第14話
その夜。いつものように自室で勉強をしていた頃だった。
「近所でトラブルがあったそうだぞ。見に行こう」
父親にそう言われ、部屋から連れ出されることになった。
「喧嘩だそうだ。ある家のご主人が子供に掴みかかって、それを止めに入った別の大人と掴み合いだよ。すぐ行くぞ」
「それって見に行って面白いのかな。怖くない?」
「阿呆め。野次馬根性で行くんじゃない。こういう田舎じゃな、トラブルが起きた際にとりあえずご近所さん同士で集まって、皆で事態の収拾を計るものなんだ。おまえも男ならちゃんとそうしたことにも慣れておくべきだぞ」
勉強を中断させてでも、父はトラブルの仲裁に桃太を加えたいらしかった。争いごとからはとりあえず距離を置いてしまう息子の気質を、どうにかしようと言う意図がそこにはあった。
父に付いて歩いて行くと、一軒の家屋に行きついた。その庭には牛舎が一つあり、人だかりはそこに出来ていた。
「どうされましたか?」
父が声をかけると、野次馬の一人が「お医者様」と言って振り返った。
「何でも。他所の家の子供が、家畜を殺してしまったそうで」
「それは一大事ですな」
「ええ。しかもそれが村で一番の問題児だったものですから、家の主人はもうかんかんで、今にも掴みかからん勢いで。どうにか皆で抑え込んでいるところです」
それを聞いて、桃太は腹の底に冷たいものを感じた。そして人だかりを分け入り牛舎の中の様子を伺うと、そこには案の定瓜子の姿があった。
その手には小刀を一本帯びていた。
瓜子は憮然とした表情で唇を結んで立ち尽くしていた。その全身は血塗れであるのみならず、脹脛のあたりには何か動物の内臓のようなものまでこびり付いていた。足元には一匹の牛が虚ろな表情で横たわっており、大きく引き裂かれたハラワタの中からは夥しい血液があふれ出している。途方もない生臭さは、胃の内容物の臭いかもしれない。
「……瓜子」
「あ、桃太」
人だかりの中央で、血塗れの瓜子は桃太を見て手を挙げた。
「ねえ桃太も言ってやってよ。わたし悪くないってさ」
「……この牛、瓜子が殺したんだ」
「そうだよ」
「もしかして……千雪のビー玉を取り出そうとしたの?」
「うん。そう」
言いながら、瓜子はその場でかがみ込んで、牛のハラワタの中に躊躇なく手を突っ込んだ。
「なんとか胃袋まで到達したんだけどさ。ビー玉全然見付からないの。腸の方まで見たいから引っ張り出そうとしてるんだけど、上手く行かなくて」
胃袋を引っ張って腸を引きずり出そうと試みているようだった。そんなことをしている瓜子の腕から顔までは血を被って真っ赤に染まっていた。桃太はおぞましいものを感じつつ、とにかく今は瓜子の為に瓜子を止めなくてはならなかった。
「……やめよう瓜子。多分、こいつがビー玉飲み込んでるっていうの嘘だよ」
「なんでそう思うの? 千雪が嘘吐く訳ないじゃん」
「そうかな? ……仮に本当だとしても、瓜子がそれを胃腸の中から引っ張り出すのは、いくら何でも無茶だよ」
良くも胃袋をこじ開けるところまでいったものだと思う。普通なら、子供が自分の何十倍の体重を持つ牛を殺害することがまず不可能だが、瓜子はどうにかしてしまったらしい。切れ味の良さそうな小刀は王一郎のものを拝借したのかもしれない。ワンピースのスカート部分には、小刀から何度も血油をぬぐい取ったような形跡が見て取れた。
死体を尚もいじくろうとする瓜子を、別の男がすぐに引きはがした。そして容赦なく平手で顔を撃つ。
「いったっ。ねぇおじさん邪魔しないでよ。千雪のビー玉取り戻さなきゃいけないってずっと言ってるじゃん」
「黙れこの鬼っ子めっ。何を訳の分からないことをっ」
「放してよ。放してってばっ!」
言いながら小刀を振り回すので、男はたまらず瓜子から離れるしかない。
何故ここまでのことをしておいて瓜子が自由になっているのかと思ったら、子供とは言え武器を持っているから皆が遠巻きにしているらしい。今みたいに気骨のある者が掴みかかることもしばしばあるようだが、瓜子はすばしっこくスルリと抜け出しては、小刀を振り回して相手を遠ざけてしまう。
桃太はそんな瓜子に近付き、根気良く宥めようと試みた。
「分かった瓜子。じゃあビー玉は後でゆっくり探させてもらえるように、後でこの家のご主人にぼくからお願いしてみるよ。だからさ、今はとにかくこの場を収める為に、その小刀を置いてちゃんと謝ろう」
「でもこれ置いたらすぐ皆に羽交い絞めにされちゃわない?」
「ちゃんと武器を捨てたら酷くはされないよ。ビー玉のこともきっと何とかするから、今はまず武器を……」
その時だった。
人だかりの向こうから、一人の女性が現れた。
これまで桃太が見て来た中でも抜きん出て美しい女性である。目が大きく鼻が高く、色が白い。大人の女性の美しさを持つと同時に、どんな年代の少女より愛らしくもある。年齢は不詳という他なかった。
桃太はその女性を見てすぐに強い既視感を覚える。思わず瓜子の方を見詰めると、それぞれがそれぞれの過去と未来の姿と言っても良いくらい、その顔立ちには無視できない相似があった。
「……お母さん」
案の定というべきか、瓜子は女性を見てそう口にした。
「大変なことをしてくれたわね瓜子! お父さんの小刀なんか持ち出して!」
「聞いてよお母さん。わたし悪くないのっ。いや牛を殺したのは可哀想だし悪いことだけど、でもちゃんと理由があって。そもそも京弥の奴が」
そんな瓜子の頭に、母親は容赦なく拳骨を叩き下ろした。
「い、痛い……。ちょっとお母さんちゃんとお話し聞いてっ」
「この阿呆っ」
母親は瓜子の頬を張った。
「いつもいつもっ! おぞましいようなことばかりっ! お母さんはね、あなたの将来が本当に心配なのっ。ちゃんと反省しなさいっ!」
一言喋る度に一発張り手が飛んだ。最初は「違うの、違うの」と言い訳を口にしようとしていた瓜子だったが、母親の折檻が続く内に徐々に目に涙を貯め始め、やがては幼い子供のように声を上げて泣きじゃくり始めてしまった。
これだけ大勢の大人を相手にしても、動じずに牛のハラワタを引きずり出そうとする瓜子も、母親の前では年齢相応の子供だった。母親の剣幕や体罰が怖いという訳ではないのだろう。ただ、母親がこの状況で自分の味方をしてくれないことが、つらくてたまらないと言った心境であることが見て取れた。
「お母さんっ! 何で……何で……っ」
「後でじっくりと話し合いましょう。そしてじっくり考えなさい。あなたは許されないことをしたのよ」
そう言って、瓜子の手から小刀を強引に奪い取ると、母親は牛の持ち主である京弥の父に向けて娘の頭を下げさせた。
「本当に申し訳ありません。牛はそちらの言い値で弁償いたします」
「もちろんそうしてもらいましょうか。討魔師の一家であるお宅だから容易く弁償できるでしょうが、わしらにとって牛は大変な財産ですからな。お宅が普通の一家であれば、家を売らなければならないところですぞっ」
羽交い絞めにされたまま、京弥の父は嫌味たっぷりな口調で言った。しかしその怒りはもっともではあった。
「……存じております。娘も良く叱っておきますから」
「しかし娘がこんなことをしでかして、あの討魔師の主人はどうしてるんですかな?」
「……仕事で遠くへ行っておりまして、明日の朝まで帰りません。討魔師もどんどん少なくなっていますから、遠方からの依頼も増えておりまして」
「ふんっ。それはさぞかし儲かるんでしょうな。あんな変人、討魔師なんて仕事がなかったら、畑仕事も碌にできない気狂いの癖に。良いご身分だ」
「お父さんの悪口言うなっ」
瓜子が涙と鼻水を垂らしながら叫ぶ。
「黙りなさいっ」
母親が瓜子の頬を張った。
「立場を弁えるのよ。これは私達一家の過失なの。お父さんの悪口を言われたくなかったら、あなたは間違いを犯すべきじゃなかったの」
ますます声を大きくして泣きじゃくる瓜子に、桃太は思わず顔を反らした。見ていられなくなったのだ。
「……ふんっ。こんな気狂いの娘、あの時に処刑されて置くべきだったんだ」
京弥の父は吐き捨てる。そして牛の代金などについて、瓜子の母親といくつか言葉を交わし始めた。
瓜子の保護者の登場により、事態は一応の収拾に向かったということで、野次馬達はそれぞれ自宅へと帰り始めていた。
「ウチも帰るぞ」
桃太の父もそう言って桃太の手を引いた。そんな父に、桃太は「ちょっとだけ待ってくれない?」と願い出た上で、京弥の父に相対して深く頭を下げた。
「あの、お願いがあります」
「なんだ、小僧?」
「この牛がぼくの友達のおもちゃを食べちゃったみたいなんです。お腹の中を探らせてもらえませんか?」
「バカを言うな、バカを」
京弥の父は桃太をあしらうように軽く突き返した。
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