第25話

「桃太。春が来る前にはもう東京に戻るぞ」

 ある日の夕方だった。遊びから戻った桃太に父が端的にそう告げた。

「え?」

 桃太は驚愕した。そして大きなショックも受けた。いつかは東京に戻るのだという父の話は理解していたが、それはもう一年後か二年後か、子供にとっては遥かな未来とも言える期間を経ての話だと思っていた。

「そ、それっていつ?」

「正確には分からん。とにかく東京の方で再就職先を見付けてからだな」

「前にいた病院に戻れる訳じゃないんだね?」

「そうだな。向こうに戻れるから戻る訳じゃなく、この村にいられなくなったから戻るんだ」

 父はそう言って小さくため息を吐いた。

「おまえが鬼に襲われて大けがなんかして来るからだ。ただでさえ悪い噂を立てられていた中で、身体が真っ二つになったおまえを治療しちまった。俺は他所では妖怪扱いだよ。何か隠しているんじゃないかと、色んな奴に詰め寄られるのはもううんざりだ」

 それはつまり桃太の所為ということだった。その為桃太は何も言えなくなった。

 こちらでの生活は必ずしも快適なものではなかった。学校の授業のレベルの低さを補う為、自主学習の頻度と時間を高めなければならなかった。来たばかりの頃は満作を初めとする田舎の悪ガキ達からリンチを受けたし、その満作が亡くなってからは亡霊に怯え眠れない夜を送ることも少なくなかった。学校では瓜子と共に常に排斥され何かと遠慮させられた。日常に妖怪の影が浸透し常に怯えていなければならないのも苦痛だった。

 それでも。

 桃太には大切な女の子が出来ていた。それは瓜子だった。彼女のように、可憐さと純粋さを併せ持った素晴らしい少女は他に出会ったことがなかった。口には出さないが桃太は彼女に憧れていたし好いていた。一緒にいられることが幸せだった。離れ離れになるのはたまらなくつらかった。

「……具体的な日時はまだ決まらん。だが、そう遠くないと思え。学校の友達にも挨拶しておけよ」

「……分かった」

 桃太は頷いて、それから自室に戻って少し泣いた。それから気持ちを切り替えて、ひんやりとした冬の窓に手を付いて、瓜子のことを思った。




「桃太よ! ついに我も自動車を買ったぞ!」

 翌日。冬休み期間中ということで、正午を回る頃に稽古に出かけた桃太を、王一郎は高らかな笑いと共に出迎えた。

「ふふふ……っ。苦しい道のりだった。自動車教習というものはかくも難解であり常に挫折との隣り合わせであった。しかし我は不屈の信念を持って道路規則や運転技術を習得し、こうして免許を得るに至った! その苦渋の道のりたるや、波乱の限りを尽くした兵役期間に勝るとも劣らない!」

「何をバカなことを言っているのよ」

 隣で妻がそう言ってため息を吐いた。

「単にアタマがバカになってる所為で筆記試験なかなか通らなかっただけでしょう? 良かったわねここのところ村が平和で。お陰で山を越えて遠くの教習所に通うことができたんだから」

 王一郎が自動車免許を取る為に苦労していたのは知っていた。王一郎は往復で八時間を掛けて徒歩で教習所に向かっていたが、それ自体が過酷な修行であるかのようだった。そうして帰って来たその足で桃太に稽古を付けるその体力には目を見張るばかりであった。

「さて桃太よ! 今日は我が自動車を購入した記念すべき日だ。弛まぬ鍛錬の日々にも時には憩いは必要である。どうだろう! 今日は我が一家と共にドライブに出かけるというのは!」

「ああ。……それは良いですね」

 桃太は頷いた。本来ならそれはとても嬉しい申し出であるはずだった。実際瓜子は諸手をあげて喜んでいたし、瓜子の母もどこか上機嫌だ。王一郎など先ほどから哄笑が止まらないでいる。その輪の中に桃太も入るべきなのは知ってはいたが、昨日父に言われたことを思い出すと気持ちは沈み込むばかりだった。

「どうしたの桃太? 行きたくないの?」

 洞察力に優れた瓜子はそう言って見上げるように小首を傾げて来た。桃太は努めて笑顔を作り「ううん。嬉しいよ」と返事をした。

 残された時間は少ないからこそ、この少女と共に過ごせる僅かな時を大事にするべきだ。桃太はそう思い直し、王一郎の買った車に乗り込んだ。

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