#42 「配信テクニック」
三月に入り、暦の上では春が訪れているはずだった。
しかし、窓の外を流れる空気は依然として冷たく、夕暮れ時の街路樹はまだ冬の装いを解いていない。
自宅の自室に戻った俺――――
数日前、義母たちのライブセッションを目の当たりにした。
かつての仲間たちが集い、音をぶつけ合う。その熱量に圧倒されたのは事実だが、それ以上に俺の目を引いたのは、ステージの袖で目を光らせていた裏方たちの姿だった。
佳代さんのPA技術。秋乃さんのマネジメント。芦田さんの元気。
彼女たちの存在があって初めて、観客の心に届く形へと昇華される。
配信者として一人で活動していると、つい忘れがちになる視点だ。音を鳴らすことだけが音楽ではない。その音をどう届け、どう管理するか。
その重要性を再認識した俺は、今日の配信のテーマを定めていた。
「よし、準備するか」
モニターの電源を入れ、配信ツールを立ち上げる。
オーディオインターフェースのノブを回し、入力レベルを確認する。
マイクのゲイン、ギターのシグナルパス。
一つ一つの設定を見直していく作業は、地味ではあるが欠かせない。
マグカップに残った麦茶を飲み干し、俺は配信開始のボタンをクリックした。
――――配信開始
「……ども」
【きた!】
【どもー】
【どもども】
【こんばんはー】
【待機してたぞ】
【三月一発目の配信!】
【まだまだ寒いねー】
次々と流れるコメントに視線を送りながら、マイクの位置を微調整する。
「今は三月上旬。学校の方も年度末でバタバタしてますけど、皆さんはどうお過ごしですか」
【年度末で大忙しよ】
【卒業シーズンでバタバタ】
【花粉症がねえ】
「皆さんそれぞれ忙しそう……はい、では今日の雑談は少し技術的な話をしようかなーと思います」
【ガッツリ話題切り替わったな】
【リンカネ講座開講か?】
【どの技術だろ】
画面を共有し、現在使用している配信用のイコライザー設定を表示させる。
波形がリアルタイムで揺れ、いくつかの周波数帯域がカットされたりブーストされたりしている。
「配信だとマイクの音とギターの音が喧嘩しやすいんです。なので、声の帯域を空けるためにギターのこの辺――――この帯域の音を少し削ってます。逆にギターの存在感を出すためにこのあたりを僅かに盛る」
【はえー……】
【小学生の語る知識じゃないねえ】
【そんな細かく設定してるんだ】
【俺、何も考えずに音流してたわ】
「それからコンプレッサーの設定も重要です。音が大きくなりすぎた時に抑え、小さい音を持ち上げる。でも、かけすぎると音が死んでしまう。音のダイナミクスにも余裕を持たせることが肝心なんですねえ。……ちょっと実演してみましょうか」
マウスを操作し、コンプレッサーのしきい値や圧縮率を変えていく。
設定を変えるたびに俺の喋り声や背後で小さく鳴らしたギターの音が変化する。
「これがガチガチにかけた状態。音が詰まって聞こえるでしょう? で、これが今の設定。自然な広がりを残しつつ、聴きやすいレベルに整えてます」
【全然違う!】
【こだわりが凄すぎる】
【配信の裏でこんなことやってんのね】
【いやこれガチで勉強になるやつだぞ】
「裏方の努力を知ると、一音の重みが変わるんですよ。ステージで輝くのは演奏者ですけど、それを支えるためにどれだけの準備が必要か。……まあ、小難しい話はこの辺にしましょう。皆さんの頭も疲れてきたでしょうから」
俺は画面を切り替え、カメラの画角をギターへと移した。
膝の上に置かれたギターは、三月上旬の冷たい空気を含んでひんやりとしている。
「後半は演奏パートです。今日はあえて、音数を絞って弾こうと思います」
ピックを手に取り、足元のマルチエフェクターを踏む。
ディスプレイの表示が切り替わり、空間系を薄くかけた、芯のあるクリーントーンへとパッチが変更された。
一瞬の沈黙。
配信画面のコメントの流れも静かに落ち着いていく。
俺は左手の指を指板に置き、ゆっくりと最初のコードを鳴らした。
アンプシミュレーターを介して響く音は、太く、温かい。
高音域の鋭さを抑え、中音域の粘りを強調したセッティングだ。
弾いた瞬間に立ち上がるアタック音。それに続く、穏やかに減衰していくサステイン。
俺はメロディを紡ぐことよりも、一音一音の「質感」を確かめるように弦を弾いた。
テンポは落とし、休符を贅沢に使う。
無音の時間もまた、音楽の一部だ。
次に鳴らす音を際立たせるための静寂。
弦を滑る指の摩擦音さえも、今のトーンには必要な要素として溶け込んでいく。
「――――」
声は出さず、心の中でリズムを刻む。
指先の力を抜き、弦の振動を直接指腹で感じる。
チョーキングで音程をじわりと持ち上げ、ビブラートで僅かな揺らぎを加える。
それは完璧なデジタル音ではなく、生身の人間が鳴らす「揺らぎ」を伴った音だ。
先日のセッションで見た義母の演奏。
粗さはあっても、そこには確かな命と熱さが宿っていた。
俺は前世の経験から技術に走りがちだが、今はあえてその「人間味」を追求したかった。
【染みる……】
【音が深い】
【酒持ってきて正解だった】
【マジで落ち着く】
【一音一音が粒みたいに立ってるな】
コメント欄には大人のリスナーと思われる落ち着いた書き込みが増えていく。
激しい速弾きや派手なパフォーマンスはない。
ただ、そこにあるのは経験に裏打ちされた徹底的に磨き上げられた音の響きだけだ。
曲の終盤、ボリュームノブを少し絞り、さらに繊細なピッキングへと移行する。
消え入りそうなほどの小さな音だが、先程の機材設定のおかげで、ノイズに埋もれることなく鮮明に響いている。
最後の一音を弾き、弦の振動が完全に止まるまで俺は右手を浮かせたまま動かさなかった。
「……ふぅ。お疲れ様です」
マイクに向かって小さく呟く。
演奏が終わった後の余韻が、部屋の空気を支配していた。
【最高だった】
【拍手】
【88888】
【888】
【いいねえ!】
【知識を得てから聞くと感じ方が変わるね】
画面上の視聴者数を確認する。
夜にも関わらず、多くの人が配信に付き合ってくれていた。
「さてと……明日も学校がありますし、そろそろお開きにしましょうか。三月は別れの季節でもありますが、準備の季節でもあります。皆さんも体調を崩さないように気をつけてくださいねー」
マウスをクリックし、配信終了のバナーを表示させる。
配信を停止し、モニターの光が消える。
部屋には再び静寂が戻ったが、耳の奥には先程鳴らしたギターの残響が心地よく残っていた。
リビングから、バタバタという足音と「ただいまー! アイス買ってきたよー!」という義母の元気な声が聞こえてくる。
俺はそれを聞いて眉を八の字にして苦笑する。「ありがと、いまいくー」と返事をした。
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