#43 「進級ディスカス」
桜の花びらが散り、新緑が目に眩しい季節へと移り変わる。
俺は無事に小学六年生へと進級していた。
教室の窓から吹き込む風は春の暖かさを感じさせ、とても心地いいものだ。
六年生になってもクラス替えはなく、見知った顔ぶれが揃う教室は相変わらずの賑やかさを見せている。
休み時間のチャイムが鳴ると同時に、教室の空気が一気に弛緩した。
「ありかちゃーん!」
背後から衝撃と共に甘い声が降ってくる。
回避行動を取る間もなく、俺の背中には温かい体温が張り付いていた。
さらりとした黒髪に、日本人形のような整った顔立ち。
「真琴、重い。あと暑い」
「えー、いいじゃん。在処ちゃん冷たくて気持ちいいし」
「私は保冷剤じゃないんだけど」
文句を言いながらも、引き剥がそうとしない自分に苦笑する。
真琴とのこの距離感にも、すっかり慣らされてしまった。
彼女は俺の首筋に顔を埋めると、すんすんと鼻を鳴らす。
「んー、今日もいい匂い。これ何のシャンプー?」
「先月から変えた」
「そっかあ。私も同じのにしよっかなー」
屈託のない笑顔で言われると毒気が抜かれる。
真琴はクラスの中でも一際目立つ存在だ。
容姿端麗、成績優秀。
先日、義母の計らいでドラムに触れ、その才覚も露わになりつつある。
男子からの人気も高いが、本人はどこ吹く風で俺にべったりだ。
周囲の生徒から向けられる視線は羨望と嫉妬の入り混じったものではなく、何か美しいものを見たような、悟りめいたものを感じる。
「……視力上がるわあ」「とても美しいものを見た」「やはり、ありまこなのか」「いーや、まこありだね」
「ナマモノはやめろって先生に言われたろ」「いや先生何言ってんだ」「馬鹿なこと言ってないでさっさとプリント配ろうぜー」
小学生にしてすでに深淵を覗いている連中がいるようだ。大丈夫か、最近の小学生。おじさん心配だよ。
「ねえねえ、六年生だよ六年生。私たち、この学校のボスだよ? 牛耳っちゃう?」
「言い方。最高学年と言いなさい」
「えへへ。……でもさ、もう一年しかないんだねえ」
真琴の声色が、ふと真面目なトーンに変わる。
彼女は俺の背中から離れ、隣の席に腰を下ろして頬杖をついた。
「中学校、どうするか決めた?」
「中学校か……」
その話題はここ最近クラスのあちこちで聞かれるようになった。
公立に進むか、受験して私立に行くか。
子供なりに自分の将来について選択を迫られる最初の分岐点だ。
「在処ちゃんはさ、やっぱり音楽系の学校とか行くの?」
「いや、それはないかな。専門的なことはもっと後でいいと思ってるし」
「そっか。じゃあ私と一緒のとこ行こうよー」
「真琴はどこ受けるつもりなの?」
「んー、お母さんが勧めてくるのはお嬢様学校なんだけどねー。私、そういう堅苦しいの苦手だし」
机の上で指を遊ばせながら、真琴はむぅと唇を尖らせる。
彼女の家はそれなりに裕福だ。教育熱心な親御さんの意向も強いのだろう。
だが真琴自身の性格は自由奔放そのもの。
規律の厳しい学校では、その翼が窮屈に折り畳まれてしまうかもしれない。
活発に動くのが好きな彼女に鳥籠のような環境は似合わないだろう。
「在処ちゃんが行くところなら、私もそこにしようかな」
「そんな適当でいいの?」
「いいの。在処ちゃんと一緒なら楽しいもん。なんならドラムのことも教えてもらえるし!」
さらりと言ってのける真琴。
その瞳に迷いはなく、純粋な信頼だけが映っていた。
俺は少しだけ気恥ずかしさを感じて、視線を窓の外へと逃がす。
「……まあ、考えておくよ」
「うん、期待してる!」
予鈴が鳴り、真琴は軽やかな足取りで自分の席へと戻っていった。
俺は教科書を広げながら、頭の片隅で今後のことを反芻する。
進路。
前世では特に深く考えず、流されるままに地元の公立中に進んだ。
だが今は違う。
俺には音楽がある。
配信活動がある。
それらを両立させ、かつ充実した時間を過ごせる場所。
選択肢は多くないが、選ぶ権利は手の中にある。
(帰ったら、義母さんに話してみるか)
黒板に向かう先生の声をBGMに俺は夕食の献立と共に思考を巡らせた。
*****……
帰宅後。
俺は手早く夕食の準備に取り掛かった。
今日のメインは鶏肉の香草焼き。
ローズマリーとタイムの香りを移したオリーブオイルで、皮目をパリッと焼き上げる。
付け合わせには彩り野菜のグリルと、新じゃがのポタージュ。
義母の好みを熟知した俺のチョイスに抜かりはない。
鶏肉に下味をつけ、常温に戻している間に野菜をカットする。
この無心になれる時間が俺にとっては思考を整理する良い機会でもある。
午後七時過ぎ。
玄関から鍵を開ける音が聞こえ、次いで「ただいまぁー!」という元気な声が響いた。
「おかえり、義母さん。ご飯できてるよ」
「わあ、いい匂い! お腹ペコペコだよー」
リビングに入ってきた義母は上着を脱ぎ捨てながらキッチンへと突進してくる。
俺はその背後を追いかけ、脱ぎ捨てられた上着を拾い上げてハンガーに掛けた。
「着替えて手洗ってきて。先に配膳しとくから」
「はーい!」
洗面所から水の音が聞こえる間にテーブルの上に料理を並べる。
香ばしい匂いが食欲を刺激するのか、戻ってきた義母の目は輝いていた。
「いただきます!」
手を合わせるなり、義母は鶏肉へとフォークを突き立てる。
皮が弾ける軽快な音と共に肉汁が溢れ出した。
「ん~っ! 皮パリパリで中ジューシー! 最高!」
「ポタージュも温かいうちにどうぞ」
「うんうん。……はぁ、生き返るわぁ」
美味しそうに食べる義母の姿を見ていると作り手としての満足感が満たされる。
俺も自分の分の肉を口に運びながら、会話のタイミングを計る。
食事が中盤に差し掛かり、義母の箸が少し落ち着いた頃合いを見計らって、俺は口を開いた。
「あのさ、義母さん。ちょっと相談があるんだけど」
「ん? なになに? お小遣いアップ?」
「違うよ。……進路の話」
俺の言葉に義母の手が止まる。
おちゃらけていた表情がなりを潜め、少し真面目な大人の顔つきになった。
「そっか。在処ももう六年生だもんね。中学校のこと?」
「うん。そろそろ考えないとなーって思って」
義母はナプキンで口元を拭い、居住まいを正した。
「在処はどうしたいの? 行きたい学校とかある?」
「うん。実はひとつ気になってるところがあるんだ」
俺はあらかじめ用意しておいた学校のパンフレットをテーブルの下から取り出し、義母の前に置いた。
表紙には桜並木の下を歩く制服姿の生徒たちが写っている。
自宅からそう遠くない場所に位置する私立校だ。
「ここ、家からバスで二十分くらいのところにある私立なんだけど」
「……ああ、あそこね。中高一貫の」
義母も名前は知っていたようだ。
地元ではそれなりに有名な進学校だが、ガリ勉タイプというよりは自由な校風で知られている。
「ここがいいの?」
「うん。理由はいくつかあるんだけど、一番は校風かな。
生徒の自主性を重んじるっていう方針で校則もそこまで厳しくないみたいだし。
今の活動……配信とか音楽とかを続けるにはある程度自由が利く環境がいいと思って」
髪型や服装の規定、部活動の強制など、細かい縛りが多いところもある。
俺の場合、配信活動をしている以上、ある程度の自由度は欲しい。
その点、この学校なら伸び伸びと過ごせそうだと感じた。
「それにここなら高校までエスカレーター式だから、受験勉強で焦る必要もないし」
「なるほどねえ。確かに在処には合ってるかも」
義母はパンフレットをパラパラとめくりながら頷く。
そして、あるページで手を止めた。
「軽音楽部……これ、目当て?」
義母が指差したのは、部活動紹介のページ。
そこにはギターやドラムを演奏する生徒たちの写真が掲載されていた。
「うん、それも大きな理由のひとつ。
中等部には珍しく、軽音部があるんだ。しかも高等部と合同で活動してるみたいで」
通常、中学校の部活といえば吹奏楽部や合唱部が一般的だ。
軽音楽部がある中学校は少ない。
あっても名ばかりで活動実態が乏しいケースも多い。
だが、この学校は中高一貫のメリットを活かし、高校生と一緒に本格的な機材を使って活動できるらしい。
設備も充実しているようで、スタジオが完備されているとの記載もある。
「設備もしっかりしてそうだし、高校生の先輩から刺激をもらえるのもいいかなって」
俺の説明を聞き終えた義母は、パンフレットを閉じて腕を組んだ。
少しの間、天井を見上げて思案する。
やがて視線を俺に戻し、心配そうな表情で問いかけた。
「在処、ひとつ聞いてもいい?」
「なに?」
「その……部活のことなんだけどさ。在処、本当にそこで満足できる?」
義母の言葉の意図を測りかねて、俺は首を傾げる。
「どういうこと?」
「だってさ、今の在処の実力って、正直言って中学生レベルじゃないでしょ?
配信でもプロ顔負けの演奏してるし、機材だってプロ仕様のを使ってる。
そんな在処が、これから楽器を始めるような子たちと一緒に部活やって、楽しめるのかなって」
義母の懸念はもっともだった。
今の俺は前世の経験と知識、そしてこの身体の才能をフルに使って活動している。
技術的な面だけで言えば、高校生どころか大人と混じっても遜色ないレベルにあるという自覚はある。
先日、義母のバンドメンバーである現役プロたちからも評価されたばかりだ。
そんな俺が中学生の部活に入って、温度差を感じずにいられるか。
義母はそれを心配してくれているのだ。
「それに真琴ちゃんも一緒に行くんでしょ?
今日ね、美里ちゃんから電話があったの。『真琴が在処ちゃんの行く学校に行きたいって言い出して聞かない』って」
「あらら、耳が早いね」
真琴ならすぐ言うと思っていた。
「あの子、最近はドラムもめきめき上達してるじゃない?
二人して突出した才能を持ってるから、周りから浮いちゃったり、物足りなくなったりしないか、心配だなあ」
義母は俺たちのことをよく見ている。
真琴のことも含めて、俺たちが「普通の子供」の枠から少しはみ出していることを理解しているのだ。
学校という閉じた社会で突出した杭は打たれやすい。
あるいは退屈という名の壁にぶつかるかもしれない。
義母の心配は親としての優しさだ。
俺は少し考えてから、正直な気持ちを伝えた。
「確かに技術的なレベル差はあるかもしれない。
でも、私がやりたいのは技術を高め合うことだけじゃないんだ」
「うむ、続けて」
「部活ってさ、ただ演奏するだけじゃなくて、仲間と音を合わせたり、放課後にだらだら喋ったり、そういう時間も含めてのものだと思うんだよね。
一人で黙々と動画を作るのも楽しいけど、同年代の子たちとわいわいやる楽しさは、また別物だから」
「青春の一ページ的な感じね。一理も二理もあるね~」
前世では音楽に打ち込むあまり孤独な時間を過ごすことも多かった。
バンドを組んだこともあったが、プロを目指すというプレッシャーの中で純粋に音を楽しむことを忘れてしまった時期もあった。
それに真琴と一緒に何かをやるなら、部活という形が自然だろう。
「どうしても部活が肌に合わなかったり、レベル差がありすぎて馴染めなかったら……その時はその時だよ」
俺は肩をすくめて笑ってみせる。
「部活に入らなきゃいけないって決まりはないし、馴染めないなら辞めて、外部で活動すればいいだけだから。
スタジオで皆とセッションしたり、ネットで活動したり、選択肢はいくらでもあるから」
俺の言葉に義母はきょとんとした後、ふっと表情を緩めた。
「在処なりに考えているわけか」
「うーん」と腕を組んで考えている義母がカッと目を見開く。
大げさな演技をするのが好きな義母らしい反応だ。
「わかった! じゃあ、全力で応援する!
受験勉強とか大変かもしれないけど、サポートするからね」
「ありがとう。……まあ、勉強の方はそこまで心配してないけど」
前世の蓄積がある分、学習内容は復習のようなものだ。
今のところ成績はトップクラスを維持している。
受験対策も過去問を軽くさらえば問題ないだろう。
「出た、余裕の発言! さすが私の娘!」
義母は嬉しそうに俺の頭をわしゃわしゃと撫で回す。
髪がぐしゃぐしゃになるが、抵抗せずにされるがままにしておく。
「よし、じゃあ今日はデザートにプリン食べちゃおうかなー!」
「あ、それ私が明日のおやつ用に買ったやつ……」
「えっ、ダメ?」
上目遣いでこちらを見てくる義母。
その顔は進路の心配をしていた母親の顔から、スイーツを前にした子供の顔へと戻っていた。
俺はため息をつきつつも、冷蔵庫からプリンを取り出す。
「……半分こなら、いいよ」
「やった! 在処大好き!」
抱きついてくる義母の体温を感じ、俺は苦笑する。
俺はスプーンを二つ用意しながら、ぼんやりと未来を想像した。
TS転生した元男が演奏系配信者として稼ぐ話 深空 秋都 @Akito_Shinku
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