第4話
今朝の一件が尾を引いたのか、その日一日中、桃太がクラスメイトから声を掛けられることはなかった。授業も退屈そのもので、小学生向けのカリキュラムをすべて終え、中学受験に向けた勉強に取り組んでいる桃太にとっては、意味のないものでさえあった。
しかし合間の休み時間に天真爛漫に声をかけて来る瓜子と過ごすのは楽しく、心癒されるものだった。
そんな様子を満作達に冷やかされることを桃太は常に警戒していたが、意外にも彼らは何もしかけてこなかった。瓜子自身、常に無視されているだけで直接的な攻撃にさらされることはなく、体育でボールを回してもらえない時と給食を別けてもらえない際、悶着があった程度だった。
何度無視をされても、瓜子は果敢に綾香達に声をかけ続けていた。根気良く話しかけ続けていれば、いつか返事をしてもらえると思っているのかもしれない。それは瓜子が級友たちに対する愛情と希望を捨てていないことを意味していた。しかしそんな瓜子をクラスメイト達は皆一様に無視し続け、その表情に嘲りと虐げられる者に対する優越感とを滲ませていた。
放課後になり、帰る支度をしている桃太の元へ、ついにというべきか、満作が声をかけて来た。背後にはもちろん、京弥と宗隆という二人の子分を従えている。
「よお。弱虫のぺぇぺぇのお坊ちゃん」
「なんだよ」
「いい加減、弱虫のぺぇぺぇて呼ばれるのは嫌じゃないか?」
そう言われ、桃太はできるだけ毅然とした声で。
「君に弱虫と言われたところで、ぼくが弱虫になる訳じゃない」
「へぇ。だったら、俺の子分になるテストはもう受けなくて良いんだな?」
そう言って太々しい顔をする満作に、桃太は背を向けて歩き去ろうとする。
「待てよ。別にちょっかいかけに来た訳じゃねぇんだ。ちゃんとした試練を通過すれば、仲間に入れてやる気はあるんだぜ?」
そう言われ、桃太は警戒しつつも満作に振り返った。
「昨日あれだけ殴ったのだってな、おまえが生意気だったのが悪いのであって、ちゃんと瓜子を殴れば京弥や宗隆と同じ扱いをしてやるつもりはあったんだ」
「ぼくは瓜子を殴らないよ」
「ああ。それはもういいよ。だから、別の試練を受けてもらう」
「ぼくは誰のことも殴らないよ」
「殴らせねぇよ。他人に迷惑をかけるようなことはやらせねぇ。ただ、ちょっとした危険をくぐって来て貰うってだけだ」
にやにやとした表情の満作。桃太は警戒しつつも、どうするべきかを考えてみた。
満作には虚勢を張ったが、悪口を言われバカにされるのがつらくない訳がない。このままクラスで孤立し続けるのも、決して喜ばしいことではなかった。
「……その試練っていうのは?」
「試練は試練場で行う。詳しい説明はそこでする。とにかく、付いて来いよ。無事に乗り越えればおまえは無事に俺の子分の仲間入りだ。このクラスの奴は全員俺の子分だから他の皆とも友達になれる。そしたら俺はおまえのことをぺぇぺぇと呼ばねぇし、呼ばせねぇ」
「……分かったよ」
桃太は満作に従うことにした。
満作を先頭にした悪ガキ三人組の後ろを付いて歩き、桃太は教室の外へと向かった。
その途中、桃太の様子をじっと見守っていたらしい瓜子に声を掛けられた。
「……満作の試練を受けるの?」
桃太は静かに頷いた。
「そっか。頑張ってね。それと、明日はわたしと一緒に遊んでね」
もしかしたら今日の放課後、瓜子は桃太を遊びに誘いたかったのかもしれない。桃太は一緒に人魚を探しに海に行く約束を思い出し、胸がチクりと痛むのを感じた。
「分かった。約束するよ。ごめんね」
そう言い残し、「早く来いよ」と顎をしゃくる満作達を、桃太は小走りで追い掛けた。
『試練場』に向かう前に一行は山の麓にある一軒の工具店を経由した。そこは満作の両親の職場であり一家の自宅も兼ねていた。あまり繁盛していないのか店内は閑散とした様子であり、レジの前に置かれた椅子には満作の父親らしき中年の男が腰かけていた。
桃太は店内を見て黒い柄と赤い槌を持つ大型のハンマーが売られているのに気が付いた。満作がいつも持ち歩いているのと同じ品であり、桃太は興味を引かれて問うた。
「君が昨日持ち歩いてたのって、あれ?」
「そうだ。お気に入りの武器だ。いつも持ち歩いている。試練場の前にここに寄ったのもあれを取りに行く為だ」
「売り物を使うの?」
「バカか都会モン? ちゃんと自分用のを部屋から取って来るに決まってるだろ。待ってろっ」
満作は父親らしき男のところへ行き、帰りの挨拶とこれから遊びに出掛ける旨を伝えると、店の裏口へ移動して居住スペースの方に入って行った。
一分もかけずに満作は黒い柄と赤い槌のハンマーを持って戻って来た。いつも持ち歩いているというだけあって、それは売り物と比べて随所がすり減り薄汚れていた。一メートル近いそれを肩に担いで大股で歩く満作の姿は得意げであり、子分二人はその姿を畏怖と憧憬の眼差しで見詰めていた。
「さっき店にいた男の人は、満作くんのお父さん?」
桃太が尋ねると、満作は「そうだ」と頷いた。
「お母さんは今頃家の用事?」
「いいや農作業のパートに出てる。どうせ店は繁盛してなくて客は一日に何人か来るだけだ。店は父ちゃん一人でもずっと暇だから、母ちゃんは村長のトコの畑を手伝ってるんだ。あそこの畑はとにかく広くて、パートを何人雇ってもいつも大忙しで、母ちゃんも日曜以外は毎日そこで働いてる。だから俺は学校が終わっても夜になるまでずっと家で一人なんだ」
続いて一行は山の方へと向かった。どう見ても獣道にしか見えない細い通路をいくつも歩き、大きな森を抜けると川原へと差し掛かった。昨日突き落とされた場所よりも随分と山の深いところにある川だった。
「もう少し川を下ったところに試練場がある。付いて来い」
桃太は言う通りにした。道中、無言の時間があったので、桃太はふと思いついて満作らに声をかけた。
「ねぇ。聞きたいことがあるんだけれど、良いかな?」
「なんだぺぇぺぇ」
「瓜子のことなんだけど。どうして、あの子は皆に無視されてるの?」
「それはあいつが村で一番許されないことをしたからだ」
満作は声に怒気を滲ませてそう言った。普段放っている嗜虐的な威圧感とは異なり、心底からの忌避と嫌悪を伴った怒気だった。
「その所為で村は大変なことになった。本当なら昨日おまえにしたみたいにボコボコにしてやりてぇんだが、アイツは女子の癖に得体の知れないところがあってやりづれぇ。だから、皆で仲間外れにすることにしてるんだ」
「得体が知れないって……。どういうこと? ああ見えて実は腕っぷしが強かったりするの?」
「違うよ。弱ぇよあんなほそっこいメス。正面から戦ったら赤子の手を捻るようなもんでしかねぇ。でも違うんだ。瓜子はアタマがイカれてんだ。イカれてるから下手に刺激すると何をしでかすか分からねぇ。相手がどんなに弱くても背中から刃物でぶっすり行かれたらおしまいだし、瓜子はそれをやる奴だ。だから俺達も直接は手を出さねぇんだ」
「イカれてる? 瓜子が?」
「ああ。……これは善意からの忠告だ」
満作は鋭い視線で桃太を見竦めた。
「これ以上瓜子に関わるのはおすすめしねぇ。あいつはやべぇ。村の一番の掟を平気で破って、それで目玉をくり抜かれてケロっとしてる。アタマがどうかしているとしか思えねぇ」
それっきり満作は唇を結んで黙って歩きはじめた。これまでにない剣呑な雰囲気を放つ満作に、これ以上の追及をする気は起きなかった。
やがて一行は目的地へと到着した。そこは川の特に深まった場所で流れも速く、大きな岩があちこちに突き出て足場のようになっている場所だった。向こう岸には切り立った崖があり、そこに真っ暗な洞窟がぽっかりと開いていた。
「ここが試練場だ」
澄んだ水の様子は白く泡立った水流の合間に川底の様子が見て取れる程だった。点在する大きな岩の合間を、大小の魚が泳いでおり釣りが出来そうだった。
「試練の内容を説明する。まず、おまえが足元に落ちている石の中から一つを選ぶ。俺がそれを向こう岸に投げる。百を数えるまでの間に、川から突き出した岩の足場を飛び移りながら向こう岸に渡って、小石を取って戻って来られたら試練は達成だ。途中で川に落ちたり、小石を見付けられなかったりしたら試練は失敗だ」
「そんな簡単なので良いのかい?」
桃太は訝しんだ様子で言った。女子を殴るように命じられた昨日と比べると、その試練の内容は穏当かつ難易度も高そうには思えなかった。安堵や喜びを感じるよりも前に、こんな美味い話があるものかという警戒を桃太は感じていた。
「ああ。いいさ。ぺぇぺぇ様向けに優しくしてやったんだ。感謝しろよ」
満作は嘲るような様子で言った。
桃太は川に突き出した岩の足場を観察した。岩と岩の感覚は広いものでも一メートルに満たず、飛び越えることは難しくなさそうだった。向こう岸に放り投げられた小石を見つけ出すことに関しても、記憶力と観察力に秀でた桃太は上手く行くという自信があった。
ただ桃太には満作達の表情が気掛かりだった。ニヤニヤと下卑た微笑みを称えたその口元は、何か邪な企みをする者特有のそれに思えた。しかしここまで来て引き返すと言う選択肢はなかった。
「分かった。やるよ」
桃太が言うと、満作は「そうこなくっちゃな」と言ってせせら笑った。
桃太は満作の指示通りに足元の石から一つを選んだ。満作はそれを受け取り、向こう岸まで勢い良く投擲した。桃太の選んだ石は向こう岸の小石の群れに着弾し見えづらくなった。桃太は石の落下した地点とその周囲の様子をしっかりと頭に刻んだ。
「宗隆、数えろ」
「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお」
満作の合図で宗隆が数を数え始めた。慌てて桃太は足場となる川から突き出た岩の一つに飛び乗った。岩から岩へと飛び移る行為にはスリルがあり桃太は慎重な足取りでそれを行い、宗隆が三十まで数える前に向こう岸にたどり着いた。良いペースだった。
「そうそう。言い忘れてた!」
桃太が小石を探し始めたところで、満作は意地の悪い声で桃太に向けて大声で叫んだ。
「そっち側、実は河童の領域なんだよ。人間が入っちゃいけない場所なんだ。だからおまえ、いつ河童に殺されても文句言えねぇぞ!」
桃太は全身に電流が走ったような衝撃を受けた。この村に来る道中、父の車から見た異形の姿が思い起こされた。記憶にある水の妖魔の姿は不気味であり桃太は恐怖を感じた。
「そこの洞窟の向こう側は本格的に河童の社会がある。だがなぁに、安心しろ! この川は河童の社会と人間の社会の境界線だから、人間も河童も滅多には立ち寄らねぇ! だから余程運が悪くなきゃ河童に見付かることはねぇし、見付かったとしても真っすぐ逃げりゃ襲って来たりはしねぇ! だから安心して小石を探して来い!」
桃太は恐怖と共に満作に対する怒りを感じた。河童の領域だというこちら側に桃太が渡り終えてから、改めてその事実を暴露するという満作のやり口は悪質極まりなかった。
すぐに桃太は試練を放棄することを決意した。
桃太が岩の足場の一つに飛び移ると、満作達は桃太達に口々に怒声を浴びせかけた。
「おいてめぇ! どういうつもりだ!」
「うるさい! 君にはもううんざりだ。付き合っていられないよ」
忌まわしい気持ちで桃太は吐き捨てた。満作達に仲間として認められることは今後の生活にとって重要だったが、しかしそれは他者の領域を踏みにじり、命を危険に晒してまで行うことではなかった。
桃太は黙ってその場を後にしようとした。だがそこで。
「おいおめぇら! 見ろ! 河童だ!」
満作が指を向こう岸に突き付けて叫んだ。桃太が反射的に振り向くと、崖にある洞窟から一匹の異形が姿を現すところだった。
大きな甲羅を背負い、縮れた頭髪の中央に白い楕円形の皿を持つその生き物は、確かに河童に他ならなかった。ほとんど黒に近いような藍色の肉体は、水に濡れたアオウミガメを彷彿とさせた。背丈はあまり高くはなく一メートルをやっと超える程度で、顔立ちにはどこかあどけなさが残る。子供の個体なのかもしれなかった。
「安心しろ。こっち側には渡って来ねぇ」
満作は興奮した様子で言った。
「そうなの?」
「ああ。言っただろ河童の領域は向こうだけだ。仮にこっちに来たとしても、こっちは四人で武器もあるから十分撃退できる」
「撃退って……そんなことしたら」
「安心しろ脅かすだけだ。実際に殴ったりしたら例え向こうに原因があってもただじゃ済まねぇ。河童の親玉が村長のところにやって来て殴った奴を呼び出して河童の裁判にかけるんだ。過去に売り物にしようと河童を捕まえた奴がそれで死刑になった」
そう話している間にその小柄な河童はこちらに興味を示したように川岸まで歩いて来た。その歩き方は独特で両足を大きく開いて身を屈め、猫背のまま肩と腰を大きく左右に動かしながら歩くというものだった。
川岸まで来た河童は唐突に飛び上がって川へと飛び込んだ。そして地上での不格好な歩き方とは打って変わり、信じがたい程素早い泳ぎで一瞬にしてこちら側に渡って来た。そしてずぶ濡れのまま川原へと這い出し、興味深そうな表情で桃太達の方を見た。
「な、なんだこいつ。渡って来たぞ?」
桃太が恐怖してそう言いながら数歩後退った。
「大丈夫だ敵意はねぇ。たまにあることだ」
「こっち側には来ないんじゃなかったの?」
「こいつはきっと子供なんだ。人間のことや両者の縄張りや掟のことを良く知らねぇんだ」
河童の子は糸のような細い目を大きく見開きながら、のったりとした歩き方で桃太達に近付いて来る。
そこで満作が動いた。肩に担いでいたハンマーを大きく掲げながら河童に近付き、近くにあった岩の一つに叩き下ろした。
鋭い音がして岩が粉々に砕けた。河童は驚愕した様子で後退り顔色を変えて満作の方を見詰めた。満作はにやにやとした表情でハンマーを再び振り上げると、河童の方へと突進した。
「くきゃら。くきゃららっ!」
河童は悲鳴を上げて川へと飛び込んだ。満作は腹を抱えて笑いながら、すぐに向こう岸へたどり着いて洞窟の中へ逃げていく河童を見送った。
「だ、大丈夫なの、こんなことをして?」
「問題ねぇ。人間様の領域に来たから追い払っただけだ。過去に二回、同じことがあったが何のお咎めもなかったから間違いねぇ」
「こんなことが前にもあったの?」
「ああ。俺の子分になりたいっていう下級生にはいつもこの試練をやらせるんだが、何度か河童に遭遇したんだ。すぐにこちら側に逃げれば何もなくて済むが、たまに追いかけて来る河童がいて、その時は今みたいに追い払うんだ」
「危険すぎるよ! そんなことがバレたらどんなに怒られるか……」
「ぺぇぺぇ様は大人に怒られるのが怖いのか! 俺は怖くねぇ! 例え瓜子の父ちゃんの討魔師のオヤジが来たって返り討ちにしてやらあ!」
満作は桃太を大きな声で嘲笑った。背後では京弥と宗隆がそれに続いて媚びた笑いを浮かべつつ「やっぱり満作はすげぇ!」「何が来たってへいちゃらだもんな!」と口々に叫んだ。河童をも追い払う胆力を持つ満作に、二人の子分は追従あるのみらしかった。
「ま。ぺぇぺぇ様と俺の度胸には何倍もの差があるってこったな」
「……そうかい。じゃ、今日は帰らせてもらうよ。これ以上君の危険な遊びには付き合えないからね」
そう言ってその場を後にしようとする桃太の肩を、満作が強く握りしめた。
「どうして無事に帰れると思ったんだ? おまえは失敗したんだ。これから罰を受けてもらうぜ?」
満作がハンマーを持っていない方の手で桃太の顔面を殴りつける。
激しい火花が桃太の眼前を舞う。尻餅を着いた桃太へと、京弥と宗隆が殺到した。
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