#40 「再生インディーズ」
深夜。
リビングの静寂を切り裂いたのは携帯のバイブ音だった。
俺は自室で明日投稿する予定の動画構成を練っていたが、壁越しに聞こえるその規則的な振動に筆を止めた。
リビングにはソファでうたた寝をしていたはずの義母、天音 優里がいる。
しばらくして、振動が止まり、微かな話し声が聞こえてきた。
「……もしもし。うん。……ええ、久しぶり」
義母の声は寝起き特有の掠れを含んでいたが、相手の名前を確認した瞬間に緊張が混ざった。
俺はドアを少しだけ開け、廊下に漏れる声に耳を澄ませる。
「……一夜限りのライブ?……いや、急すぎるよ。みんな今、何してるかも知らないのに」
相手はかつてのインディーズ時代のバンドメンバーだろう。
義母がかつて命を削るようにして音楽に打ち込んでいた頃の仲間だ。
電話の向こうの相手はかなり熱心に説得を続けているようだった。
義母は数分間、黙って話を聞いていた。
「……分かった。場所は私の店、Remainを使っていい。……分かってる。ギターでしょ。一晩限りならまあ、なんとかしてみる」
通話が終了した。
俺はドアを閉めようとしたが、リビングから「在処ぁ……起きてるー?」と力のない声が飛んできた。
義母はソファに深く沈み込み、スマートフォンを顔の上に乗せていた。
「ライブの誘い?」
「……元リーダーから。十年前の解散ライブと同じ日に、もう一度だけ集まろうってさ。場所はRemain。……で、私も当然参加することになってる」
「ほー、いいんじゃない?」
「簡単に言わないでよぉ……ここ数年まともに自分のギター触ってないんだよ? 在処の機材チェックで少し鳴らすのと、本気のライブじゃ天と地ほどの差があるんだから」
義母は自身の右手を目の前に掲げた。
白く手入れされた指先。
そこにはかつてあったはずの弦を抑え込み、弾きこなすための硬い皮膚、いわゆる「ギターだこ」が消失していた。
「……指は覚えてる。でも、身体がついてこない。今の私が弾いたら、ただの指の運動になっちゃう。そんなの見せたくないんだよね」
義母はそのまま目を閉じてしまった。
俺はキッチンへ行き、冷蔵庫から保冷剤を取り出した。
それを義母の額に載せる。
「明日から練習、手伝うよ」
「……へ? 在処が?」
「今の義母さんじゃ一曲終わる前に指が動かなくなる。疲れないコツを教えるよ」
義母は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに「お願いします、せんせー」と自嘲気味に笑った。
*****……
翌日、学校から帰宅した俺は、ランドセルを置くよりも先にライブハウス『Remain』のステージへ向かった。
開店前の静かなフロア。
義母は既にステージの中央で、先日俺がメンテナンスを終えたばかりの愛機を抱えていた。
「……よし、やるか」
義母がピックを構え、かつての代表曲のイントロを奏でる。
速いテンポのフレーズ。
だが、音が出た瞬間に俺は片手を挙げた。
「ストップ」
「えっ、始まったばかりだよ?」
「ピッキングの角度が寝すぎ。あと、左手の薬指が独立して動いてない。今のままじゃノイズが乗る」
俺はステージに上がり、義母の横に座った。
義母は戸惑いながらも指摘された通りにゆっくりと指を動かす。
「……本当だ。意識してなかったけど、薬指が隣の弦に触れてる」
「ブランクがあると細かい神経の制御が真っ先に衰える。まずはギターを鳴らすんじゃなくて、指を思い通りに動かすためのリハビリから始めるよ」
俺は譜面台に一枚の紙を置いた。
そこには俺が前世で日課にしていた効率的かつ退屈な基礎練習のパターンが記されている。
「BPMは60。一音一音、正確に一分間。一フレットずつ。指を上げる高さは三ミリ以内に固定して」
「……地味。地味すぎるよ在処」
「地味なことができない人に派手なライブは無理。ほい、やってねー」
メトロノームの音が、無機質に店内に響き始めた。
義母は不満げな顔をしながらも、俺の指示に従って弦を押さえる。
カチ、カチ、カチ。
十分後、義母の額に汗が滲み始めた。
一定の動作を寸分の狂いもなく繰り返すことは、全力で速弾きをするよりも遥かに集中力を要する。
ましてや、指の筋肉が衰えている今の彼女にとっては、一音一音が重い負荷となっていた。
「……っ、指がつりそう」
「そのまま止まらないで。リズムの表じゃなく裏を意識して」
俺は彼女の横で同じリズムに合わせて膝を叩く。
義母の演奏は次第に安定感を欠いていった。
指先が震え、弦を押さえ込む力が弱まる。
アンプを通していない生音が雑音を伴い始める。
「……在処。もう、指が……」
「あと十回。最後まで」
「ひぃ」
一セットが終わった瞬間、義母はギターを持ったままステージの床に倒れ込んだ。
「……きっつ」
「きつくないきつくない。次はピッキングの強弱。同じテンポで最大音量と最小音量を交互に出して」
「鬼! 小学生の皮を被った鬼がいる!」
文句を言いながらも、義母は起き上がった。
義母はなんやかんや言いつつ、やる時はやるのである。
*****……
数日が経過した。
義母の指先には再び赤いマメができ、それが徐々に硬化し始めていた。
練習のメニューは徐々に高度になり、曲のフレーズを分解した部分練習へと移行していた。
夜、閉店後のRemain。
俺はカウンターに座り、ステージで悪戦苦闘する義母を眺めていた。
「……ねえ、在処」
練習の合間、義母がギターの弦を拭きながら話しかけてきた。
「なに」
「昨日さ、昔のメンバーとビデオ通話したんだ。みんなすっかり大人になってたよ。まあ、学生の頃にやってたガールズバンドの雰囲気は無くなってたね」
義母は少しだけ遠い目をした。
「当時、私たちはメジャーデビューがゴールだと思ってた。でも実際は違った。今はライブハウスを経営してる。人生どうなるか分からんもんよ」
義母は再びギターを構えた。
「……大人になったし、綺麗に弾こうと思ってた。でも、それじゃダメだね。あいつらが求めてるのは、もっと泥臭くて、完成されてない、かつての剥き出しの音なんだと思う」
俺は黙って義母の言葉を聞いていた。
音楽において「正解」は一つではない。
技術的な完璧さが、必ずしも聴衆の心を打つとは限らない。
特に古い仲間との再会という文脈においては粗削りすらも物語の一部になる。
「分かった。じゃあ、今の練習は終わり。……少し方向を変えてみよっか。一回だけ全力で弾いてみて。ノイズもミスも無視してありったけで」
俺はステージに上がり、ミキサーを操作した。
アンプのボリュームを上げ、歪みを一段深くする。
「……いいの?」
「その代わり、自分でも嫌になるくらい思いっきりやってみてよ」
義母は深く息を吸い込んだ。
一音目。
凄まじい衝撃音がスタジオ内に爆発した。
それまでの丁寧な基礎練習で培われた「指の正確さ」が彼女自身の「感情」という燃料を得て、全く別のモノに変わる。
ピッキングのたびに右手が大きく円を描く。
左手の指が指板の上を、計算ではなく本能で駆け抜ける。
ミスはあった。
ピッチが僅かにずれる瞬間もあった。
だが、その音には人を惹きつける強烈な「エッジ」が存在していた。
俺はドラムセットの前に座り、彼女の音に合わせてスネアを叩いた。
俺はプロのドラマーではないが、前世での経験から最低限のビートは刻める。
ギターとドラム。
二つの音が衝突し、Remainの広い空間を埋め尽くしていく。
義母は笑っていた。
それは配信で見せる営業用の笑顔でも、母親としての優しい微笑みでもない。
ただ一人の音楽家として、音を出す喜びを全身で享受している人間の顔だった。
演奏が終わった。
最後の一音が消えるまで、俺たちは動かなかった。
「……これだよ。これだった」
義母は肩で息をしながら、自身の指先を見つめた。
マメが潰れ、僅かに血が滲んでいたが、彼女はそれを誇らしげに見せてきた。
「在処。ありがと。ようやく準備ができた気がする」
「……まだソロの後半、リズムが突っ込んでた。明日はそこを重点的にやるよ」
「ええーっ! 今のいい感じの空気で終わりじゃないの!?」
「練習は練習。本番で泣かないためにやるんだから」
俺は淡々と告げ、リュックから救急箱を取り出した。
*****……
その日の深夜。
自宅に戻り、義母はリビングのソファで再び倒れ込んでいた。
「……あー。身体中が痛い。在処、湿布貼って湿布」
「しょうがないなあ、はい。……あ、コーヒー淹れたから。そこ置いとくね」
俺はキッチンで淹れたマグカップを置いた。
義母は這い上がるようにしてコーヒーを啜り、満足そうに息を吐いた。
「マッサージしてあげましょうか? お義母さま?」
俺は揶揄うように手をワキワキとさせる。
「あらー、じゃあお願いしようかしら」
「乗るのか……」
「そりゃ在処のマッサージ気持ちいいんだもん」
「……ん、そこ寝転がって」
長方形の座布団を引っ張り持ってくる。そこに義母を寝かせる。
「じゃ、はじめまーす」
「うーい、いたたたっ?!」
「すっごい凝ってる」
最近はわりと座っていることが多いせいか、義母の身体は全体的に硬くなっていた。
ゆっくりと筋肉をほぐしていくと、次第に義母の表情が弛緩してきた。
「んあ~気持ちいい~」
その日は途中で寝息を立て始めた義母を起こし、寝室まで誘導して終わった。
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