第23話

 鬼の出現には何の前触れもなかった。ただいつものように瓜子と共に彼女の自宅へ向かっていた最中、それは唐突に姿を現したのだ。

 二人は道中にいつものようなたわいのない会話を乗せていた。ここ最近の瓜子がするのはもっぱら人魚の話だった。以前から人魚に執着を見せる瓜子だったがここのところはよりその偏執に磨きをかけていた。

「早くわたし達で捕まえないと、他の人に先を越されちゃうよ」

 そう瓜子が熱弁するのも無理はなかった。何故ならこんな事情があった。

「海神様が人魚を探して連れて来いって言ってるんでしょ? もし村が人魚を見付けて来ることが出来たら、向こう十年は生贄を差し出さなくて良いって言って」

 そのお触れが出たのは数日前のことだった。村民会は村人たちにこぞって人魚を捜索するよう呼びかけ、見付け出した者には金一封を約束した。貧しい村人たちは目の色を変えて人魚を探しに川や海へと潜ったが、未だに発見はされていなかった。

「どうして、海神様が人魚を探しているんだったかな?」

 桃太にはその繋がりがピンと来ていなかった。瓜子は「え? 知らないの?」と小首を傾げつつも、出来の悪い生徒にも優しく授業する丁寧な教師のように言った。

「人魚の別名がワダツミノサナギっていうのは知ってるよね? というより、ワダツミノサナギの別名が人魚なんだけど」

「ああ。それは聞いたよ」

「ワダツミノサナギは海神の蛹だから、海神の幼体つまり子供なんだよ」

 それを聞いて、桃太は思わず口をぽかんと開けた。

「そ、そんなこと一度も聞いてなかったよ」

「そう言えば一度も言ってなかったね」

「なんでそんな重要なことを今の今まで?」

「わたし傷治す為に人魚には会いたかったけど、人魚がどんな生き物とか興味ないもん。興味ないことは話さないよ。でさ、その海神様の子供である人魚が、ここのところ家出したかなんかで行方不明ってことみたいなの。それで海神様はなんとしても我が子を取り戻そうとして、人間にそんなお触れを……」

 瓜子が言えたのはそこまでだった。

 瓜子の自宅は山の麓にある。ほとんど山の中と言っても良い。その木々の隙間から青白い巨躯が待ち伏せていたかのようにするりと現れ、瓜子を覗き込んでこう言ったのだ。

「おめぇ。鬼っ娘か?」

 鬼だった。体躯は三メートルを超え頭頂部には二本の大きく禍々しい角を持っていた。瞳の数は十兵衛と同じ三つ。服装は粗末であり、まさに鬼のフンドシと言った簡易的な布切れを腰に帯びているだけだった。

 その問いかけは瓜子に対して向けられていた。「鬼っ娘か?」と再度尋ねられた瓜子は、小首を傾げて「違うよ」と端的に答えた。

「そんなはずはねぇ」

 笑いながら鬼は言った。

「微かだが俺らと同じ瘴気を出してる。おめぇ討魔師の娘だな? 討魔師の娘が鬼っ娘になるとはこれは笑い話だ」

「何を訳の分からないことを言っているの?」

 瓜子は目を丸くして問いかける。

「あなた達、山を降りて来ちゃダメなんでしょう? 海神様が知ったら怒ってあなた達に罰を与えるはずだよ。告げ口はしないであげるから、山へ戻ったら」

「そうはいかねぇ。集落にあまり寄り付かなくなった鈴鹿様に代わって、頭領代理をしている宇良って奴から、鬼っ娘を連れて来るように仰せつかってる」

「だからわたしは鬼っ娘じゃないってば」

「だからそんなはずはねぇ」

「そんなはずあるもんね。もういいや桃太。行こっ」

 そう言って桃太の手を取って歩き出す瓜子の細い腰を、鬼はその大きな手でつかみ上げた。

「きゃあっ」

 あっけなく持ち上げられた瓜子は思わずと言った具合で悲鳴を上げる。そこで桃太は、咄嗟に竹刀を抜き放ち鬼と対峙した。

 最近の桃太は帰りに王一郎の元へ寄る為に竹刀を常に携帯していた。

「何だ坊主?」

 片手に瓜子を持ち上げたまま、鬼は桃太の方を睨み付けた。

「う、瓜子を離せっ!」

 なけなしの勇気を振り絞って桃太は啖呵を切った。鬼は心底から桃太をバカにしたように腹を抱えて笑い始めた。

「おい坊主。まさかその棒っ切れで俺と戦おうっていうんじゃないだろうな?」

「ぼ、ぼくは討魔師の弟子だ。瓜子を浚うんなら、ゆ、許さないぞ」

 鬼は桃太の二倍程の身の丈と十倍近い体重を持っているはずだった。華奢な少女とは言え、瓜子をこけしのように持ち上げるその腕力にも凄まじいものがあった。そんな相手に形勢不利は明らかだったが、それでも逃げ出すわけにはいかなかった。助けを呼んで来る暇があったら、この鬼は瓜子を山へと浚うだろう。

「そういやあ最近、人を食っていなかったなあ」

 鬼は挑発するように桃太に言い放った。

「前までは鈴鹿様にうるさく言われて人は食えなかったが、宇良の奴ならまあ怒らないはずだ。どれ。おまえを食ってやろうじゃないか」

 身を屈め鬼は桃太の身長程もありそうな腕を伸ばした。その青白い腕にはたくましい筋肉の隆起が見られ、指の一つ一つには鋼のような鋭い爪を備えていた。そんな手で掴まれればたちまち引き裂かれるか、全身の骨を握り潰されるに違いなかった。

 鬼の腕の動きは俊敏であり、もし桃太が咄嗟に身を躱そうとしても敵わなかった可能性が高い。だが桃太はそうはせず、鬼の懐に向けて踏み込んでいた。そして竹刀の切っ先を、身を屈めた鬼の右の眼球へ向けて差し入れた。

「ぐああああっ」

 本来小学生の剣道の指導要綱に『突き』は含まれていなかった。試合で使えば反則を取られる動きだった。だがあくまでも実践を重視する王一郎は桃太にそれを伝えていた。

『良いか桃太。相手が人でも動物でも妖魔でも、殺すには『突き』だ。急所を一突きされれば如何に強大な妖魔も平伏すのだ』

 王一郎の指導の通りだった。眼球を一突きされた鬼はたちまち瓜子を手放した。放り出された瓜子の身体は宙を舞い、地面に向けて尻餅を着きながら着地した。

 ……やった!

 自身の剣技が狙い通りの効果を発揮したことに、桃太は歓喜した。しかしそこまでだった。

「いてぇっ! いってぇええっ!」

 鬼はその場で無茶苦茶に両手をバタつかせた。鋼の切れ味を誇る爪で虚空を闇雲に切り裂いたのだ。当然、鬼の懐に潜り込んでいた桃太はその攻撃に晒されることになる。

 以前と比べ、桃太は確かに強くなっていたが、それでも所詮は子供だった。もし王一郎ならそれしきの攻撃簡単に身を翻すか、竹刀の一撃で叩き落してしまっただろう。だが実戦での『突き』の後隙で一瞬動けなくなっていた桃太は、その一撃をもろに貰った。

 鋼の如き硬さと日本刀の如き切れ味を持ったその爪は、桃太の全身を真っ二つに切り裂いた。

 腰を境に上下に泣き別れになった桃太の肉体は、それぞれが宙を舞って離れた地面に叩き伏せられた。激しく吹き上がる血飛沫で周囲は真っ赤に染まり、桃太の上半身は意識を失い、虚ろな視線を虚空へと彷徨わせた。




「そんな……」

 真っ二つになった桃太を見て、瓜子は思わず蒼白で叫んだ。

「そんなっ!」

 鬼は既にその場を逃げ出していた。片目を潰されたショックと恐怖によって、当初の目的など忘れて踵を返していたのだ。それはまさに敗走と言ったみっともない姿だったが、しかし失った物は勝者であるはずの桃太の方が遥かに大きかった。

 ……このままでは桃太は死ぬ。

 ……そうでなくとも、胴体から泣き別れになった下半身を失う。

 そのことは瓜子にとっても明らかだっただろう。後者はもちろん、前者についても最早手の施しようがないことが察せられただろう。

 しかし瓜子は諦めなかった。桃太の上半身と下半身をそれぞれ両脇に抱え、地面に夥しい血の跡を引きずりながら、えっちらおっちらと泣きながら後ろ歩きを始めた。

「桃太っ。お父さんのところに連れて行くからねっ。きっと助けてもらうからね」

 そう言って、瓜子は桃太の父……村唯一の救命医のところへと彼の肉体を運び始めた。

 上半身と下半身に分かれた桃太の肉体を引きずる瓜子の姿は、目撃した村人たちにとって奇異の目を持って受け止められた。

 村の名士である討魔師王一郎の娘であったとしても、村人たちの瓜子の扱いは決して良いものではなかった。瓜子の為に王一郎の名誉が霞むことがあったとしても、王一郎の為に瓜子の功罪が少しでも薄められることはなかった。

 よって村人達は瓜子に駆け寄ってまずこう言った。

「おまえ。鬼久保先生のお子さんを何に巻き込んだ?」

「良いから先生を呼んでよ!」

 瓜子は泣き叫んだ。潰れた花のようにくしゃくしゃにした顔で、激しい嗚咽を漏らしながら助けを呼んだ。

「早く病院に運んで! 桃太が死んじゃうの!」

「ああ運ぶとも。何がどうしてこうなった?」

「桃太はわたしを鬼から助けてくれたの! 鬼を追い払ってくれたの! ああああんっ。ああああああっ。ふぁあああああっ! あああああああっ!」




 桃太の父はその本名を鬼久保文明と言った。

 病院へと運び込まれた我が子を見た文明は、それが最早血の流し過ぎで助からないことを一目で見抜いた。今更止血や輸血を行ってもどうにもならない。そもそもこの村にこれほど悲惨な出血をした子供を助ける程の血液はなく、救命の為の数々の設備もまったく足りていない。

 だがそれはまともな医療行為をした場合の話だった。

 文明はまず桃太を担架で病院に運び込んだ屈強な男達を一喝し帰らせると、自らの手足となって動く看護士を使って息子を地下室の前まで運び込ませた。しかし地下室の中に入らせることまではせず、そこへ息子を運ぶ役割は自身の手で担った。

 地下室には簡易的な手術台と最低限度の医療器具、そして一台の水槽があった。

 水槽は大きかった。高さは二メートル、幅は一メートルを上回っていた。その中にいたのは艶やかな金色の髪をした十五歳程の娘だった。サファイアのような透き通った大きな瞳と白い肌、人形のような高い鼻筋を持ったその美しさは人間離れしていた。事実その少女は人間ではなかった。

 その少女の腰より下は、深い緑色をした魚の半身だった。水槽の中で折りたたむように丸められたその下半身の、鱗の一枚一枚が宝石の如く光り輝いている。体をまっすぐに伸ばせば、人のような上半身よりも、魚の下半身の方が幾ばくか長さがあるだろう。

 そう、少女は人魚だったのだ。

 文明が水槽に向かって怒鳴りつけると、人魚は怯えた様子で縮こまった。文明はその様子を見てさらに強い口調で怒鳴りつける。人魚は怯えながら水槽の上から顔を出した。

 脚立に上った文明は人魚の顎を強い力で持ち上げると、その顔に向けてビーカーを突き付けた。そして人魚の顔を何度か強く殴打すると、人魚の目からあふれ出した涙をビーカーへと移した。

 人魚の涙を入れたビーカーを持って、文明は息子である桃太の方へと歩み寄った。

「助けてやる。助けてやるぞ……」

 その必死の表情だけは、息子の死に怯え、息子を愛し、息子を救おうとする父の真摯な願いに満ち溢れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る