第5話
満作は桃太に殴る蹴るの暴行を加え虫を食わせ低い崖から突き落とした後、腕を組んで挑発的な口調でこう言った。
「また試練を受けたかったいつでも来いよ。最高に楽しい奴を用意してやる。明日は用事の親父に代わって店番だから無理だけど、明後日以降店番がない日ならいつでも構わねぇ。いじめられるのがつらかったら、一日でも早く俺の子分になるんだな」
二日連続のリンチによって満身創痍のまま帰宅した桃太を、父親は無言で殴り倒した。そしてそれ以上の叱責を行うことなく「部屋で勉強しなさい」と告げて立ち去った。
言われたとおりに勉強をこなし、食事と入浴を経て再び深夜まで机に向かった後、桃太は布団へと潜り込んだ。
とても上手く行ったと言い難い転校初日の滑り出しと、まったく上手く行くとは思えない今後の学校生活を想起して、桃太は深いため息を吐いた。
明日が来るのが憂鬱でたまらなかったが、疲労困憊だった為睡魔はすぐに訪れた。翌日母親に起こされた桃太は朝食と身支度を済ませ村の学校へと出かけて行った。
「おはよう桃太」
校門の傍で話しかけて来たのはつらい村での生活の中で唯一の救いである瓜子だった。桃太の気分は落ち込んでいたが、それでも努めて明るく「おはよう」と挨拶を返した。
「キズ増えてんね。試練、失敗した?」
「まあね」
「そっかつらかったね。でも偉いよ桃太は。そうやって酷い目にあってもちゃんと胸張って学校来るんだもん。本当は満作なんかより桃太の方がずっと凄くて偉いってわたし分かってるからね」
「そ、そうかな?」
「うん。ぎゅーしたげる」
そう言って瓜子は桃太の頭に腕を伸ばして抱き締めた。背丈に二十センチ近く差があるので桃太の身体が大分傾く形になる。引き寄せられた瓜子の胸の温かさと柔らかさは、昨日の出来事も相まってまさに地獄の中の救いであり、桃太は幼子のようにそこに縋り付きたくなった。
「あ。満作だ」
そう言うと瓜子は抱きしめていた桃太から手を離し、子分を連れて歩く満作達の方へとずんずんと歩き、唇を尖らせて強く抗議した。
「こら満作! もう転校生いじめはやめなさいよ! あんまり酷くすると、わたしも怒っちゃうんだからね。先生に言いつけるんだからね!」
握った拳を地面に突き出しつつそう言う瓜子のことを、満作は軽く一瞥しただけで、すぐに子分達との会話に戻った。そしてそれ以降は瓜子の方を見向きもせずに、まったく相手にする気はありませんよという態度で、校舎の方へと歩いて行った。
「あーっもう! お得意の無視攻撃? 良いもんねーずっと後ろ付いて悪口言っちゃうもーん。満作このいじめっ子! おばかっ! まぬけっ! あほっ! すけべっ! ちんこっ! さでぃすとっ! けせらんぱせらんっ!」
満作の無視はどこまでも徹底しており、根負けした瓜子は二人の子分達に矛先を変えた。
「京弥、宗隆、あなた達も何か言えっ。このこしぎんちゃくっ! はなたれっ! へたれっ! たこっ! さんしたっ! うんちっ! ぼけっ! あかなめこぞうっ!」
京弥と宗隆の二人もまた親分と同様に何の反応も示そうとしなかった。ただニヤニヤとした表情を突き合わせ、必死で声をかけ続ける瓜子の様子を嘲り無視することを楽しんでいた。
「うぅ~。みんなわたしを無視する~っ!」
瓜子は涙目になって握った拳を地面に向けて突き出したまま歯噛みした。桃太はそんな瓜子が不憫になって肩に手を置いた。
「ぼくの為に意見してくれてありがとう。大丈夫だよ」
「……そっか。ごめんね」
「今日の放課後は一緒に遊びに行くんだよね? 人魚を探しに行こうよ」
そう言うと、瓜子は先程までの落ち込みが嘘のように、表情を目まぐるしく変えて満面の笑みになった。
「そうだったっ! あはっ。楽しみぃっ。ね、ね、約束だからねっ。絶対行こうねっ」
「う、うん」
「ふっふふーん。ふっふふーんっ」
上機嫌に無茶苦茶な鼻歌を歌いつつスキップをし始めた瓜子のその切り替わりように、桃太は父から過去に聞かされた躁鬱病の症状を思い出した。情緒がまるで安定せず酷く落ち込んだり激しくはしゃいだりを繰り返すというものだった。
もしかしたら、この子は少し変わっているのかもしれない。桃太はそう悟り始めていた。
やがて放課後が訪れる。桃太と瓜子は鞄を家に置きに行く間も惜しんで人魚を探しに出かけた。
桃太は過去に人魚に助けられた砂浜を覚えていたがその場所までは知らなかった。だから桃太の記憶する砂浜の特徴を話して瓜子に案内してもらうつもりでいたが、しかし瓜子は「そこは今日は行けないよ」と首を横に振った。
「だって遠すぎるもんね。歩いて行こうとしたら日曜かせめて半ドンの土曜じゃないと」
桃太は残念に思ったがなら週末に行けば良いと思い直した。代わる遊びをどうするか瓜子に相談すると、瓜子は。
「いや別に海にいるとは限らないから今日は川に行くよ。人魚も妖怪だから山奥の川にいるかもしれないじゃん」
と答えた。
「昨日桃太は満作達に河童が住んでる洞窟の前に案内されたんだよね? 実はわたしその場所知らなくってさ。ずっと前から教えてってお願いしてるんだけど、満作はわたしを無視するから教えてくれなくて。桃太は知ったんでしょ? 案内してよ」
河童がいるからと言って人魚がいるという理屈はなく、河童に遭遇することを恐れる桃太としては気が進まない提案だったが、しかし桃太は努めて笑顔になり「良いよ」と了承した。
「わたしさー。何が何でも人魚には絶対に会わなきゃいけないんだよね」
山へ分け入る道中、瓜子はそんなことを口にした。
「人魚の涙を飲めばどんなケガでも病気でも簡単に治る体質になるもんね。だからずーっと人魚を探して色んな水場を回ってるんだ。毎日だよ」
桃太は瓜子のくり抜かれたという右目を見詰めた。そこには義眼がはめ込まれていたが傍目にはそう見えなかった。人魚に会って失われた右眼球を修復することが瓜子の悲願だそうだ。
「これからはぼくも協力するよ」
「ありがとう桃太。わたし人魚に会って涙を飲めるんだったら一生マシュマロもチョコもいらない。脱脂粉乳だって残さずちゃんと飲むんだからね」
そんな話をしながら件の川原へと到着した。川は相変わらず澄んでおり水に匂いが香しかった。
「あの洞窟に河童がいるんだ?」
瓜子が言って向こう岸に見える崖に開いた洞窟を指さした。桃太は頷いて洞窟から子供の河童が出て来た話をした。
「ふうん。じゃ、見に行ってくるね」
そう言って、瓜子はこともなげに近くの岩場に飛び移ろうと助走をつけた。桃太は慌ててそれを制止する。
「いや、それはどう考えても危ないよ」
「でも人魚の手がかりを掴もうと思ったら、絶対妖怪のいる山奥に行った方が良いじゃんっ」
瓜子は強い口調でそう主張した。桃太は首を横に振る。
「向こう側で河童に遭遇したら、殺されるかも。縄張りを犯されたら河童はきっと怒るよ」
「虎穴に入らずんば虎子を得ずだよ桃太。人魚に会う為だったらわたし、命くらいかけるもんねっ」
そう言い張る瓜子の態度は強硬であり桃太は途方に暮れた。何が瓜子をそこまでさせるのかは分からなかった。片方の眼球が失われているという状態がどれほどの苦悩かは桃太には計りかねたが、命の危険を認識しながらそれでも躊躇しない瓜子の様子には、偏執的なものを感じさせられた。
「桃太怖いんだったらここで待ってて良いよ。これはわたしの問題だし、巻き込むのも悪いからね」
そう言われ桃太は僅かに逡巡した。確かにこれは瓜子の問題であり、桃太が巻き込まれる道理はなかった。しかし向こう岸が危険だと知りながら女の子を一人で送り出すのは、度々父が桃太に言う日本男子という言葉とは程遠い行いだった。
「いや……。ぼくも付いて行くよ。危険だったら一緒にすぐ逃げよう」
桃太が付いて来たことに瓜子は喜んだ様子だった。自分の目的に桃太が協力してくれることが嬉しく、また妖怪の出る山奥への冒険のスリルを共有することを楽しんでいるようだった。
「なんかすごいドキドキして来た」
洞窟の前で瓜子は胸に手を当てて言う。片方の目を失って遠近感に乏しい瓜子は、岩を乗り継ぐ途中に二回程川に落ちており全身はずぶ濡れだったが気にした様子はない。ワンピースが肌に張り付いて全身が透けた様子は艶めかしく、何度見ても馴れるものではなかった。
「風邪ひかない?」
「後で火に当たるよ。焚火するの得意だもんね。しょっちゅう川に落ちるからライター持ち歩いてるんだ。濡れても使える奴ね」
瓜子を先頭に二人は洞窟へと突入した。
洞窟の中は暗かったが幸いにして長くはなく直線的で、反対側の出口の光が常に見えていた。それでも二人は手を握って慎重に洞窟を進んだ。水に濡れた瓜子の手はひんやりとして、信じられない程すべらかで柔らかかった。
薄暗い洞窟の中に二人の足音だけが反響していた。一歩進むごとに響き渡る砂利の音が河童に聞かれることを思うと、桃太は全身が震える程だった。しかし前を進む瓜子の足取りは軽やかでスキップを始めそうですらあり、この少女には恐怖と言う感情がそもそも備わっていないのではないかと疑う程だった。
その時だった。
二人のものでない足音が聞こえて来た。それは洞窟の出口近辺から桃太達の方に響いていた。一歩と一歩の間隔が人間のそれより遥かに大きく、足音に混ざって水の雫が垂れるような音も聞こえて来た。
出口から溢れる光に照らされて、一匹の河童の姿が顔を出す。それは昨日見た個体と比べて大きく背丈は百五十センチ程だった。アヒルのような形の黒い口ばしと細い目という特徴は変わらなかったが、しかし顔に刻まれた皺や輪郭の様子は年嵩に見えた。
「河童だっ」
思わず叫んで桃太は瓜子の手を引いて大急ぎで洞窟を引き返した。突如腕を引っ張られた瓜子は「わっ」と声をあげ前のめりに転びかけたが、桃太に縋り付くようにして体勢を立て直すと、半ば引きずられるようにして走り出す。
「ちょっと桃太脚速いってぇっ」
「ごめんっ。でも頑張って! 多分追いかけて来てるから!」
足音は消えることなく桃太達の後ろでずっと響いていた。これだけ走って足音が消えないのは、相手がこちらに向けて歩いてきているからに違いない。自分達の領域への侵入者を発見した個体が、桃太達を咎める為に追って来ているのは明白だった。
だが脚は速くない。逃げ切れる。
洞窟を出るまではすぐだったが鬼門となったのは川をどうやって渡るかだった。しかし瓜子は跳躍能力に乏しく足場をジャンプで乗り継ぐのに不安があった。
「おんぶするから乗って!」
桃太は素早く判断して瓜子に背中を差し出す。瓜子は遠慮なくしがみ付いて来た。
「きゃはははっ。行け行け! ゴーゴー桃太!」
必死の桃太に対して瓜子は呑気なものだった。命がかかっているかもしれない状況にも関わらず何食わぬ顔で行楽気分を持続させる瓜子に、桃太は得体の知れない恐怖を感じる。この子の頭は少しおかしいのではないかと桃太は本気で危惧を覚えた。
瓜子の体重は見た目通り軽く、背負ったまま岩場を渡るのにさしたる支障はなかった。無事に人間の領域にたどり着いた桃太は、その場に瓜子を降ろしてから息を吐き出した。
「やるじゃん桃太。結構、男の子だね。頼もしかったよ」
「……どういたしまして」
桃太は力なく言って洞窟の方を振り向いた。河童の姿は見えずもうこれ以上追いかけて来ないようだった。無事に桃太達を自分達の領域から追い出した為、向こうとしても目的を完遂したという訳なのだろう。
「ねぇ桃太。一応、その川岸から離れた方が良いよ」
瓜子が声をかけて来た。
「いつ河童がやって来て足を引っ張って来るか分からないもんね。最後まで油断しちゃダメ、家に帰るまでが遠足だよ」
「流石にもう大丈夫だよ」
桃太はため息を吐いた。河童がやって来るにしてもその姿が見えたら全力で退避するだけのことだった。もっともこんな川原からはどの道すぐに離れたかった為、桃太は緩慢に川に背を向けて村の方へと向いた。
「じゃあ瓜子。今日はもう帰ろ……」
その時だった。
桃太の脚にぬらりとした嫌な感触がまとわりついた。それは生き物の皮膚の感触だったが、薄めた糊を纏っているかのように信じられない程粘ついていた。その体温は低く氷のように冷たかった。
思わず足元を見る。河童の腕が桃太の脚に絡みついていた。恐怖のあまり桃太は絶叫した。それは先ほどまで桃太達を追いかけて来ていた河童だった。桃太が少し目を離していた隙に、音もなく川に飛び込んでいたらしかった。
河童は信じられない程の腕力で桃太を川の底へと引きずり込もうとする。
河童が子供を川へと引き込む目的はただ一つ、殺害に違いなかった。河童の瞳には冷酷な殺意が青白く滲み桃太の方を静かに見竦めていた。
「わ、わぁあああっ!」
思わず全身をバタつかせたが河童の腕力は凄まじくどうすることもできない。思わず近くの岩に捕まってもがいたが、河童はその怪力で持って桃太を引きちぎらん勢いで強く引っ張った。桃太は腰を中心に体が真っ二つに引き裂かれるような痛みを感じた。
殺される! 桃太は絶望した。岩にしがみついた己の腕力が消えかかっている。この手が完全に岩から離れた時、桃太を待つのは河童に溺死させられる未来だった。それは確実に桃太に迫っているようだった。
桃太は眼前の死が受け入れられず声にならない叫びをあげた。桃太は死を恐れていた。この死から桃太を救ってくれるなら神でも悪魔でも構わなかった。何を見返りに差し出してでも桃太は救われたかった。桃太は自分を救ってくれるなら、その後の人生の全てをその相手に差し出しても構わなかった。
その時だった。
「桃太を離せ!」
瓜子の声がした。次いで分厚い陶器が砕け散るような気味の良い音が鳴り響いたかと思うと、ふいに桃太を襲っていた怪力が途切れた。
桃太は岩にしがみついて震えたまま後ろを振り向いた。
大きな岩を手にした瓜子が血潮を浴びて立ち尽くしていた。その足元には河童の肉体が転がっている。下半身は川の水に浸した状態だったが、上半身は川岸の砂利の上に横たえている。その頭頂部にある白い皿は砕け散り、内部から大量の血とゼリー状の物質を飛び散らせていた。
「大丈夫?」
瓜子はこともなげに言って、岩を川に捨てた。激しい音がして水飛沫が高く上がった。
「河童だから皿砕いたら死ぬかと思ってさ。やってみたら、本当に死んじゃった」
桃太は思わず河童の頭頂部を凝視した。皿は人間における頭蓋骨の役割も兼ねているのか、砕かれたその下には脳味噌らしきゼラチン質が詰まっているのが見える。横向きになった顔からは早くも血の気が引き始めており、糸のように細かったはずの両目は大きく見開かれ酷く虚ろだった。
「ごめんねぇわたしが巻き込んだ所為で怖い思いさせちゃって。でももう大丈夫だよ。助かったから」
思わず崩れ落ちた桃太に、瓜子が優しい声で言って近づいて来た。そして桃太の頭を抱きしめて優しく撫でた。
死の恐怖から脱した桃太は思わず幼児のように泣き始めた。涙とは、恐怖や苦悩を感じた時より、そこから脱した時に激しく流れるのだと知った。増してその涙が優しい誰かによって受け入れられる時、人はより一層声を大きくして臆面もなく泣きじゃくるのだ。
錯乱して涙を流す桃太の顔を胸に押し当て、瓜子はその頭を優しく撫で続けていた。
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