第3話

 瓜子と別れ、自宅へと戻ると父親が黒電話に向けて何やら怒鳴りつけていた。

「おまえ、俺を誰だと思ってる! おまえの隊の軍医だった男だぞ! おまえの命を助けてやったことだってある! なのにそれっぽっちの金が負からねぇとはどういうことだ!」

 脇では母親が困ったような表情で父を見守っている。父はそれからしばらく電話口に怒鳴り声をあげた後、叩き下ろすようにして激しく電話を切った。

「どいつもこいつも恩知らずだ。医者を何だと思ってやがる」

 顔を紅潮させたままそう吐き捨てた。

「高価な医療器具なんでしょう? そうそう代金が負かったりはしないわよ」

 母親がとりなすような声で言った。

「だが器具を売っているのは俺の軍医時代、同じ隊だった奴なんだぞ? あいつが死にかけた時は、俺の手当てで救われたんだ! 俺に命を救われたんだから、俺に命を捧げて当然だろう! 俺があいつなら器具の値段なんてもん、タダにするね!」

 そう言って舌打ちをかましたところで、父は桃太の帰宅に気付いて視線を向けた。

「偉くボロボロにされたな」

 その口調は心配しているというより、息子の不甲斐なさを責めるかのようだった。

「ちょっとね。村の男の子達にリンチを受けちゃって」

「なあ桃太。おまえは俺に命を与えられ、ケガをした時は俺に命を救われたんだよな?」

 そう詰め寄られ、桃太は珍妙な顔付きで頷くしかない。

「その恩に報いる為に、おまえは何をしなくちゃいけない?」

「立派な医者になって、父さんの後を継ぐ。その為にたくさん勉強をする」

「勉強はまあ良い。ただ、医者ってのは弱虫になれるものじゃない。腕や足の捥げた患者を何人も見るし、そもそも処置を一つ間違えば死なせてしまう命と向き合うのには、とんでもない度胸が必要だ。いつもそう言っているな?」

「うん……」

「それがこんなド田舎の村の土臭いガキに喧嘩で負けてどうなるんだ! せっかく道場に通わせて腕っぷしを鍛えてやったんだろう? それを見せつけねぇでいったいどうするんだ! それでも日本男子か貴様!」

 そう言って父は桃太の頭を殴りつけた。桃太は思わずその場で蹲り頭を抱えた。父はそんな桃太を許すこともなくさらなる追撃を浴びせようと腕を振り上げる。

「やめてよあんた!」

 母親が間に入って桃太を庇った。

「気が優しいのはこの子の良いところでもあるじゃない。もうケガをしてるんだから、これ以上殴るのはやめてやってよ」

「男をこれしきのケガで庇ってどうする!」

 父は怒声を上げ、母の制止を意に介さず桃太を殴りつけた。吹き飛ばされた桃太は畳の上に転がった。鼻の奥に亀裂が入るような感触が走ったかと思ったら、温かい血が鼻の奥からあふれ出してくる。

「良いか桃太? おまえも父さんの子ならこんな田舎のクソガキに負けるんじゃないぞ。今度喧嘩に負けて帰ってきたら、父さんがおまえのことをぶっ殺してやる」

「……分かったよ、父さん」

 桃太は鼻血を拭いながら言った。

「じゃあ、勉強をして来い。田舎の学校じゃ碌な授業をやってないだろうから、ちゃんと独学するんだぞ」

「分かった」

 とぼとぼとその場を立ち上がり、桃太は力ない声で母親に尋ねた。

「……ぼくの勉強部屋はどこ?」

「二階の奥よ。ねぇ桃太、時には父さんの言うことに反発しても良いのよ。その時は母さんが味方をしてあげるから」

「良いんだ。ぼくは」

 桃太は首を振る。

「父さんの言う通りだと思う。ぼくの命は父さんと母さんに与えられたし、一度死にかけた時は父さんに救われた。だから、ぼくは父さんに逆らえないし、逆らっちゃいけないんだ」

 『命を救われたのだから命を捧げて当然』というのは父の口癖だった。

 軍医の価値が凄まじく高い戦場に置いてその考えは必ずしも否定されるものではなく、実際、緊急時には軍医を逃がす為兵達が肉の壁となり時間を稼いだらしい。日頃軍医によって傷を手当され時に命すら救われているのだから、命を捧げるくらいのことは当然と言う理屈が、軍隊では当然のようにまかり通っていた。

 当初桃太はそうした父の考えに反発していた。医者が人を救うのは使命でありそこに過剰な見返りを求めるべきではないと思っていたのだ。しかし考えが変わったのは九歳の頃、東京の繁華街で自動車に跳ねられ、生死を彷徨った時のことだった。

 酷いケガだった。へし折れたあばら骨のいくつかは肉と腹を食い破って外へ露出し、何本かは内臓へと突き刺さった。身体の内側へと滲み出した血液は桃太の喉から溢れ出し、大量の血液を口から吐き出し続けていた。骨折及び臓器損傷は全身の至るところにまで及び、桃太の全身は耐え難い苦痛に塗れ地獄の淵で声にならない悲鳴を上げ続けていた。

 己の死が近いことを桃太は深く悟った。絶望的な気持ちのまま、助けてくれるのなら何を代償としても良いと、神や悪魔、他のあらゆるものに願った。

 そんな桃太の願いを叶えたのは父だった。

 桃太が運び込まれたのは父親の勤務する病院だった。父は東京の病院で一番の救命医であり、運び込まれて来たのが息子と知るや、他のあらゆる患者を放り出し手術に向かった。他の医者の全員が助命を諦める中で、父は瀕死の桃太に頼もしい声をかけた。

『大丈夫。俺が絶対におまえを助けてやる』

 救命は成功した。奇跡的な手術だったと噂されている。

 過酷なリハビリの中で少しずつ回復していく肉体を見る度、桃太は命を救ってくれた父への恩に報いる為、あらゆる努力をせねばならないという考えに支配されて行った。

 人間にとってもっとも大切なものは当然ながら命である。その大切なものが奪われることを回避する為ならば、他の全てを代償にしても何ら悔いはないはずだった。

 桃太は残りの人生を父の為に捧げると誓った。それほどまでに死にかけるという体験は臆病な桃太にとって強烈で、命を救われるという体験は純粋な桃太にとって忘れがたいものだったのだ。

 桃太とて己の考えが少々大げさなものであることは理解している。だが父に何か言われる度、自分はあの死の淵から父によって救い出されたという負い目が強く疼き、逆らうことが出来なくなるのだった。

 それは桃太の幼い魂の根底に組み敷かれ、桃太自身にも抗えない呪いのような感覚だった。




 村にただ一つだけある小学校を見て、桃太はその校舎の小ささと薄汚さに驚愕した。

 クラスは学年に一つずつしかなく、生徒数はそれぞれ十人程度しかいなかった。全校生徒を合わせても六十から七十人程らしかったが、しかしその程度の子供を収容するのにも手狭な程、古い校舎は小さく粗末なものだった。

 一つしかない校舎は一本の廊下の左右に階段が三階まで伸びており、その隙間に桃太の自室とさして変わらない広さの教室が並んでいた。全体の敷地面積は桃太の東京の実家が二つも入れば限界だろうという有様で、その中に子供という子供が詰め込まれている為常に圧迫感があった。壁も天井も染みとひび割れだらけであり、いつ崩れ出すかも分からず歩くのに恐怖を覚える程だった。

 そんな幽霊屋敷のような校舎の三階の隅、六年生の教室で、桃太は転校の挨拶を済ませた。

「一年間、よろしくお願いします」

 教団の前で、黒板に自分の名前を書き頭を下げた後、桃太は教室中を見回した。

 生徒数は桃太を入れて十一人。その中に満作と、子分の京弥と宗隆の姿があることにまず憂鬱になる。そして最後尾では昨日とは色と形が似た別の白いワンピースを着た瓜子が、嬉しそうにこちらに手を振っていた。

 朝会を負えると訪れるのは転校生への質問攻めだ。男子も女子もなく取り囲まれた桃太への対応は満作らと比べれば比較的友好的で、礼儀正しく答えている分には威圧的な態度を取られることはなかった。

「ねぇ桃太くん。あんたどこから来たの?」

 級長であり生徒会長も務めているという須藤綾香という女子が、桃太を取り囲むクラスメイトを代表して尋ねた。

「東京から」

 桃太が答えると、「へえ」と綾香は興味を引かれた様子で唇を尖らせた。

 綾香は良く梳かされたセミロングの髪に、同世代と比べると良く発育した身体を持つ、背丈も大き目な女子である。眉が太く顔立ちも整った方で、子供にしては突っ張った胸が目についた。

「遠いね。どうやって来たの?」

「父さんの車で」

「車を持ってるなんてお金持ちね。この村で自家用車を持ってるのは村長くらいしかいないわよ」

「そうなんだ」

「テレビって家にある?」

「あるよ」

「冷蔵庫は? 洗濯機は?」

「全部ある」

「すごいわね。ねぇ、今度テレビを見に行かせてくれない? ウチの学年でテレビ持ってる子っていなくってさ。だから……」

「テレビならウチにもあるでしょ、綾香」

 そう言いながら近寄って来たのは瓜子だった。綾香は瓜子の方を一瞥しようともせず、桃太の方に視線を向けたまま。

「だから、いつも五年生の大加戸って男子の家に見に行くんだけど、こいつの家がまた散らかってて臭くてね。しかもこいつ、見に行く度にいちいち金取ろうとしてくるのよ」

「大加戸くんの家、お金持ちなんだよね」

 瓜子が綾香のすぐ後ろにやって来てそう声をかけるが、綾香はこれを無視して。

「あたしら上級生なのに生意気じゃない? だから、こないだ満作に行ってシメて来てもらったわ。そしたら大加戸の奴親に泣きついて、それっきりあたしら六年は家に入れなくなったのよ」

「大加戸くんの家ってこの辺の農家じゃ一番大きいよねっ」

 瓜子が綾香の背中により一層声を張り上げて話しかける。

「豚がだいたい六頭か七頭くらいいつもいるんだよね。畑もすごく大きくてさ、裏作でタバコなんかもやってるからすごく儲かってるもんね。もちろん大加戸君のお父さんとお母さんだけじゃ回らないから、パートの人が何人も雇われてて……」

「ユーレイがなんか言っててうるさい!」

 綾香が机を強く叩いて言った。

「ねぇ皆、ここユーレイ出るから校庭に移動しよう。転校生……桃太くんだっけ? あなたも来るわよね?」

 そう水を向けられ、桃太は恐る恐る瓜子の方に視線を向けながら。

「ぼ、ぼくには……瓜子が幽霊には見えないけれど……」

 そう言うと、綾香は聞えよがしに大きな溜息を吐く。そして他のクラスメイト達と顔を合わせて、嘲るような困り顔をそれぞれに向けあうと、桃太の方を蔑んだ目で見た。

「転校生さぁ。空気読んだ方が良いよ。……行こ行こ」

 言いながら、綾香は桃太を取り囲んでいた生徒達を連れて、教室から出て行ってしまった。

「……嫌われたなぁお坊ちゃんよ。このぺぇぺぇの弱虫野郎が」

 取り残された桃太に、近付いて来たのは満作だった。背後には、子分である京弥と満作を伴っている。

「女も殴れない弱虫が、その上嫌われたりしたら救いようがねぇなあ」

「……なんだよ。ぼくは瓜子が幽霊に見えないから見えないって言っただけだよ」

「なんだぁ。お坊ちゃんはぺぇぺぇの上にアタマまで変なのか。皆に見えねぇものが見えるだなんて、こいつは気が触れてるぜ」

 ぎゃはぎゃはと声を揃えて子分たちと共に桃太を嘲笑しながら、満作はその場を去って行った。

「……無視されてるの?」

 桃太は瓜子を心配して声をかけた。

「返事してもらえないだけだよ」

 それを無視と言う。陰湿ないじめを受けているらしい瓜子の境遇に胸を痛めつつ、桃太は自分の立ち回り方について僅かに逡巡してから。

「……ぼくは瓜子を無視したりなんかしないから」

 桃太はそう言った。

 落ち込んだ様子だった瓜子は、その言葉を聞いて表情を明るくさせた。そして感激した様子で桃太に首に抱き着くと、はしゃいだ様子で。

「ありがとうっ。じゃ、友達ってことで良いの?」

 と言いながら桃太の頭を左右に激しく振った。

「ねぇ? ねぇ? 良いよね? わたし、皆からフルシカトされてるけど桃太は友達だよね?」

 瓜子の髪の匂いを直に嗅ぎながら、桃太はどうにか赤面をこらえながら、「もちろんだよ」と答えた。

「やったーっ。友達できたーっ!」

 叫びながら、桃太を放り出しはしゃいだように飛び跳ねる瓜子を見て、桃太はそのあまりの屈託のなさに思わず面食らっていた。

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