第12話


 流石の瓜子もこれには落ち込んだらしかった。

 泥だらけの傷だらけにされた痛みそのものよりも、友達に戻れると思ったかつての仲間から裏切られたショックが大きそうだった。子供を泣かせるにはお菓子を与えて取り上げるのが一番良い。土色の目をしてその場に蹲る瓜子の傷ついた様子を見て、桃太はいたたまれなかった。

 数日前、満作らのリンチに合って登校して来た桃太のことを、瓜子が衒いなく抱きしめて慰めてくれたことを思い出した。一見するとそれは遠慮や礼儀のない不躾な行いのようでもあったが、それが心から落ち込んでいる人間には確かな効果がある慰めであることも事実だった。あんな風に人の心を癒してのける天真爛漫さは瓜子の大きな長所であり才能だった。対する桃太は瓜子を慰めるのにどんな言葉をかけて良いのかも分からなかった。

「ぎゅーして」

 ふと瓜子が呟くように言った。それを聞いてようやく桃太は瓜子の傍に屈み込み、その泥で湿った全身を抱きしめることが出来た。

「……ぼくは瓜子の味方だから」

「ありがと」

 次からは促されるまでもなくこれができるようになろうと桃太は誓った。

 瓜子が満足するまでそうしていると、やがて太陽は傾き青空の隅に茜色の夕焼けが現れた。涼しく肌寒くなっていく空気の中ですぐ傍にある山の匂いがした。泥水に塗れた瓜子が風邪をひかないかを桃太が心配しかけたその時、一人の少女が桃太達の正面から現れた。

「あ、あの……瓜子。大丈夫?」

 綾香の取り巻きの内、千雪と呼ばれていた小柄な少女だった。背は瓜子よりも低く、全身の色素が薄いのか髪や瞳の色が淡かった。鼻が低く頬にそばかすが目立つその顔立ちにはどこか愛嬌のようなものがあり、美人ではなくとも野菊のような素朴な愛らしさがあった。

「……千雪?」

 瓜子はつぶらな瞳で千雪を見た。

「……ごめん。落とし穴があるってことは聞いてたんだけど、あんな酷いことまでするとは聞いてなくって……」

 千雪は言い訳がましくそう言うと、視線を微かに地面の方へと落とした。

「いいよ別に千雪には何もされてないし」

 そう言われ、桃太は一瞬だけ首を傾げたが、そう言えばあの時桃太を羽交い絞めにした三人の中にこの千雪と言う少女は入っていなかった。ただどこか一歩引いたような立ち位置から、出来事を遠慮がちに見守っているだけの少女だった。

 思えばどんなグループにも一人こうした人間はいる。皆で何かをしていても、そこに上手く加われずただそこにいるだけという類だ。要領が悪いのか積極性に欠けるのか、どちらかというと桃太もその手の人間なので何となく気持ちは分かる。おそらくグループ内での地位も低いのだろうと思われた。

「というかわたしに声かけて良いの?」

「実はその……綾香と喧嘩して来たの。喧嘩っていうか、一方的に追い出されたみたいな感じかな?」

「なんでまた? 大丈夫なの?」

「さっきのはいくら何でも酷いんじゃないかみたいに抗議したら、じゃあ昔みたいに瓜子と仲良くして来いみたいに言われて。もうあたしとも口利かないみたいに言われてさ」

 そう言った千雪の表情にはバツの悪さのようなものも滲んでいた。

「だからさ、実はあたし今行くところなくて困ってるの。瓜子を落とし穴に落とすって知っておきながら黙ってたのは、本当にごめん。だけど、その……出来たら昔みたいに」

「いいよっ!」

 途端に元気になって、瓜子は泥だらけになるのも構わず千雪に抱き着いた。

 この場合の『泥だらけになるのも構わず』というのは、『千雪が』泥だらけになるのも構わずという意味である。泥水に塗れた瓜子に抱き着かれた千雪は露骨に顔を顰めたが、しかし自身の置かれた立場を加味してか、どうにか笑顔を繕って抱擁を受け入れた。

「一番の友達だったもんねっ。友達に戻れるなら嬉しいもんねっ。ありがとー千雪! きゃはっ。きゃはははははっ!」

 桃太はこの千雪と言う少女を信頼して良いのかどうか疑問に駆られた。今更瓜子と友達に戻ろうとすることにムシの良さを感じる訳ではない。しかしこれまでずっと瓜子を無視して来たのが確かなのなら、今後容易いきっかけでまた綾香派に戻りかねないと思ったのだ。

「あ、あの、それと桃太……くん? も、よろしくね」

 ふと、千雪が桃太の方を見て言った。桃太はもちろん瓜子と友達なので、その瓜子と千雪が友達に戻るなら、必然的に両者の間には交友が生まれることになる。

「え、あ、うん。よろしく」

 桃太の方を見る千雪の表情には、どこか粘ついた情欲のようなものが覗いている。

 それがいったいどういった性質のものなのかは、その時の桃太には良く分からなかった。




 翌日は半ドンの土曜だった。

 土曜日の学校には活気がある。何せ給食を食べることなく帰れる『ちゃらい』一日である訳で、しかも翌日は休みなのだ。

 桃太もこの土曜日を心待ちにしていた一人だった。学校が終わったらどこかに瓜子を遊びに誘うつもりだった。向こうから誘われてどこかへ連れて行かれる可能性も高かったが、どこへ行くのだとしても桃太は大歓迎だった。どんな展開になってどんな楽しい一日になるのか、桃太の意識は早くも放課後に向いていた。

「おはよう桃太」

 そう声を掛けられ、振り返るとそこには千雪がいた。昨日までは自分のことを『くん』付けしていたのに呼び捨てになっていた。そこにさしたる感慨を持つことはなく、桃太は努めて笑顔を浮かべて千雪に応じた。

「おはよう千雪」

「今日から友達だね」

「そうだね。……ところでさ」

 桃太は気になっていたことを尋ねた。

「千雪は昔、瓜子と仲が良かったの? 一番の友達だったって言ってたけど……」

「そうだよ。瓜子はあたしの親友だったよ」

 千雪はかすかに遠い目を浮かべて言った。

「瓜子ってさ、明るいし優しいし、どんな怖いことにも平気な顔で立ち向かえるようなところあるじゃない? だから低学年の頃とかは皆のリーダーだったんだけど……でもちょっと豪胆が過ぎたのかな? 無茶苦茶やりすぎてだんだん皆付いていけなくなって……その内ちょっと浮いた感じになっちゃったのね? 分かる?」

「ああ、うん。それはなんとなく」

 目に浮かぶようだ。桃太は恐れを知らないかのような様子で、河童の住む洞窟の中へ入って行く瓜子の姿を思い出した。そして案の定河童に追い掛けられる羽目になり、仕舞いには河童の皿に岩を叩きつけて殺害するまでに至った。桃太を助ける為だったとは言え、ああいうことを繰り返していたのなら、低学年だった学友達が付いてこられなくなるのも無理のない話だった。

「でもね、その時あたしもちょっと浮いちゃったんだ。自分で言うと卑屈になるけど、あたしって皆よりちょっとトロくてさ。何をするにも皆の一番後ろで、満作とかには『足手まとい』とか言われちゃってさ。それで仲間に入れてもらえなくなって。それで浮いた同士で瓜子と一緒にいたの。二、三年くらい、ずっと二人で遊んでたんだ」

 それは確かに親友と言っても過言ではない間柄だった。だがそんな長い付き合いの友人が無視や仲間外れに晒される状況に陥った際、この少女はそこに同調し共に瓜子を排斥していた。

 だがそれは殊更にこの少女が卑劣であることを示す訳ではないだろう。瓜子へのいじめに加わらないことは満作や綾香と言ったクラスの権力者に背くことを意味する。学校と言う人間関係の地獄のような空間でその選択を取れる者は数少なく、この千雪という少女にその胆力があるようには思えなかった。

「そうなんだね」

「うん。ところでさ、桃太って何か武道かなんかやってたの?」

「え? うん、剣道をちょっとね」

「強かった?」

「一度だけ全国大会に出たことがあるよ」

 準決勝で敗退という成績だった。死んでも優勝しろと言っていた父に殴られることを覚悟したが、それは杞憂であり、強く抱擁された上好物をたらふく食わせてもらったことを覚えている。あれは良い思い出だ。

「やっぱりっ。昨日とか、京弥とか宗隆のこと、簡単にやっつけちゃったよね。あの二人だって満作が幹部にするくらいだから十分強いのにっ」

 そう言って千雪は朱の刺した頬と湿った視線で桃太の方を見詰めた。端正ではないが素朴なその顔は熱を帯びているかのようだった。

「桃太ってさ、頭も良いよね。東京の名門小学校から来たんでしょう? テストも百点だったし、授業ではどんな意地悪な問題にも答えてる」

「う、うん。勉強は得意だよ」

「すごいなあ。なんで瓜子ちゃんは仲間外れにされてる癖に最初っからそんな子と……」

「おっはよー千雪! 桃太!」

 言いながら二人の間に飛び込んで来たのは瓜子だった。屈託のない表情は如何にも上機嫌であり、昨日綾香達に傷付けられた痛みなど既に忘却の彼方にあるらしかった。

「ねっ、ねっ、今日土曜でしょ三人で遊びに行こっ。皆で人魚探しに行くの。良いでしょう?」

「もちろんだよ」

 桃太が言うと、瓜子は楽しそうに桃太と千雪のそれぞれの肩に手を回して嬉しそうに笑った。

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