#39 「憧憬リハーサル」



 冬の冷たい空気がライブハウスの重い扉をすり抜けて足元を冷やす。

 地下へと続く階段を降りるたびに外の世界の喧騒が遠ざかり代わりに重低音の振動が体に伝わってきた。

 ライブハウス『Remain』のホール内では既に照明が落とされステージ上だけが眩い光に照らされている。

 今日は従業員である芦田さんが一時所属しているバンドのライブ前リハーサルが行われる日だった。

 俺は冬休みの宿題を早々に終わらせた真琴を連れて客席の隅に移動する。

 真琴はドラムを習い始めてから一ヶ月が経とうとしていたが実際のライブを間近で見るのはこれが初めてだった。

 

 ステージ上では芦田さんがドラムセットの前に座り入念に機材のチェックを行っている。

 普段は人懐っこい笑顔を振りまき俺や真琴と冗談を言い合う彼女だが今はその面影が全くなかった。

 芦田さんの視線は鋭く一点を見据え一言も発することなくスネアドラムのテンションを確認している。

 その横顔には近寄りがたいほどの緊張感が漂っており真琴は息を呑んでその様子を凝視していた。

 

 「……結城さんなんだか別人みたいだね」

 

 真琴が小さな声で俺に耳打ちする。

 俺は頷きながらステージを見つめ続けた。

 

 義母がカウンターでドリンクの準備をしながらこちらに合図を送る。

 彼女もまたライブハウスのオーナーとしての顔でステージの進行を静かに見守っていた。

 芦田さんがスティックを高く掲げカウントを取る。

 鋭い音が店内に響き渡ると同時に激しい演奏が始まった。

 

 空気が震える。

 ドラムのバスドラムから放たれる衝撃が心臓を直接叩くような感覚。

 芦田さんの手足は目にも止まらぬ速さで動き複雑なリズムを正確に刻んでいく。

 真琴はドラムスティックを握る自分の手を無意識に握りしめていた。

 

 演奏される曲はテンポの速いロックナンバーだった。

 芦田さんは一定のリズムを保ちながらも適宜バンドメンバーにアイコンタクトを取っている。

 サビ前のフィルインでは高速のダブルストロークを披露しつつ、気配りを忘れない。

 一音一音が濁ることなく明瞭に響き渡りドラムという楽器が持つ本来の迫力を最大限に引き出している。

 

 「すごい……」

 

 真琴の口から感嘆の溜息が漏れる。

 彼女が自宅で練習している基本的なエイトビートとは次元が違っていた。

 芦田さんの動きには一切の無駄がなく効率的に体全体を使って音を鳴らしている。

 激しい演奏にも関わらずそのフォームは崩れることなく安定していた。

 前世で多くのドラマーを見てきた俺から見ても芦田さんの実力は確かなものだった。

 

 リハーサルは予定通りに進み最後に通し演奏を行って終了した。

 芦田さんはスティックを置くと大きく息を吐きタオルで顔の汗を拭う。

 照明が明るくなり彼女の顔にいつもの柔和な笑みが戻った。

 

 「お疲れ様。二人ともどうだったかな?」

 

 芦田さんがステージからこちらへ手を振る。

 真琴は弾かれたように立ち上がりステージの際まで駆け寄った。

 

 「結城さん! 今の演奏どうなってるんですか? 手が全然見えませんでした!」

 

 興奮気味に詰め寄る真琴に芦田さんは苦笑しながらドラムセットの横へ招き入れた。

 俺もその後を追ってステージに上がる。

 

 「あれは練習の積み重ねだよ。真琴ちゃんも毎日叩いてればいつかできるようになる」

 

 芦田さんはそう言いながら真琴を近くに椅子に座らせた。

 

 「でもね。上手に叩く前に大事なことがあるんだ。真琴ちゃんこれ見て」

 

 芦田さんが指差したのはバスドラムのペダルやシンバルスタンドのネジ山だった。

 そこには丁寧に注油され磨かれた形跡があった。

 

 「ドラムは多くのパーツが組み合わさってできてる。ネジ一つ緩んでるだけで演奏中に機材が倒れたり音が変わったりしちゃうんだ」

 

 芦田さんは工具を取り出しスネアドラムのボルトを調整してみせる。

 

 「自分の出したい音を作るためには機材の状態を把握しなきゃいけない。これをセッティングっていうんだ」

 

 真琴は芦田さんの言葉を漏らさぬよう真剣な表情で頷く。

 芦田さんは一つ一つの機材の役割とメンテナンスの重要性を丁寧に解説していった。

 シンバルの角度が手首の負担にどう影響するか。

 ペダルのバネの強さがキックの速度にどう関係するか。

 

 専門用語を極力使わず実体験に基づいた彼女の言葉は真琴の心に深く染み渡っているようだった。

 俺はその様子を傍らで見守りながら真琴の成長を確信する。

 憧れだけでは届かない領域があることを知りそれを埋めるための地道な作業の大切さを彼女は理解し始めていた。

 

 「道具を大切にできないやつは音にも舐められる。ま、師匠の受け売りなんだけどねー」

 

 芦田さんが少し照れくさそうに笑いながら真琴の頭を撫でる。

 真琴はその手の温もりを感じながら力強く返事をした。

 

 リハーサルが終わりライブハウスを後にする頃には外は既に暗くなっていた。

 駅までの道を歩きながら真琴はいつもより口数が少なかった。

 

 「真琴、大丈夫? 疲れちゃった?」

 

 俺が尋ねると真琴は足を止めて夜空を見上げた。

 

 「ううん。なんだか頭の中がドラムのことでいっぱいなの。私ね、もっと練習したいって思った」

 

 真琴の瞳には街灯の光を反射した強い決意が宿っていた。

 芦田さんの背中を見たことで彼女の中の熱量が一気に高まったのだろう。

 俺は鞄の中から小さな袋を取り出し真琴に手渡した。

 

 「これ。少し早いけどお祝い」

 

 中に入っていたのはシリコン製の練習用パッドだった。

 自宅でも大きな音を立てずにストロークの練習ができる代物だ。

 

 「在処ちゃん……これ、いいの?」

 

 「うん。基礎が一番大事だからね。芦田さんも言ってたでしょ」

 

 真琴はパッドを大切そうに抱え込み「ありがとう」と微笑んだ。





 ******……




 

 その日の夜。

 俺は義母と夕食を済ませてから自室で動画の編集作業を行っていた。


 「ライブか。ライブハウスでやるのはまた違うもんなあ」

 

 俺は作業の手を止め、一度自分のギターを手に取る。

 手入れを終えたばかりの弦が指先で心地よく振動した。

 

 誰かの背中を追いかけることがどれほど大きな原動力になるか。

 真琴が抱いたそれはかつて音楽を志した俺が一番よく知っていることだった。

 

 義母の足音が聞こえる。

 「ありかー、コーヒー飲む?」というのんびりした声が廊下に響いた。

 俺は「飲むー」と短く返し画面に向き直る。

 

 真琴がいつかステージに立つ日がくるのだろうか。

 もしも、もしもだ。彼女が本気ならば、その時は俺もギターを持ってそこにいたいと少しだけ思った。


 

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