転がる世界
ラルフ
「はい」
教壇の上に立つ神父は、真っ直ぐに手を挙げた少年を見て静かに頷いた。
教会の日曜教室用に用意された部屋には簡素だが机と椅子が揃えられていた。教室の後ろの方で、黒い髪の少年は立ち上がる。大人たちの目を気にもとめず、真っ直ぐに黒い瞳で神父を見つめた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
週に一度、この日曜教室では神父が人々に神の教えを説いていた。大人から子どもまで、主に文字を読めない者が参加し、仕事の無い子どもは授業を無償で受けることができた。
今日も神父が聖書を読み、いつも通りに「なにか質問は」と問う。いつもは難しい言葉や単語の解説を求める声が多いが、ラルフはそうでは無かった。
ラルフは家での教育のお陰で聖書の内容を自力で読み解けた。暗記もしているから、本来この教会に来る必要のない立場だ。
それでも貴族である本来の身分を隠し、汚した服を着て来たラルフはどうしても(金で雇われた教師ではなく)、教会の神父に問いたかったのだ。
「我らは不完全で、だからこそ努力を惜しんではならない
なぜなら我ら信徒は神の国で、大いなる父たる神へとお仕えするのだから」
「ええ、その通りです」
教会では世界と人を創ったとされる父たる神を信仰している。
教えを守り、素晴らしき信徒であれば死後は美しい神の国へと行けると。そしてその場所で自分たちを創られた神への感謝の奉仕が人間の責務だとそう教えられてきた。
「大いなる父は完全なる存在である」
「ええ、その通りです。よく学んでいますね」
幼いながらに聖書の内容を暗唱するラルフに、周りの大人は小さく感嘆の声を上げる。
「ならば、なぜ神は我らを不完全に創ったのでしょうか」
ラルフへと向いた視線たちが少しざわめく。ラルフは構わずに続けた。
「神に仕える者として、人間をお創りになったなら、始めから完全な状態で産み出せば良かったのでは無いでしょうか。
農民が家畜を飼う時、騎士が馬を選ぶ時。もしも完全で理想的な動物がいれば、誰でも完璧なそれを選ぶ。
そうするのではないでしょうか。」
ラルフは、貴族社会で多くの人の暗い面を見ていた。
神の教えなぞ知ったことではない大人たちは、なぜか神の教えをよく口にして酒を煽って嗤う。その心の汚さは子どもさえも伝染し、あの赤い髪の少女の心を傷つけた。
「大いなる父は時には海を荒らし、山を怒らせて我らに試練を与える。そして時にはそういったものからお守りくださる」
だからこそ、ラルフは問いたかった。
「素晴らしきお力を持った神ならば、自身に仕える信徒を始めから完全な状態でお創りになることもできたのではないのですか?」
どうして、どうして大いなる父がお創りになった美しいはずの世界で、その御手で創った人間の中にどうしてこんなにも汚いものが紛れ込んでいるのか、と。
「君は神が過ちを犯した、と言いたいのですか?」
「いいえ。とんでもありません。
ただ俺には分からないのです。なぜ大いなる父は我らを不完全に創ったのか」
神父からの厳しい視線に、ラルフは胸から下げた教会の証を握りしめた。
ラルフの心中には、いつもエリックとマキラの存在がある。
「森に住む者は、不思議な力を使うと聞きました。俺達にはできないことをします。
それは、まるで神と同じ─────」
「あんなモノと神の力を同列に語るでない!!!!」
神父の怒鳴り声が教会中に響き、それから冷たい静寂が訪れる。普段から温厚な神父からは考えられない様な怒声に、少しの間の後に子どもが数人泣き出し、親や兄弟がその子を抱えて頭を何度も下げながら外へと出ていった。
肩で荒々しく息をしていた神父はハッとした顔になり、何度か咳払いをして開いていた聖書を閉じた。
「失礼。取り乱しました。
これで今日の分は終了としましょう。
ああ、君は少し残りなさい」
周りの人間がラルフを訝しげな顔で見ながら教会の外へと向かって行く。後ろに座っていた老婆がラルフを小突き、「神父様のお説教をちゃんと、聞くんだよ…まったく罰当たりな子だよ…」と鋭く言って行った。
不思議な魔法が使えるエリックとマキラ。
奇跡が起こせる神。
(一体、なにが違うと言うのだろうか)
やがて神父とラルフ、それから教会の見習いらしき人間が数人残る。中央の通路でラルフは神父の前で膝をつき、その背後にいる神へと祈った。
「少年。名は」
「ラルフです」
「ラルフ。君は邪教徒かね?」
「いいえ。」
神父が少し屈んでラルフの肩に手を置く。
骨ばった、分厚く硬い手だ。
「君は、邪教徒か?」
「っいいえ」
指が爪がラルフの肩に食い込む。ギチギチと来る痛みに耐えながら、ラルフはなおも首を横に振った。
「君は大いなる父を愛する我らと同じ信徒かね?」
「は、い」
嫌な汗が額を伝う。自分よりもずっと大きな大人はまるで壁かのように思える。神と自分を隔て、神から見えない影に追い込まれたような、そんな嫌な気分だ。
「ならば、大いなる父たる神に疑問を持つべきでは無い」
「はい」
「そして二度とあの邪教徒共の使う汚らわしい力と神の力を同列に扱うな」
「…」
「いいね、ラルフ」
「………はい。神父様」
念を押す神父の言葉に頷くと、ようやく神父の手がラルフから離れた。これで終わったのかと思えば、いつの間にか見習いらしき神官がラルフの両脇に立っている。
「?神父様、これは」
「ラルフ、服を脱ぎなさい」
「え?」
「私は君に罰を与えなければならない」
神父の目には涙が浮かんでいる。
もう1人の見習いから真っ黒なムチが神父へと手渡される。
「君が我らと共に神の国へ行くためにこれは必要な罰なのだ」
ラルフの両脇を見習いが抱え、上半身の服を奪われる。むき出しになった白い肌に冷たい外気が触れて鳥肌が立った。
「おお!!神よ!!この少年を許したまえ!
そして、貴方の元へとどうかお導きください!!!」
神父は叫び、手にしたムチを少年の小さな背へと振るった。
◆◆◆◆◆
ヒルドルフは最後に「ラルフを返せ」と言った。
その時のラルフにはどうにも理解ができなかった。
ヒルドルフと共に戦場をかけた頃の記憶と感情は確かにあったし、ヒルドルフを友と思っていた。
ただ、共和国を恨んではいたが、それ以上に相互に増える死者を見ていられなくて。それに、エリックとマキラの様にヒルドルフを失うことが怖かった。
だから裏切り者となることを選び、共和国へ秘密裏に連絡を取った。同じように戦争を終わらせたがっている者は共和国にも居るはずだと。
自分の志に反することも、神に恥ずべきこともしていない。戦争を終わらせるためにも、人は死ぬ。だから自分は神の国へは行けないだろうが、それでも未来を生きる人々を少しでも多く救えるなら構わなかった。
だから転生を繰り返しても、その先でラルフは正義であろうとした。
◆◆◆◆◆
それでも、違和感はずっと持っていた。
産まれ直す度にラルフとして新しい人生を(人では無いこともあったけれど)歩んで、どこかで過去の記憶ラルフを思い出す。
自分らしく周りの友や仲間と接してきたが、ここで言う『自分』とは誰なのだろうか。
答えはシャノンがくれた。
─────いや、本当は目を逸らしていただけだ。
ラルフとして、根底にあるはずの信仰心を過去の『ラルフたち』は持たず、
ラルフとして、最も尊ぶべきエリックとマキラを過去の『ラルフたち』は持たず、
ラルフとして、守るために学んだ剣術や処世術を過去の『ラルフたち』は持たない。
軍人として復讐の道を歩んだラルフ、魔王になったラルフ、圧政の中で革命を起こしたラルフ、ただの作家だったラルフ、穏やかな星で安寧を過ごしたラルフ、王として生まれたラルフ─────。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も産まれ直した。
その度に最初の十数年から転生した生物によっては2000年以上の時を生きた『ラルフたち』。
彼らと自分が、同じ人になるわけが無い。
知性ある物は、周囲の生物や環境からありとあらゆる影響を受けながら成長していくのだから。
信仰が無ければ信仰心は生まれず、尊ぶべき友人たちが居なければ彼らのことを想うことなど無い。剣より優れた魔法や武具があればそちらを使うし、必要なければ戦う手段すら持たない。
『ラルフたち』は間違いなくそれぞれが『個』であり、決して、ラルフでは無かった。
ただ姿かたちが似ているだけの他人。
ラルフはそんな彼らを、彼らの生きた生を塗りつぶして産まれ直した。
気づいた時には正気を保つことなどできず、それからの生では産まれ直す度に自身への嫌悪と憎悪から吐き、二度ほど心を壊し廃人のようになった。
どんなに離れていても必ず現れるエリックとマキラを、いつしか恐ろしく思うようになっていた。
2人はあまりに記憶通り過ぎた。
◆◆◆◆◆
◆◆◆
慣れない嫌悪感をどうにか飲み下し、ラルフはその生でマキラを探した。
会いたいとそう願うと、それに呼応するようにマキラはあっさりと現れた。
山の上の小さな小屋にマキラは住んでいた。小屋の中は小さなベッド、テーブルとイスがあるだけのとても簡素で、生活感の無い部屋だ。
外の焚き火でお湯を沸かし、マキラが茶を淹れた。
ベッドのそばに置かれた大きなカバンの奥底から出てきたカップは、端が少しだけ欠けている。
長いこと会わなかったマキラは随分と大人びて見えた。
でも年はあの頃最後に見た姿と変わらないはずだ。
「マキラ、その、君は、転生した時、いつ記憶が戻るんだ」
前置きも雑談もあいさつも無く、ラルフはそう問う。
温かいカップを持つ手は震えていたし、マキラの顔をまともに見ることもできずに問うていた。
「俺は、俺はもう耐えられないんだ。転生する度にラルフの人生を奪っていることが、耐えられないんだ」
声に出せば出すほどに事実と向き合い、どうしようもない恐怖に襲われる。
ラルフの中には罪人も、そうでない者もいて。ラルフが記憶を取り戻したことで救われた人も居たが、特にラルフを強く想う人たちの目が、ラルフには耐え難かった。
最初の頃は多少の人格の違いを誤魔化していたが、自分の罪を自覚すればするほどそれは厳しくなっていって。
最近は取り繕うことも、周りの人間の顔をまともに見ることすらできなくなっていた。
マキラはしばらく何も言わなかった。
ラルフの手の中でゆっくりと温かった茶が冷たくなるまで、マキラは口を開かずじっと黙っていた。
「ラルフ」
マキラの声にラルフはとっさに顔を上げる。
一つしか見えないマキラの緑の目がじっとこちらを見つめていた。新緑の明るい緑の瞳は、今は逆光のせいか暗く薄暗い森を思わせる。
しばらく見つめ合っていると、マキラの皮膚がぼこりと蠢いた。
「は、?」
内側で細長い何かが盛り上がり、頬、鼻、額の内側で何かがマキラの皮膚を押し上げていた。
メリメリと嫌な音を立て、マキラの顔の皮膚が内側から裂ける。
裂け目から出るのは血ではない、薄紫の粘液が水音を立てて溢れている。裂け目はどんどん広がり、首から服の下へ。次々に現れた裂け目が同じようにマキラの全身へ。
カタチを保てなくなったマキラの体が解けるように分かれる。花が咲くように広がった頭から、一気に何かが伸びた。
幾重にも分かれた粘液を纏った太い筒はしなやかに伸びる。赤や黄色で斑点のような模様が描かれ、うぞうぞぬちょぬちょと音を立ててそれらは蠢いている。
もうラルフにはそれがマキラだと認識できなかった。その上、今まで見たどんなモノより悪趣味で醜悪な変化が目の前で起こっているが、ラルフ自身はじっとイスから動けないままだ。
「触手」
マキラだったものから伸びる触手は、太いものや細いものが絡まりながら増え続けた。服が裂け、その下から触手に変わったマキラの体が顕になる。
やけに甘ったるい匂いを放ちながらそうして出来上がったのは、高さ2mほどの触手の塊だ。上の方の隙間から、幾何学模様の刻まれた2つの眼球がぎょろりとこちらを見ている。
「ラルフ、私、あれから一度も死んだことないの」
どこか耳障りなノイズの混ざったような声でマキラが言う。触手の塊から1本が剥がれ、生暖かく脈打ちながらラルフの首へとまとわりつく。
「だから、そんなこと、分からないわ」
触手の隙間から覗く眼球。マキラの緑の目では無く、白目に痛々しく刻まれた幾何学模様。
永遠に生きる。
それは、どんな味だろうか。
生まれ変わるたび、ラルフたちにはそれぞれの人生があった。甘い、愛に溢れた人生だったり、苦い苦痛が永遠と続く人生だったり。辛く渋く時には美味に。
比較的権力者や金持ちに転生することがほとんどだから、幼少期を折檻の時を除けば空腹で過ごすことは無かったように記憶している。
不老不死が人類の夢だと語る者がかつて居たけれど、興味は無かった。
(俺は、すぐに死ぬべき悪鬼だ)
エリックの傍には立てない、立てないなら少なくともラルフにとって自らは悪だ。
(マキラは、マキラの生にはどんな味がしていたのだろうか。)
幾度となく繰り返してきた転生は、三人が友だった頃から長い長い年月をかけて起こっている。
その間、マキラはずっと生きて世界を見てきたのだろう。ひどく長命なエルフにさえあった出会いと別れを一体何百回、何千回繰り返してきたのだろう。エルフの星でラルフを見つけたとき、マキラはどれだけ絶望しただろうか?
(俺がマキラから逃げている間、彼女はずっと孤独を飲まされていた)
エリックが傍に居たのだろうか。だがエリックがラルフを殺しに来る時、そこにマキラは居ない。
どこか遠くで待っていたのか、それともエリックにも会わずに一人だったのか。
「…ああ、そうか…
君は、死にたいんだな」
その言葉を最後にラルフは意識を失った。
絡んだ触手が一瞬で、ラルフの首を小枝より容易くへし折ったのだ。
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