第26話
瓜子とは隣同士で後部座席に座った。王一郎が得意げにハンドルを握り、運転操作を開始したが、その運転技術は桃太の父とは比べるらくもなかった。すなわちヘタクソだった。
碌に整備されていない田舎の道路のことだ。あちこち走り回る子供達が前に出るなり、王一郎はいちいち急ブレーキをかけた。その度に瓜子は楽しそうにはしゃぎ回ったが、桃太にとってそれは恐怖でしかなかった。
派手に急ブレーキをかけるだけでなくハンドルを大きく横に切ろうとするので、いつあたりの建物に突っ込むのか分かったものではなかった。それでも尚王一郎は自身が弟子や家族を乗せて運転しているということに興奮し得意そうだったし、瓜子もまた楽しそうに笑い続けていた。
到着したのは海だった。
いつか瓜子と共に歩いて来たことのある海岸である。だだっ広い田舎の海の景色に、一つだけ小島が浮かんでおり、それは海神の住処だった。そこにある祠に海神が住んでおり今この瞬間も中に眠っているはずだった。
ドライブと言えば何かしらの目的地が必要であり、咄嗟に選ばれたのがここだった。山を越え隣の町へ行く計画もあったそうだが、王一郎の運転技術を考慮して妻がやめさせたのだ。
「寒中水泳をするぞ」
そう言って桃太を極寒の海へ誘おうとする王一郎は妻によって制止された。「いつでも加わるが良い」と言って一人裸になって海へ飛び込む王一郎に、桃太が続く気は毛頭なかった。
「冬の海も良いね」
砂浜を歩きながら、瓜子が言った。
「そうだね。静かだし」
潮風は冷たかったが不思議と乾いた感じはしなかった。波の音は豊かで飛沫と共に海の匂いが弾けた。
海から上がって来る王一郎の為に木材を集めて焚火をしようということになり、それは瓜子の得意なことだった。素晴らしい手際で木々を積み上げると、持ち歩いているライターで瞬く間に火を付けてしまう。
「あったかいね」
「そうだね」
バチバチと音を立てて静かに燃え続ける炎は、見ているだけで心安らいだ。冷たい冬の海の中で、そこだけが特別な聖域となった。そこに二人並んで腰かけながら、寒中水泳に耽っている王一郎やそれを腕を組んで眺めている妻の姿を観察していた。
「ねぇ瓜子」
「なあに桃太」
「大事な話があるんだ」
そこまで行って、桃太はつい言い淀んだ。しかしそれはいつかは言わねばならぬことであり、また話すなら早い方が良いような気もしていた。
「なあに?」
「実はぼく……この村を去らなくちゃいけなくなったんだ」
そう言うと、瓜子は目を丸くして、桃太の方をまじまじと見詰めた。凍り付いたようにずっと桃太の顔色を眺めていて、彼が嘘など吐かないことを吟味するようにしばし沈黙し、それから表情に哀しみを溢れさせた。
「そっか。いつ?」
「分からないけど、春が来るまでに。多分、一緒に中学生にはなれないと思う」
瓜子は目に涙を貯め始めた。そして桃太の胸にしがみ付いて顔をうずめると、しゃっくりをあげて泣きはじめた。
「泣かないで」
桃太はついそう言った。泣かれると桃太もまた、引き裂かれるように哀しかったのだ。
「でも……せっかく友達になれたのに」
瓜子は嗚咽を漏らす。
「たった一人の……心から信頼できる……本当の友達だったのに」
それは桃太にとっても同じだった。過去のどの友人と比べてもこの少女程親密ではなかった。お互いがお互いを強く求めあっていることを感じていたし、この村で起こる幸福なことのほぼすべてはこの少女がいるからこそ叶うことだった。
しばらくの間、二人はそうして抱き合っていた。この時間を大切にするべきだと桃太は思っていた。今生の別れではないにしろ、自由に会えなくなることに違いはなく、子供にとって耐え難い程の隔絶が間もなく二人には訪れる。そうなる前に、少しでもお互いの存在を貪っていたかった。
そんな時だった。
突如として海が割れた。思わず顔を上げると、静かだったはずの冬の海に大きなうねりが起きていて、その渦の中央から一つの巨大な異形が顔を出していた。
それは龍の姿をしていた。
青い鱗を全身に身に纏った、首の二つある龍だった。
その龍の異常だったのはまずはその巨大さだった。桃太の視界を覆い尽くす程の巨躯を誇っている。その巨体の多くの部分はまだ水中にあり覆い隠されているが、顔を出している部分だけでも、五十メートル以上はあるだろう。横幅も大きく、頭一つ一つが二階建ての建物くらいの大きさがあった。豊かな鬣を生やし、喉の当たりに二本ずつの腕を伸ばし、その先端には鋭い爪を帯びた三本の指が生えている。その姿はまさに伝説上の東洋の青龍だった。
さらにその龍は龍としての二つの頭部の上に、人間の女性の上半身を生やしていた。向かって左の頭は金色の、右の頭は銀色の、それぞれ艶やかな長い髪を有している。金髪の方は海のような深い水色の、銀髪の方は血のような深い紅色の瞳を持っていた。髪と瞳以外はほぼ同じ姿をしていたが、その両方共が凄まじい美貌を秘めていた。
「海神様……」
瓜子が思わずと言った様子で口を開いた。
桃太は思わず圧倒されていた。されない方がおかしい。ただ強大であるという一点で、その異形はこれまでに見たどの異形よりも異形だった。
海神は人のもの二つと龍のもの二つ、都合四つのアタマと八つの瞳で桃太の方をじっと見つめる。そして、金髪の女性の上半身が高い声を発した。
「おいあんた。そこの人間の子供や。男の方や」
意外にもその声は人間の女性そのものの声だった。それも高く瑞々しい楽器の如く美しい声だった。
「あんた。そう遠くない過去に一回死んどるやろ? 魂にまだ癒えとらんキズが入っとる。普通魂にキズが入るのは入れ物の方がダメになった時や。魂にだけそんなキズが入ることはありえへん。つまりあんたは一度入れ物がダメになった後で、入れ物だけが綺麗に修復されたっちゅう訳やな」
桃太は震えながら返事をすることができなかった。強大な存在が自分の方を向いて詰問をしているという事実がただ恐ろしかった。それに構うことなく、金髪の女性の頭は喋り続ける。
「そなけど魂がそんなに傷つく程入れ物の方が壊れたのなら、あんたがまだ生きとることに説明がつかん。あんた、人魚の涙を飲んだんとちゃうんか? ウチらの大切な娘っ子から涙を貰って、それを飲んだんとちゃうんか?」
金髪のアタマがそう言い終える頃には、寒中水泳から上がって来た王一郎が、裸のまま桃太の傍へと戻って来て間に立ちふさがった。
「海神殿! それはいったいどういうことだ?」
「討魔師か?」
金髪のアタマは言う。
「そいつはあんたの何や?」
「弟子にあたる。この少年が大けがを負ったというのは確かなことだ。そこから奇跡的な生還を遂げたということも。だがそれは腕利きの医者の手当てによるもので……」
王一郎はそれを信じていた。王一郎は桃太の負傷を実際にその目で見た訳ではない。そして彼は人の噂も信じない。よって彼だけは桃太が父文明の手術によって無事に生還したのだと信じていた。それは如何にも瓜子の父らしい、瓜子とは別のベクトルの、無垢なる純粋さ故のことだった。
「そんなことはありえへん。なああんた、答えてみぃ?」
そう言われても、桃太は舌と歯が震えて何も答えることができない。
「なあ! なんとか言え!」
「良ぅないよ、びゅうびゅう」
……と。
声を荒げる金髪のアタマを、窘めるように隣の銀髪のアタマが言った。
「……しとしと?」
「この子はまだちいちゃい子供や。おっきなあたしらがおっきな声で詰問したら、怯えて何も言えれんようになってまう」
「しとしとの言うことも分かるけどな。でもこれはウチらの大切な娘の問題やんけ?」
「せやからこそ慎重に質問をしてあげるんが大切なんや。怯え警戒した人間は嘘を吐く。それで騙されてもうたことは、びゅうびゅうには一度や二度のことではない訳やん?」
しとしとと呼ばれる銀色のアタマは、びゅうびゅうと呼ばれる金色のアタマと同じ姿と声をしていたが、しかしその喋るペースはびゅうびゅうと比べて穏やかで暖かみがあった。
「なあ坊や。びゅうびゅうはこう見えて、あたしよりずっと優しい子なんや。坊やのことも、別に怒っとる訳やない。ただ、焦っとって余裕があらへんだけなんや」
しとしとは言う。桃太はそのおだやかな声に微かに余裕を取り戻し、「はい……」と力ない声で答えることに成功した。
「あたしらの大切な娘っ子が行方不明になっとることは知っとる?」
「ええ。……人魚ですよね」
「そう。人魚。君、人魚と会うたことある?」
「……記憶にはありません」
「記憶にはないだけで、会うたかもしれん心当たりはあるってことなんかな?」
優しい声音で言うしとしとの声に、「どうなんや?」という威圧的なびゅうびゅうの声が添えられた。
桃太は困惑しつつも、どう答えるべきかを考えていた。
もし父文明が人魚を所持しており、故にその涙を用いて桃太を蘇生させることが出来たのだと仮定すると、それを正直に打ち明けるのは海神の怒りを買うことに間違いはない。
だが相手が神の如き強大さと、人間と会話や契約を交わすだけの知能があると知りながら、嘘を吐き父親を庇うこともまた得策とは思えなかった。桃太が知っていることを黙っている場合と正直に打ち明けた場合とで、どちらがリスクの小さな選択なのか、計りかねていた。
「……桃太よ。何を知っているのだとしても、ここは正直に口にするが良い」
王一郎が言った。
「他の低級の妖魔と異なり、海神に腹芸は通じない。びゅうびゅうの眼力は貴様の微かな表情や態度の違いも一目に見抜くし、しとしとの頭脳は貴様の言動の微かな矛盾も見逃さない。素直にすべてを語ることだ」
「……はい」
師にそう言われ、桃太は決断した。そしてすべてを語った。
鬼に襲われて身体を真っ二つに切り裂かれたこと。誰もがそんな桃太の死を確信したが、しかし実際には桃太は命を救われたこと。桃太を治療した医者は父であり、どんな手段を用いてそのような大手術を成功させたのかについては、一切口を開こうとしないこと。
「なんやそれ! 絶対その父親が怪しいやんけ!」
びゅうびゅうはそう言って声を荒げた。
「その先生をここに連れて来てもらえへん? 討魔師さん」
しとしとは静かな声でそう言った。
「いやしとしと! こっちから直接出向いて吊るし上げんかだ!」
「そんなことしたら村の人達を驚かせるよ? 変に怯えさせたら人間は何をしでかすか分からへん。娘っ子がどこにおるかも分からんまま姿を隠されたら、それがいっちゃん困るやん?」
「そんなんここに連れてこさしても一緒やろ! 娘っ子連れて逃げられたら最悪や!」
「そうならへんように討魔師さんにお願いするねん。あたしらが出向いたら絶対にその医者は何事か察して逃げるけど、討魔師さんが連れて来るんやったら素直に従う可能性はある。そうやろ?」
「…………ウチにはよう分からんけどもやな」
びゅうびゅうは腕を組んで唸った後、しとしとの方を見て言った。
「まあ。しとしとの考えることで、間違っとることはそう滅多にない。ここはおまえの言うことに従うかな」
「ありがとうびゅうびゅう」
この二つのアタマはそれぞれ異なる人格と思考を有しているらしかった。それでいて互いを尊重しあい、相談も交わしつつ一つの肉体を分け合っているらしかった。
「あの。海神さん、ちょっといい?」
そこで無邪気に口を開いたのは瓜子だった。
桃太は驚愕した。討魔師であり妖怪と人間の折衝役である王一郎が海神と口を利くのはある種当然のことだった。しかし瓜子はただの子供に過ぎず、そのやり取りに口を挟むというのは無謀極まりない行いと言う他なかった。
「なんや嬢ちゃん」
びゅうびゅうは鷹揚に答えた。
「桃太のお父さんをここに連れて来て、もし娘っ子を捉えていたら、あなた達はどうするの?」
「そんなもん八つ裂きに決まっとる!」
びゅうびゅうは吠えた。
「あかんでびゅうびゅう。そんなはっきり言うてもうたら」
しとしとが窘める。
「けども……まあそんなことをしとるんが発覚したんなら、何の罰もなしっちゅう訳にはいかんわな。あたしらと人間とは契約によって対等な関係にある訳やけど、せやからこそ片方が片方を裏切るようなことをするんなら、裏切った方が罰を受けなあかんのは当然のことや」
「でも桃太はお父さん殺されたくないでしょ?」
瓜子は桃太の方に視線をやった。
「う……うん」
「お二人は人魚が自分達のところへ戻ってきたらそれで良いんじゃない?」
そう問い掛けられ、びゅうびゅうは唇を尖らせ、しとしとは小首を傾げた。
「何が言いたいねん?」
「そうや。どんな狙いがあっての問いなんかな、それは?」
「わたしが人魚を連れてここに来る。そしてあなた達に人魚を差し出す」
瓜子は言った。
「それでも問題は解決するよね? あなた達は村民会を通じて村人達に人魚を探させていたんでしょう? だったらわたしがきっと人魚を見付け出す。そしたら桃太のお父さんを尋問する必要もどこにもなくなるよね?」
「……それはまあ、そうなんかな?」
びゅうびゅうが納得したように言った。
「あかんでびゅうびゅう。それやと娘っ子を浚った人間は罰を受けないままになるで」
「でも、人間に娘っ子を探すよう頼んだんは確かなんやろ? それで娘っ子がどこから見付かったとしても、人間に罰則を与えんことにしたんはしとしとの方やろ?」
「確かにそうや。もし人間が娘っ子を捕まえて閉じ込めとるような場合、そこを明らかにしとかんと、人間はその捕まえとった人間を庇って娘っ子を差し出さん可能性がある。せやから人間が何をしとったとしても、娘っ子を差し出しさえするんなら全部不問や。そういうことにした」
「この子は邪悪な人間から娘っ子を取り返して来てくれるらしい。それなのに人間を罰したらそれは、最初の約束に背くんとちゃうんか?」
「人間に娘っ子を見付け出させること自体、人間に平伏するようなものであって、あたしらで娘っ子を探し出せるんならそれが一番ええことなんや。その子供に娘っ子を連れて来させること自体、あたしは反対や」
「ウチらの手で娘っ子を探し出す為に、まずは娘っ子を捕らえとる医者をここに連れて来させると? しとしとはそう考えとるんやな?」
「そうや。そんで尋問して居場所を吐かせたんやったら、それは人間やなしにあたしらが娘っ子を見付けたことになる。その場合約束も何もない。堂々と八つ裂きに出来る」
「人間はそれで納得するんか? 討魔師に言うてその悪い医者を連れて来させるんなら、どっちにしろ人間の助けは借りてもうたことにならへん? その癖して人間を処罰するんは、どうなんや?」
「うう~ん」
しとしとは腕を組む。びゅうびゅうの言い分の正当性を吟味しているようだ。
「そこの坊やが娘っ子の涙で蘇ったことを見抜いたんはウチや。そこから人間に命令して色々捜査して娘っ子を見付け出したいうんなら、それは人間だけの手柄ではない。けれど、捜査に人間を使うとる以上、ウチらだけの手柄でもない。こういう微妙なケースにおいては、人間の利益に判断してやるんが、高潔な神性たるウチら龍族としては正しいような気もするんよ」
びゅうびゅうは言う。しとしとはしばし腕を組んで黙り込んだ後、「確かにそうやなあ」とおっとりとした声で言った。
「……納得してくれるんか?」
「うん。ええよ。そもそもびゅうびゅうの方があたしより先に生えとった首や。明らかに間違ったことを言うとるのでもない限り、意見が分かれた時はそっちが優先されるのが本来や。ここはお姉ちゃんを立てとくで」
「すまんなあ」
「ええんやで」
そのやり取りの後、向かい合っていた二つのアタマは、再び瓜子の方を向いた。
先に口を開いたのはびゅうびゅうだった。
「でもなあお嬢ちゃん。ウチらかて、無限に待ってやるつもりはないで」
次にしとしとが口を開く。
「せやな。人間の捜索を待つのももう限界や。待てるんは今夜の夜明けまでっちゅうことにしとこか。その時を過ぎたらあたしらの方からその医者のおるところに出向く。それで医者が既に逃げ出しとったり、娘っ子が見付からんかったりしたら、あたしらはとことんまでの強硬策に出させてもらう。それでかまへんな?」
「分かった。いいよ」
瓜子は答えた。それはどう考えても子供が安請け合いして良いことではなかったが、瓜子が躊躇するはずもなかった。王一郎もここでは口を挟まないようだ。
「絶対に人魚をここに連れて来るもんね。安心して待っててよ、海神さん」
「よっしゃ。ほな任したで」
そのびゅうびゅうの声を最後に、海神は海の底へと消えていった。
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