椿と終わらない課題
いつものようにインターフォンが鳴る。
だが、耳のいい清臣は騒がしい足音を聞いた時から察しがついていた。
「臣!」
困り顔の椿だった。
「……なんですか。」
「レポートが……終わらないの……」
「始業式明日ですよ。」
「失礼します……」
なんだかんだ椿が清臣の部屋を訪ねるのは初めてだった。
「綺麗だね。」
というか、物がなかった。
「わざわざこっちでやらなくても……」
と初めは清臣も渋ったが、昨夜なにやら大きな事件があったらしい兄たちが疲れ切ってリビングで眠りこけていた。
「ほんとうに、お嬢は……」
という清臣の呆れ顔にももう慣れた。
清臣の部屋は椿の住む部屋よりは狭かったけれど、一人暮らしと考えれば広すぎるくらいだった。
椿はちょこんと、ダイニングテーブルに座っている。
「テーマ、何がいいと思う?」
「それくらい自分で考えたらどうですか。」
一時間後――
「私、思うんだけど、興兄って恋してると思うんだよね。」
テーマを決めて満足した椿は、休憩のつもりで雑談を始めた。
思いのほか食いついた清臣。
椿のほうを見て聞き返す。
「この間、女の人の写真見てたんだよね。」
「それだけですか?」
「でも、好きでもない人の写真をじーっと見たりする?」
「嫌いな人の可能性もありますよ。」
椿は少し考えてからいう。
「興兄ってそんな陰気かな。」
「……さあ。」
「あ、逃げた。」と椿は笑う。
「……でもあんな顔、好きな人じゃないとしないと思うけどなあ。」
「どんな顔ですか。」
椿は顔をしかめた。
「こんな顔。」
椿の顔が興に重なる。
どうしてもそれが想像つかなくて、清臣は思わず笑う。
「なに?」
「下手くそですね。」
「見てないくせに。」
完全に手の止まっている椿を見て、清臣はレポート用紙をつついて急かす。
「ほら、集中してください。」
椿は生返事で、一応机に向き合うものの、口が止まらない。
今度は葵とはっさんの話だった。
清臣は席を立つ。
椿は言葉を止めて、清臣を見た。
「どうしたの……」
「もう四時ですよ。」
清臣はそう言って、椿の隣に腰を下ろす。
「このままじゃ終わらな……」
清臣が最後まで言わなかったのは、椿が勢いよく清臣から離れたから。
息をとめているように見えるくらい力の入った体に、驚いたような顔がこちらを見ている。
清臣は顔をしかめる。
椿の顔がみるみる赤くなっていく。
「息してください。」
椿の口がパクパクと動く。
ち・か・い
――近い?
「は?」
うるんだ瞳。
今までそんな顔、したことなかったくせに。
「まったく、臣は……」
椿はぶつぶつ文句を言いながらペンを走らせている。
「書けるじゃないですか。」
「国語は自信あるんだよね!」
怒った口調の椿だが、怒りたいのはこちらだ。
「ごめんね!」
椿は怒りに任せて言う。
怒る理由なんてないんだから、まっとうな言葉なのだが。
「反省してます?」
「……申し訳ありませんでした。」
なんで今更、なんて思うけど、椿だってわからない。
そういえば、清臣って男子だった。
「臣のこと、嫌いなわけじゃないからね。」
その言葉は、裏返せば好きってわけでもない――そう清臣は受け取った。
どうして興の恋心はわかるのに、清臣の気持ちには気づかないのか。
バカなのか、鈍感なのか。
けれど、椿の透明な瞳は、ただの純粋さだけじゃない気がする。
透明を突きつけたら何も見えなくなるように、椿の瞳には美しい濁りがある。
清臣がその瞳に惹きつけられるのは、その濁りのせいでもある気がする。
「そうですか。」
意味もない返事だけが残った。
玄関の扉が開く音がして、隣の椿の肩が大きく震えた。
「入るぞー。」
声は憂のものだ。
「もう入ってるじゃないですか。」
「ドア越しだと聞こえないだろ。」
憂は椿とそっくりの顔で文句を言いながら部屋に上がる。
「椿、ここにいたのか。」
「うん、レポート終わらなくて。」
終わったけど、と笑う椿。
四時間もいたのに、書き始めたら一時間で終わった。
憂はいつもの笑みのまま言う。
「お前ら、付き合ってんの?」
「え?」
「は?」
鬼のような形相になった清臣と、魂が抜けた世にポカンとした椿を見て憂は笑う。
「あ、違うんだ。」
「お世話になりました。」
椿は靴を履いた後、ふりかえって言う。
「また明日。」
そういえば、また明日って。
今まで椿は何度も言ってくれていたはずだけど、今になって気づく。
――いい言葉だ。
「そう言えば数学の課題はやってたんですね。」
今までの椿といえば、課題は提出日前日まで手をつけず、やったとしても気分で最初の一問までといった体たらくだった。
椿はきょとんと首を傾げる。
「な、なにそれ……」
時刻は夜の八時。
「こんなの聞いてないよ。」
と、半泣きで椿はシャーペンを走らせている。
基礎的な内容で、清臣はものの二時間で終わったが、椿はそうもいかない。
五問に一問は解けるが、そのほかはまるっきりわからない。
「よく進級できましたね。」
「わかんないよ、明日行ったらどのクラスにも私の名前ないかもしれない。」
清臣の猛指導のおかげで椿の赤点は物理だけだったのだが、補修のあとは死んだ顔をして帰ってきた。
「眠いよー。」
日付を回ると、椿は机に突っ伏して呻く。
「明日早起きするから、もう寝ます……」
「どうせやらないでしょう。」
椿はゆっくりと体を起こすと、しかし、すぐに糸が切れたようにまた倒れこむ。
「あと一ページですよ?」
目をこすって、椿はまたシャーペンを握る。
「がんばります……」
それから三十分して椿は課題を終わらせた。
「ありがとう……」
眠気でままならない滑舌で言う。
「こんな遅くまで……ごめんね。」
ほとんど目をつむったまま椿は頭を下げた。
清臣にしてみればこれくらいの時間なんてことないのだけれど、椿は精一杯の感謝を伝えてくれた。
小ぎれいな椿の部屋の隅に積まれた本の束にぶつかる。
捨てる予定と言っていたものだ。
「大丈夫ですか」
清臣は散らかった本を片付ける。
椿は本を拾おうとしても何度か手がかすっただけで拾えない。
「もうだめだあ……」
清臣は少しだけ口角を上げた。
拾い上げた本の隙間から、紙が一つ落ちる。
写真のようだった。
清臣はそれを裏返してみる。
「見ないで!」
それに気づいた椿は清臣の手からその写真を奪い取ろうとした。
そのために身を乗り出すと、バランスを崩して倒れてしまう。
清臣は思わずそれを抱きとめてしまう。
「私の昔の写真、恥ずかしいから見ないで。」
椿は清臣の腕の中でうつむいている。
その小さな手が強く握られている。
「……わかりました。」
椿の顔を見て驚く。
目が少し赤くなってうるんでいた。今にでも泣きそうな顔。
「どう、したんですか……」
椿はまたうつむいた。
「ちょっと、嫌な思い出があるから。」
写真に映っていたのは椿と、見知らぬ女子二人。
だが、椿は今と全く違っていた。
清臣の目が揺れる。
少し迷って椿の小さな体を抱きしめる。
ほっそりとした今より健康的な――言ってしまえば少し太っていた。
そして、椿は笑顔じゃつくろえないくらい、暗い瞳を抱えていた。
椿は腕の中で小さく身じろぎした。
「苦しい……」
「悪い……」
椿を離して、思わず素の出た清臣に椿も笑う。
その目の端にある溢れそうな涙を指で拭った。
「ありがとう。」
くすぐったそうに笑う椿。
「お嬢……そろそろ。」
突然、椿の体から力が抜けてカクンと首が折れる。
椿の体温が伝わってくる。
「お嬢……?」
静かな寝息を立てている。
「マジかよ……」
息を吐くたびに長いまつげが揺れる。
清臣は椿の横顔にかかる髪を耳にかけた。
その横顔を見つめる清臣の瞳には、優しさと温かさと、そして少しの悲しみがある。
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