2023年11月15日
ここ1週間、曇り空ばかりだった空がようやく晴れた。
洗濯物を抱えたベルデは久方ぶりに見上げた太陽に目を細め、屋上の植物園のそばに寝具や服を干し、額の汗をタオルで拭う。
人外ばかりのこの屋敷で、特に病弱なシュランゲの身の回りの物をベルデはなるべく清潔に保つようにしていた。
風邪を引けば重症化、怪我をすれば化膿する。
そんな体のくせにあちこちを回って仕事をするのだから、今年に入って3人目の主治医は頭を抱えていた。
昨日も楽しそうにどこかへ出かけてしまい、診察の予約をすっぽかした。薬はまだあるが、やはり心配は心配になる。
「なあ、マキラ。シュランゲって昔からああなのか?」
「?」
洗濯を終えたベルデはマキラと広い庭の端にある円形カゼボへと来ていた。
ここはシュランゲではなく、かつてこの屋敷を建てた人物の趣味らしい。たしかに食事やティータイムのためだけに屋敷の3階の自室から降りてくるシュランゲは、中々に想像できない。
「ああ、って?」
「自由と言うか、好き勝手というか。
俺、最近は先生が可哀想でさ。先生は居ない患者のために車ではるばる山を登るわけだろ?」
相場の倍近い金額を支払って雇われているシュランゲの主治医は、定期的な診察と薬の処方のために山道を登ってくる。度々居ない雇い主に直接文句は言えず、代わりに応対するベルデに時々愚痴をこぼす。
過去の金に目の眩んだ二人とは違い、今の主治医はかなりの人格者で、ベルデの体調にも気を配ってくれる人だ。
「知らないわ。私も、シュランゲとはそこまで付き合いが長くないの」
「そっか、実は俺とそんなに変わらないのか?」
「…まあ、そうね」
マキラはベルデの淹れた紅茶に口を付ける。
ベルデはここに住む人外たちが『なに』を主食とし、玩具としているかを知っている。マキラのことも。医者を気遣う優しい一面があっても、こうしてマキラと同じテーブルを平然と囲んでいる時点でベルデも他所からみれば人でなしなのだろうとマキラは小さく肩を落とす。
「ねえ、誰かとシュランゲを殺しに来たら、ベルデはどうする?」
「?」
「リンクスとレイヒツより、エミーリアより男爵より強い誰かが来たら、どうする?
逃げるなら、手を貸すぐらいはするわ」
エリックはいつか来る。マキラは一つだけの目をベルデへと向けた。人外ばかりの屋敷だ。ベルデ一人を逃したところでわざわざエリックは追い立てたりしないだろう。
「うーん…あいつらより強いやつか…」
ベルデは腕を組み、屋敷の前の銅像へ目を向ける。動く銅像の男爵は、いつもと同じポーズでピタリと静止しているが、一度動き出せば人間なぞあっという間に踏み潰してしまう。
「そうだなあ。
もしそうなったら、俺はシュランゲを守るよ」
「殺されるわよ?」
「…まあ俺、死んだことなんてないからさ。怖気づくかもしんないけど
シュランゲはいつ天罰で死んだって仕方ないようなやつだ。でも、それは俺だってそうさ。
ならせめて俺の命はシュランゲに使いたいんだよ。」
照れくさそうに笑うベルデに、マキラは眩しそうに目を細めた。
シュランゲは悪人だ。人は平気で人外たちのエサにするし、エサにしなくても気まぐれに殺す。尊厳を踏みにじるのが趣味で、核兵器の発射スイッチを絶対に持つべきじゃない。裁判にかけられるなら、どんな裁判官でも即刻死刑を言い渡す。
そんな男をただただ想うベルデが、マキラはまともに見ることができなかった。
「(私もそう思っていた、はずなのに)」
シュランゲは自分の口に合う食事をベルデが作れるようになるまではベルデを殺すなと人外たちに命じなかった。
だからマキラは、まだ仕事に不慣れな頃、屋敷の人外に殺されそうなベルデを何度か助けたことがある。
「(逃げてしまえば良いのに、恨んでしまえば良いのに。)」
◆◆◆◆◆
「ラルフ、もうやめよう?」
人外の死体だらけの屋敷でエリックは悲しげに言う。
この現代で、どこから持ってきたのか分からない骨董品の剣と銀の弾丸が込められた拳銃を持って。
「ふう、これでも足りませんか」
シュランゲは足元に転がるツェツィーリアの頭を足で小突く。頭を踏み、少し体重をかければ弾けた頭蓋から蝿が吹き出しどこかへ飛んでいった。
「あの穴も、君が?」
「ええ。足止めに丁度良いですよね。おかげで今日まで好きに動けます」
シュランゲはこの日までに地球中に『穴』を開けていた。門とも呼ばれるそれは、魔力や奇跡の薄いこの星に再び大量の悪魔を呼ぶためのものだ。
一度開けば数百万数千万の人が犠牲になる。エリックはそれを塞ぐために世界中を飛びまわっていた。
「貴方は100と1なら、100を救う。
私たちが数百人の人間をエサにしていようと、貴方はどんなに急いでも2023年まで私にはたどり着かない」
まあ、本当はあと10年稼ぐ予定でしたが。
そう付け足したシュランゲに、エリックの剣を握る手に力が入る。
「嫌なやり方だ。
…どんな道に進もうと、君は正義のために戦っていたはずだろう」
「さあ?そんな事、ありましたっけ?」
あっけからんと笑うシュランゲに、エリックは小さく眉をひそめた。
「ラルフ、その顔…ッ───!!」
エリックは唐突に振り返り、剣を振り上げる。
背後から迫る奇襲にとっさにエリックの過去の経験が反応を示したのだ。
人外たちとの戦闘で刃こぼれし、鈍くなった刃でもエリックの技量があれば充分な切れ味を示す。
ベルデは切り飛ばされた自分の腕が宙を舞う姿を見た。
「あ、ああああ!!!」
本来なら足を止めてしまうような痛みだったが、ベルデは構わずエリックの懐へと全体重を乗せてタックルする。
なんとかエリックの上に乗ると、ベルデは必死に叫んだ。
「逃げろっ!逃げろシュランゲ!」
◆◆◆◆◆
ベルデは見ていた。屋敷の屋上から、山道を進むエリックがリンクスとレイヒツの首を同時に切り飛ばすのを。屋敷に入り、人狼へと変化したヒルドルフの牙と爪を交わし、その大きく開いた口に銃弾を何発も撃ち込むのを。あの巨大な男爵をその剣で切り伏せ、エミーリアを真っ二つにしケイトを人形ごと撃ち抜きザシャをゲンジロウをクラウンをツェツィーリアを─────。
ベルデは、マキラと2人屋上でただその光景を見ていた。
このままあの金髪の男はここへと来るのだろうと理解した。理解し、心底震えた。
「ベルデ、逃げるならまだ間に合うわ」
そう言ったマキラに、ベルデは最初は恐怖に満たされた心のままに「逃げたい」「助けてくれ」と言った。
だがマキラに連れられるまま、歩きなれた屋敷の裏口へと案内された時、ベルデはふいに足を止めた。
「ごめん、マキラ。やっぱ俺戻らなきゃ」
「ベルデ?」
「俺の命は、シュランゲに使わなきゃ」
青ざめた顔で笑うベルデは、そのままマキラに背を向けてシュランゲの元へと走り出してしまう。
「(ああ、なんて、なんて…)」
マキラはベルデへと伸びかけた触手を、静かに体内へと戻した。
◆◆◆◆◆
◆◆◆◆
「シュランゲ、逃げろ、にげ、て…」
血を流し過ぎたのか、ベルデはどんどん力を失い最後にはぐったりと目を閉じてしまう。
後数分もしない内に死ぬのだろう。
「酷いことをしますね、エリック」
「君が巻き込んだんだろう」
ベルデの血に濡れながら、エリックはそっとベルデを避けて立ち上がり剣を構える。
「かつて貴方が救った人間を、よくもまあ簡単に切れるものですね」
「…?」
エリックが訝しげになると、シュランゲはパッと笑顔になり腹を抱えて笑い出す。
「ははは!覚えていませんか!
まあ、そうでしょうね。貴方はそうだ!救った人間の後がどうなろうと気にも留めないのだから!!」
遅れてやってきたマキラは、笑うシュランゲと倒れたベルデ、そして血に濡れたエリックを見て、ワンピースの裾を握る。
「(バカな子。エリックに勝てるわけないじゃない)」
「さあ、英雄サマ!今回の劇はここまでです!
これ以上見ても出てくるものはありはしない!」
マキラにはエリックと敵対する意思はない。だから、ただ後を見守るつもりだった。シュランゲなら、他に何か仕込んでいるのだろう、と。
だが当の彼はあっさりと唯一の武器のはずの銃を捨て、さあ殺せと腕を広げるから、目を見開いて思わず口を挟んだ。
「待ってシュランゲ!私は、私は?!」
エリックとシュランゲの目がマキラへと向く。エリックはその言葉の真意を図りかねているようだが、シュランゲはマキラと目が合うと心底、そう心底めんどうくさそうな顔をした。
「知りませんよ。そんなこと、どうでも良い」
「…え?」
シュランゲがエリックを見る。「さ、幕引きにしましょう」なんて勝手なことを言う。
「(なんで、なんでなんでなんでよ!!…………嘘つき)
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき!!!!」
高ぶる感情に呼応し、マキラの欠けた顔と背中から触手が溢れだす。
一度は天へと伸びた触手は途中でぴたりと止まると、一斉にシュランゲの元へと降り注いだ。
「マキラっ!待って!!」
エリックの静止など届かず、ドゥ=マキラの触手はシュランゲの体がただの血だまりとなるまで、叩き潰した。
◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆
スラム街の一角で、ベルデは静かに涙を流した。
やせ細った手でそれを大事に抱え、声を殺して泣き続けた。
すぐ目の前の大通りでは盛大な祭りが行われている。華やかで、きらびやかで。毎年行われている祭りを、人々は1日中笑顔で過ごす。
ベルデは怒る。
ただただ自身の無力さと目の前の不条理に。腕の中にはベルデ以上に痩せ、顔色の悪くなった少年が1人。今まで助け合って、スラムでギリギリを生きてきた弟だった冷たい死体。
最近流行病にかかってしまい、満足な治療も受けられずついさっき、息を引き取った。
────金さえあれば少年を救えた、そうなら良かった。
半月ほど前、弟とベルデは通りがかった男にパンを貰った。体の大きな酔っぱらいの輩に絡まれる2人を、助けてしまったベルデと歳が近いであろう少年から。
その輩はスラムで唯一、商店街や医者から物や薬を仕入れることの出来る男だった。ベルデは病気だとわかってすぐに薬を買おうと走った。
だが輩は自分よりずっと小柄な少年にやられた屈辱を思い出し、ニヤニヤと笑いながら少年に助けられたベルデの頼みを拒否した。
輩は本来、金ヅルになり得る子どもを簡単に壊さない。だからベルデも弟も、あの時酔っぱらった輩に少しだけ殴られれば、それで終わっていた。
しかし、少年に助けられたことでベルデは弟の薬を買うことができなくなってしまった。
「ぅあぁ...」
冷たくなった弟の傍でベルデは泣く。
「なにが、なにがヒーローだ!!くそっ!!くそっ!!」
助けられた時のベルデの絶望なんて知らず、笑顔で賞味期限の切れていない真新しいパンの袋を渡してきた金髪碧眼の少年の顔を思い出す。
自分は正しいことをしたんだと思い込んだような、清々しい顔をして、ベルデを絶望の突き落とした、弟がヒーローと呼んだ少年を。
腹立たしくて憎たらしくて。助けられたその時に、いっそ刺し殺してしまえば良かった。
めずらしくカビも生えていない未開封のパン受け取って、無邪気に羨望の眼差しを向ける何も分からない弟を見て、ベルデは躊躇した。
今後の身の振り方を考えて怯えるベルデとは反対に、こんなスラムで少年に笑顔をくれたあの勇者をベルデは刺せなかったのだ。だがその躊躇いのせいで弟は死んだ。
しばらく泣いて、それからベルデは弟の体をボロ布で包む。ここに置いておけば腐るし、野犬のエサになるかもしれない。
教会まで運べば嫌な顔をされ、金も取られるが共同墓地に葬ってもらえる。
涙を拭って、ベルデは弟を持ち上げる。
「あっ、」
力の抜けた手が布からこぼれ、首ががくんと落ちる。しゃくりあげながらごめんごめんなと呟きながら首を肩に乗せ、もう一度しっかりと抱きしめた。
このスラムで少しずつ成長していく弟は、ベルデの希望だった。もうベルデが少し大きくなれば客を取るかして、もっと稼げる。そうすれば弟だけでもここから出て、普通の人間らしく暮らせる金は用意できたかもしれない。
そう思うと、ただ悔しくて仕方なかった。
◆◆◆◆◆
「─────少し、良いですか?」
スラムを少し歩いた所で後ろで声がして振り返る。
頭の先から足の先まで真っ黒な男がそこに立っていた。
手入れのされた艶のある黒髪にいっそ病弱にも見える白い肌。仕立ての良さそうな黒いスーツとコート。明らかにスラムに不釣り合いなはずなのに、何処よりもスラムが似合うような顔をした、そんな奇妙な男。
「忙しいから、後にしてくんない?」
ベルデは素っ気なく答えて踵を返すが、黒い男はむしろにこやかにベルデに着いてきた。
「なんで着いてくる?」
「気になさらず」
今はスラムの住人もほとんどが祭りへ向かい、物乞いや商売をしている。通りに残ったのはボケた老人ぐらいだから、よそ者と居るところを見られても問題は無いだろう。そう判断したベルデは、一刻も早く少年を弔うべくは歩き出した。
◆◆◆◆◆
「なんでだよ!金はあるって!」
「黙れ!お前の様な穢れた身で教会に入ろうなど神への侮辱だ!!」
神父は怒鳴りながらベルデにコップの水をかけ、乱暴に突き飛ばす。微かに鼻につく酒の匂いにベルデは顔をしかめた。
中で祭りにかこつけて酒盛りをしているらしい。聖職者が聞いて呆れる。
「用事は終わりましたか?」
「うるさいっ!!」
濡れた弟の体をベルデはかき抱く。考えたくもないが濡れると『痛む』のが早くなる。
「ここに頼んだ所で山に捨てられるのがオチですよ」
「なっ...!」
男を睨む。黒い瞳は暗くベルデを見つめていた。
「貴女が彼らと話している間に、墓守に聞いてきました。
面倒なので、スラムの子どもに金を渡して、山やゴミ場に捨てさせているらしいです」
言葉に詰まる。今の神父の態度、スラムのゴミ箱や川で見かけた死体。否定するにはあまりにもベルデには心当たりが多すぎた。もう動かない弟にすがりたくなって、空っぽとわかっていながら抱きしめる手が震えた。
「…あんた、俺に付きまとってなにがしたいんだよ?」
「おや、聞いてくれますか」
弟を抱えたベルデは立ち上がる。少しだけ、現実から目を逸らしたかったのもあり、男の話を聞こうと思った。
男は少しだけ考えるような素振りをする。
ほんの数年歳上なだけだろうに、仕立ての良い服を着て歩く男はあのヒーローが重なって、少しだけ憎たらしくなる。
「○○通りまで案内を頼みたかったんです。
従者とはぐれてしまったので」
従者。よほどの金持ちだろうか。
その通りならここから近い。このままではどこまでも着いてきそうな男と離れるためにも、ベルデは「わかった」と簡素な返事と共に歩き出した。
◆◆◆◆◆
弟がしだいに重みをましてるような感覚に陥るのは、恐らく自分の疲労のせいだろう。元々少ない食料を弟と分け合っていたが、最近は薬と医者を求めて弟を背負ってあちこちを歩き回ることが多かった。冷たい床でいくら寝ても疲れなんて取れはしない。
「はぁ、着いたぞ」
通りに着く頃には今にも座り込んでしまいほど疲れていた。ベルデを支えるのは弟を地面に落としたくないという想いだけだ。
「ありがとうございます...さて...」
男は通りを見回して従者を探すようだ。
もういいだろうとベルデは弟を背負い直す。
震える足で歩きだすが、直ぐに足がもつれてつまづいた。
「あっ...」
ちっぽけなプライドだけで抱えていた弟が腕の中にいる。手放せば受け身を取れるだろうにむしろ下敷きにならないように体を無理やり捻る。
来るであろう衝撃に目をつぶる。
いっそ打ちどころ悪く死ねればなんて思いながら───。
目を開けた。自分の下には黒い男がいる。咄嗟に自分を庇って下敷きになったとすぐに分かった。
「な、んで」
「こほ、怪我は無いですか?」
汚れるのなんて気にも止めず、代わりに弟を抱えてベルデを立たせる。仕立ての良いスーツは汚れ、周りの人間は蔑むような目で男を見た。
「ボス」
「ヒルドルフ。遅かったですね」
「ァ、ごめンなサイ」
呆然とするベルデが見上げる先で、黒い男はやってきた大柄な男と話し始めていた。少し変わったイントネーションでしゃべる大柄な男は、黒い男に頭を下げ、しゅんと肩を落とした。
「ぁ、ん?ソレは?」
大柄な男が弟の死体に気づく。ソレ、と物の様に呼ばれたことに怒りを感じ、ベルデはキッと立ち上がって大柄な男に詰め寄った。
「俺の!弟だ!なにか文句でもあるのかよ!」
「ェ?ぁ、え?」
おどおどとした態度にベルデはヒートアップしていく。ただの八つ当たりだと分かっていても辞められなかった。
「お前みたいなキレイな服着たデカいやつから見たら俺らスラムのやつらなんて鼻くそみたいなもんだろうがよ!このっ木偶の坊が!弟を見下すんじゃねえ!」
怒りに任せて大柄な男の脚を蹴る。壁を蹴ったように硬い感触に余計に苛立った。こんなことをして、この男に殴り返されれば怪我では済まないだろうし、警察なんかがくれば間違いなくベルデは捕まるし酷い目にも合う。
それでもベルデは声を荒らげて暴れ続けた。
「や、やめテ、」
「くそ!くそ!くそ!!!やり返せよ!俺を殺せばいいだろう!!」
涙声になり、どんどん言動が支離滅裂になっていく。
大柄な男がちらちらと黒い男を見るが、彼は呑気に弟をいつの間にか車の後部座席へ運び込んでいた。
「おい!弟になにすんだ!」
「ヒルドルフ、貴方は徒歩でいいですね?」
ベルデを無視して黒い男はそう言うと、寝かされた弟の隣の席へと座る。それからベルデの方を見て、にこやかな顔で手招きした。
「ほらベルデ、乗ってください」
「ぁ、ボス、俺は」
「歩いて、帰れますね?」
「ぅ、ぅう…はい」
有無を言わせない黒い男に、ベルデは少しだけ大柄な男を憐れんだ。
ベルデは手招きされるまま、後ろの席に腰掛ける。ふかふかのシートにはホコリひとつなく、弟やベルデが触れた箇所が薄汚れて嫌に目立つ。
しかし、運転席に座る眼帯の男も、隣の黒い男も嫌な顔1つしない。そうこう考えている内に車は動き出した。
少しだけ振り返るとあの大柄な男がぽつんと通りでこちらを見送っていた。まるで飼い主に置いていかれた犬のようだ。
黒い男の従者であろう車を運転するのは眼帯の男。こちらはベルデとほとんど歳が変わらないように見えた。さっきの大柄な男と2人を従えるこの黒い男はよほど親が金持ちなのだろうか。
「…なあ、どこに向かってるんだ?」
沈黙に耐えきれず、ベルデが口を開く。
「墓地です」
「?」
閉口したベルデに、黒い男は心底不思議そうな顔をした。
「?他にどこへ行くと言うのですか?」
「…金なら無いぞ」
「必要そうに見えますか?」
からかう様な口調に頭に血が上って、黒い男を睨む。黒い男は拍子抜けするほどあっさりと両手を上げて謝罪した。
「気分を害されたなら申し訳ない。
お礼は要りませんよ。本当に。私は私のために手を貸しているんですから」
「俺を助けて、お前になんの利があるんだ」
「まあ、その話は後でも良いでしょう。そろそろ着きますよ」
窓の外は祭りの喧騒から抜け出す。
何となく、ベルデはもうあのスラムには帰らない様な気がした。
◆◆◆◆◆
黒い男が神父と話し、2時間後に弟はとても簡素な葬式の後に丁重に葬られ、弟に花を手向けることができた。
ベルデ自身がわずかに持っていた金は全てその教会に寄付として渡した。大した金額では無いが、ベルデにはそれしか無かった。
目のようなシンボルを持つ教会は、どこの宗派かベルデには分からなかったが、少年をきちんと埋葬できたのだからそれで良い。
酒飲み連中と、どう見てもスラム孤児のベルデと少年を見て何も言わなかった神父。ここがどんなカルト宗教だろうが、ずっと良いと思った。
肩にかけられた上着に触れる。ボロボロな服装のベルデに、移動の最中で黒い男が貸してくれたものだ。いい匂いのする柔らかいコートは、スラムで売ろうとしても逆に売れない様な上等すぎる代物だ。
墓の前で揺れる花弁を見ながら、ベルデは後ろに立つ黒い男に問う。
「それで、なんで俺を助けた?」
「私のためですよ。
あなたがこの後、私からの提案を断りづらくするための下準備です」
ベルデは内心で首を傾げながら振り返る。
何も持たないベルデに、黒い男は白い手袋を嵌めた手を差し出した。
「ベルデ。私の家で働きませんか?」
黒い男からの提案は、彼の存在と同じぐらいおかしなものだった。
話し始めた男の話をまとめると、彼の家には眼帯や大柄の男以外にも何人かの部下がいる。だが、それぞれがあまりに個性的であり、日常の世話する手が足りないとのこと。
だから住み込みで、なおかつその個性的な部下たちのことを外部に漏らさない人間が必要だと黒い男は語った。
充分な給金は出す。部下が家を出払っていたり、仕事が終われば後は休みでいい。ただし───
「世話を怠ったり、裏切れば死にます」
当然のように男はそう言い切る。脅しでは無く、ただの事実として。
この話を忘れてスラムへ帰るか、それとも共に来るか。
そう言って笑う男をベルデは見る。答えはもう決まっていた。
「一緒に行く」
肩にかかる暖かなコートを握る。ベルデの答えを聞いて、男は、シュランゲと名乗った彼は静かに笑みを深めた。
「レイヒツ。今日のご飯は屋敷に帰ってからですね」
シュランゲは眼帯を振り返る。左目に眼帯をした彼はレイヒツという名前らしい。
人外の住む館で、こうしてベルデは働き始めた。
人を食う彼らに餌を与えるか、怠って自分が餌になるか。そんな命がけの生活を。
これは、シュランゲが13歳。ベルデが11歳の時の出来事だ。
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