――
残念ながら清臣は人を慰めるとか、支えるとかは苦手だった。
「お嬢は、優しいんですね。」
気休めだった。
「そんなことないよ。」
椿は少しうつむいた。
「同情してるだけ。」
清臣は思い出す。
前にもそんな言葉を聞いたことがあった。
昨年にあった世界的な陸上大会を見ていたとき。
そもそもなんでそんなことになったかは、どうしても決勝を見たいという椿が、寝落ちしないように一緒に見てくれと言われたからだが。
金メダルの第一候補と言われていた選手が意図しない転倒によって、一時三位まで落ちた。しかし、その後の追い上げで一位に返り咲いたという感動的なレース。
椿はゴールした瞬間に泣き崩れた銀メダルの選手を見ていた。
銀メダルの選手はメディアで取り上げられることはなかったが、椿は冷静に言った。
「私、こういう大逆転を見るたびに感動はもちろんするんだけど、負けちゃった挿あてのことも考えちゃう。」
画面の端に一度だけ映った選手の泣き顔。
うれし泣きと悔し泣き。
「仕方ないし、誰にも救えない気持ちだけど、辛いよね。」
「優しいんですね。」
清臣は相槌代わりにそう言った。
「違うよ、同情してるだけ。」
肩をすくめた。
「買いかぶりすぎ。私ってそんな綺麗な人間じゃないよ。」
それでも、同情したうえで突き放すのではなく、代わりに自分がやらなきゃいけないと思うのは、優しさじゃないのか。
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