第7話 君に少しの温もりを

 無味乾燥な授業をすべて聞き流し終え、素肌をなでるひんやりとして、それでいて乾いた風を切りながら僕は一人帰路についていた。

 叶音に会わなくなってから、僕の人生は急速に色を失っていった。あるいは、もともとそこに色はなかったかもしれない。叶音という華に色づけられ、僕がそこに色が存在すると錯覚していただけなのかもしれない。いずれにせよ、僕の人生はとても退屈なものとなった。


 こうして一人で道を歩くとき。休み時間に誰とも話さないとき。面白い小説を見つけた時。そういった日々の生活で、今までは存在していた叶音の不在が確認され、それに伴い僕の人生は日に日に悪化の一途をたどっている。

 何のために生きているのかもわからないほどに。


 秋風に吹かれ日ごとに葉を落とす街路樹のように、少しずつ、しかし着々と、以前はそこにあったものが欠落し、そこに葉があったことも忘れさせるほどに悲惨な姿となっていく。


 最近は、秋山もあまり叶音の話をしなくなった。それは、秋山が叶音の状況を再確認するのが嫌だからなのか、はたまた別の理由があるのかは測りかねていたが僕の内面からだけでなく、僕の周囲からも叶音の存在が消えつつあることは確かだろう。

 そうしたなかでも、メリットは存在する。それは今までのあたりまえが崩れ始め、叶音のいない生活が当たり前になりつつある、というものだ。


 僕の中にはそれを悲しいと思う感情も存在したが、それよりもなぜか安堵のほうが僕の胸の中を多く支配していた。それがなぜなのか自分でも全く分からず、えも言えぬ不快感が僕の中を駆け巡った。

 結局それが、僕の中にあるどの感情に起因するのかもわからず、僕はこの不快感の正体をつかめずにいる。



 途方もなく長く感じた帰路を終え、僕は自室のベッドに横になってようやく、スマホの電源を入れた。スマホは電源を切ることが校則で決められているし、取り立てて緊急の連絡が入ることも少ないので頻繁に使うものではないのだ。


 制服から着替え、動画配信アプリでも見ながら時間をつぶそうと考え画面に目を落とすと、そこにはメッセージの受信を知らせる通知が入っていた。普段であれば無視するのだが、送り主とその内容を見てため息をつきながらもう一度着替えを始める。

 どんな漫画を持って行ってもあいつは何かと文句しか零さないので、どういうジャンルのものが好きなのかわからなくて困ってしまう。仕方がないので最近はやりの少年漫画を持っていくことにした。


 家の中から大きめの紙袋を探してきて次々とその中に漫画を詰め込んでいく。前にもっていったものも僕が自力で家まで持って帰ってきたし、あいつはいったい僕にどれだけの重労働をさせれば気が済むのだろうか。

 なんだか無性に腹が立ってきたが、入院生活は退屈なのだろうから僕は情けで漫画を持っていくことにした。感謝の一つこそはされても、まさか愚痴をこぼされることなんてないだろう。

 漫画で満たされた紙袋を持って玄関の扉を開けた時、外の世界は傾き出した日に照らされ煌々と輝いているように見えた。




 重い荷物を引きずるように持ちながら、僕はやっとの思いでバスに乗り込んだ。

 今日は、いつぞやの花火大会の人は違い、夕方の帰宅する人が多い時間なのもあってかバスの座席はほとんど埋まっており、僕がようやく腰を落ち着けることができたのはバスが走り出してバス停を二つほど通過した後だった。

 それまではずっと重たくて仕方がない漫画の入った紙袋を抱える形で立っており、僕の対面にある席に座っていた中学生くらいの男の子に怪訝な目で見られてしまった。


 それから少しバスに揺られ、目的地に着いた頃には辺りはすっかり茜色に染められていた。

 僕はいつものように受付に行き、顔なじみの看護師さんに叶音の名前を伝えると、一瞬看護師さんの顔に焦りの色が浮かんだ。しかしそれもすぐに引っこんでしまったので見間違いかと思い特に深く考えることはしなかった。


 そうして叶音の病室のある階に到着すると、いつもはぴたりと締め切られていた病室の扉が、しかし今日は開け放たれていることに気が付いた。

 何か検査でもしているのか?と思い近づくと、中から叶音の両親の声が聞こえてきた。今まで何度かお見舞いには来ていたが、こうして鉢合わせたことがなかったので珍しいなと思った。


 とはいえ何か気にするような関係でもないので僕は構わず病室に入ることにした。

 「こんにちはー、お久しぶりで………」

 僕がそう声をかけながら病室の扉をくぐると、叶音の両親はこちらを驚いた表情で見つめていた。

 そうして僕の姿を認めると、叶音の母親である希望さんが口を開いた。


 「待って今は……!」

 希望さんがそう言い終わるよりも先に、僕は現在の状況を把握した。厳密にいえば、状況を目の当たりにしただけであって、僕の頭がそれを認識しようとはしなかった。

 僕の眼前には、うっすらと柔らかい笑みを浮かべたまま眠っている叶音の姿があった。普段であれば、ただ眠っているだけかもしれないと思ったのだろうが、両親が病室に集まっていること、そしてなによりも、叶音のそばに置かれた心電図という決定的な証拠が、僕を強引に現実に引き留めた。


 頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が走り、僕は立っていることも困難になってその場に倒れこんだ。

 紙袋の中に敷き詰めた漫画が、落下の衝撃で病室の床に絨毯のように広がった。

 そんな僕の様子を見て駆け寄ってきた叶音の父親の奏人さんが僕の肩を支えてくれた。白んでぼやけ始めている視界の中でも、その瞳が真っ赤に腫れていることに気が付いた。

 あぁ、やっぱりもう……。


 僕がそう悟るのと同時に、奏人さんが口を開く。

 「すまない、翔飛くん……」

 歯を食いしばり、涙をこらえながら震えた声でそう言った奏人さんを前に、僕は何も言うことができなかった。今何かを言おうとしても、声にならない嗚咽がこぼれるだけなのだとわかっていたから。


 僕のその様子を汲み取ったのか、奏人さんは説明を始めた。

 「今日の、昼下がりだった……。私の会社に突然…電話がかかってきて……。意識がないと……。このままでは危ういと……。少し前までは、回復しつつあったんだが……。私は、心のどこかで今回も大丈夫だと、根拠のない思い込みをしていたんだ……。そのせいなのかもしれないな。私は叶音に、何かをしてやることはできただろうか……。父親失格じゃないか、こんな、こんな……」


 希望さんと奏人さんが泣きながら抱き合っている前で、僕はただ茫然としていた。僕がもう少し早くここにきていれば。学校の帰り際によっていれば。携帯の電源を落としていなければ……。目の前に広がっている景色に、何か違いはあったのだろうか?だが、いくらそんなタラレバを考えようと、叶音が目を覚ますわけでもないし、時間が巻き戻るわけでもない。

 僕は、ふらふらとしたままの足取りでいつもここに来た時に座っていたベッドの横にある椅子に腰かけた。


 そうしてすっかり冷たくなってしまった叶音の手を取り、叶音に、少しでも温もりを与えられるように、強く握りしめた。そして僕は、返事がないとわかっていながらも、叶音に語り掛ける。

 「なぁ、今まで、楽しかったよ。散々振り回されて、叶音といつも一緒にいるから、男子から変なとばっちりくらったりしてさ……。でも、そんなことはどうだってよかったんだ。叶音が隣で笑ってくれるんなら、僕はなんだって受け入れた。迷惑かけることもあったし、かけられることもあった。今考えたら、僕が苦労する結果になったことのほうが圧倒的に多いんだろうけどさ。それでも僕は、そんな毎日が楽しかったんだ。どんな日常だろうと、何が起ころうと、叶音が笑顔なら僕だって笑っていられた。でもさぁ……、叶音がいなかったら、もう何も楽しめないんだよ……。そうだ、なぁ、漫画持ってきたんだよ。読みたいって、暇だって言ってたから。だから、一緒に読もう。……一緒に……。叶音、冷え性だったもんな、冷たいな……。なぁ、寝てるだけなんだろ?また、悪戯してんだろ?もう十分だ、だから早く……目を、開けて……」


 もう自分でも、何が言いたいのかが分かっていなかった。ただ思いついた言葉を並べて、返事がないことはわかっているのに現実が見たくないから納得していないふりをする。

 今までだってそうして生きてきたんだから、今回だって同じようにしていれば平気なはず……。僕はそう、平気なんだ。平気な……はず……。

 そう自分に言い聞かせる僕の意識に反して、瞳から溢れ出る涙は止まる素振りすら見せず、ただひたすらに、叶音の体にかけられたシーツに染みを作るだけだった。



 少し心を休めたほうがいいと希望さんに言われ、僕は病室を離れることにした。どこにも行く当てがなかった僕は、藁にも縋る思いで談話室へ向かうことにした。佐藤さんなら、何か気を紛らわせてくれるんじゃないかと思った。

 その道中、視界の端から叶音がでてくるんじゃないかと、どこかに隠れているんじゃないかと何度も期待した。けれど現実は非情で。目の前で確認したことが間違っているはずもなく。


 しばらくの間叶音と関わっていなかったから、叶音を失った時の痛みが少しは緩和されるんじゃないかと思ったが、そんな僕の目論見をあざ笑うかのように、大きすぎる消失は僕の心にふさがらない風穴をあけて通り過ぎて行った。

 大きすぎる傷を抱えながら、僕が行き着いた談話室に、僕の予想通り佐藤さんの姿があった。今日はいつもの席には座っておらず、大きな窓の前に並べられた柵に片肘をつき夕日を眺めていた。


 僕は佐藤さんに近づき震えたままの声で話しかける。

 「叶音が……亡くなりました」

 僕は、その一言を声に出すことにとてつもなく躊躇した。こうやって実際に声に出してしまうと、もう本当に戻ってくることはないと認めるような気がして、どうしてもはばかられた。

 そんな僕の思いとは裏腹に、佐藤さんはこちらを向くこともなく至って平坦に返してきた。


 「あぁ、そのようだね。私も少し前に聞いたよ」

 普段からあまり感情を表に出さず、常に淡々としている姿は佐藤さんの美点であると思っていたが、このような状況に立たされてなお、そのスタンスを崩そうとしないことに無性に苛立ってしまう。

 「それだけ、ですか……?かつての自分に似ていると重ねた相手に、たったそれだけの感情しかないんですか……⁉そんなもの、冷静なんかじゃなくただ薄情なだけですよ……!」


 僕の言葉に肩を震わせると、佐藤さんはゆっくりとこちらを振り向いた。

 「すまないが……今は勘弁してくれないか……」

 そう言って悲しそうに笑う佐藤さんの眼からは、夕焼けを反射する雫が流れ落ちていた。

 その姿を見て、僕は何も言えなくなってしまった。また、同じことを……。

 「君の彼女にかける感情はよく理解しているつもりだが、私だってつらいんだ……」

 僕は慌てて言葉を組み立てる。


 「すみません、心ないことを……。気が、動転してしまって……」

 どうしても言い訳じみた答えになってしまうそれに嫌気がさす。しかし、いくらかの落ち着きを取り戻したのか、佐藤さんは僕の目を見てほほ笑んだ。

 「いいや、君は悪くないよ。私も長らく医者をやってきて、患者の死と向き合うことはいくらかあった。そのたびに私は自分の冷たさをひどく自覚した。どれだけ親身になって治療法を考えていた患者だったとしても、その最期を見て涙を流すことはこれまで一度もなかった。でも今日は、自然と涙があふれて止まらなかった。これも成長と呼べるものなのだろうか。君の評価は全く間違えていないさ。そして一つ、君に謝らなければならないことがある」


 僕はそんなことをされた記憶が全くなかったので、先を促した。

 「謝らなければならないこと?」

 僕がそう訊ねると、佐藤さんは深く深呼吸をしてからこちらをまっすぐに見つめ言った。

 「彼女の父親に電話をしたのは私だ。そしてその時、君には伝えないようにといった」

 佐藤さんがいったい何を言っているのか理解ができなかった。

 僕に、伝えないようにした……?


 「それは、どうして……」

 「一つは君のためだ。目の前で彼女の死を見届けるのは、君には耐えられないだろうと判断した。それに、医者やら看護師が出入りすることを考えると、親族でもない人を呼ぶのは邪魔になりうると考えてな」

 「そうだとしても……!僕は、最期は、あいつのそばにいたかった……」

 そう聞いた佐藤さんはため息をこぼす。


 「まぁ、君ならそういうだろうとは分かっていた。二つ目は、彼女自身のためだ。以前君に伝えたな。彼女は「きれいな姿のままで記憶に残りたい」と言っていたと。自分の死期を悟り、苦しみにあえぐ姿は果たしてきれいなものなのだろうか。その結果が君にいくらかの後悔を残すものになったとしても、私はこの選択を、間違いだとは思わない」

 そう言って佐藤さんは着ていた白衣のポケットを探ると、その中から白い封筒を取り出してきた。


 「これは、彼女の願いで私が預かっていたものだ。君に渡すように言われてね。内容は深くは知らないが、そういったものは一人で見るのがいいだろう。この後どうするべきかは、君が一人で決めなさい」

 そう言い残し、佐藤さんはどこかへと歩いていく。佐藤さんが見えなくなる前に、僕には伝えなければならないことがあった。

 「佐藤さん‼」

 僕の呼びかけに、彼女は足を止めてこちらを見る。

 「あなたは、僕とあいつの恩人です。ありがとうございました……!」

 佐藤さんは僕の言葉に軽く吹き出し

 「こちらこそありがとう」


 と言って去ってしまった。その足取りは、何か大きなしがらみから解き放たれたかのように真っすぐで、満足げなものだった。

 彼女はもう、誰かの命と向き合うことを迷わないだろう。そんな確信が、なぜか僕の中で芽生えた。

 そうして僕は、彼女から託された封筒を握りしめていた。




 この病院内でどこかほかに一人になれる場所を知らなかったので、僕は談話室の椅子に腰かけた。

 恐る恐る封筒を開けると、中には三つ折りにされた便箋が何枚か入っていた。

 封筒の外に引っ張り出し、僕は丁寧に一枚一枚を開いていった。その中から冒頭らしき部分を見つけると、僕はゆっくりとその便箋に目を落とした。


 そこには女子高生には到底似つかわしくないほど端正な文字で書かれた文章があった。僕はその字に触れる。そうすると、当時の叶音の心情が伝わってくるような気がしたからだ。しかし、思ったような成果は得られず、内容に目を通すことにした。

 正直、どんなことが書かれているのかが想像できずあまり見たいとは思えなかった。しかし、わざわざ佐藤さんに預けてまで僕に渡すということは、死後でないといえないようなものなのかもしれないと思い、迷いは振り切ることにした。


『拝啓 白崎 翔飛 様


 あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にはいないのでしょう。

 なんていうありふれた書き出しを、私はどこかで憧れていました。』

 冒頭部分から不安になるものだったが、僕は気にせず読み進める。

『実を言えば、こうして手紙を書いている今、わたしはとても震えています。いつ明日が来なくなるかも定かではない毎日で、それでも日に日に弱っていく自分を自覚させられる。

 私はこの手紙に、この世界への恨み言とか、あるいは未練とか、そういったことを書くつもりは全くありません。これは遺書ではなく、あくまでも手紙です。

 けれど何かを残しておかないと、本当に忘れ去られてしまうような気がして、考えるよりも先にペンを手に取っていました。

 こうして準備した手前、何も書かずになかったことにするというのはもったいない気がしてなりません。

 なので、私はここに、今の私の思いを書き記そうと思います。

 初めてあなたと会った時のことは、もうほとんど覚えていません。小学生の頃だったと思います。その頃の私は、今とは違ってどこか引っ込み思案なところがあったと自覚しています。

 だから、初対面の私にもぐいぐい話しかけられるあなたがとても眩しくて、羨ましくて、幼いながらにあなたのようになりたいと思いました。

 今思えば、私はとても幸せ者でした。

 いつだって隣にあなたがいて、大勢の人たちに囲まれて。それでいて健康でありたいなんて望むのは、少々欲張りだったのかもしれません。けれど私は、その望みをかなえたいと思っていました。だからあなたの前では元気に振る舞ったり、心配をかけないようにしたりといつも通りのままでいることを心がけていました。

 どれだけ強欲だろうと、私は問題ないのだと思っていました。実際は、こんな結果になってしまったわけですが、それでも私は、これまでの日々が本当に幸せだったのだと、今になってそう思います。

 ほんの十数年しか生きることができなかった私ですが、しかし一生分の幸福を手に入れることができました。それもすべて、あなたがいてくれたおかげです。

 私は今でも、私の生きる理由が見つかっていません。もしかすると、私にはもう必要ないのかもしれませんが。もっとあなたと一緒にいたいとは思いますが、これはただの未練なのです。

 いつか、私は必死にそれを求めて生きていました。私には生きる理由が必要なのだと。それがなくては生きていけないのだと。そう思っていました。ですがもう、私には見つけられそうにはありません。

 でも、とこの手紙を書いている今は思います。それでも、私は生き抜かなければならないのだと。最後まで私の生を全うしなくてはならないのだと。

 私はきっと、あなたに多くの迷惑をかけてきたのでしょう。

 あなたが私のせいで受けた不利益を、たとえ私に言わなかったとしても、私はそれをすべて知っていました。それでもあなたが私の元を離れることなくそばにいてくれることが、たまらなく嬉しかったのです。

 でもそれは、きっとあなたも同じだったのでしょう。

 たとえ私が口に出さなかった想いでも、きっとあなたは頭のどこかで理解している。けれど私はこの想いを、口に出すことも、こうして紙に書き残すこともしません。その想いがあなたの負担になると、重荷になると、知っているから。

 こんな手紙を残しておいてなんですが、私はあなたに、早く私のことを忘れてほしいと思っています。私がいなくなった後のあなたは、きっと一人で生きていくことができないでしょうから。

 だから私は、「私を忘れないで」なんていう贅沢を言うつもりはありません。

 ただ、誰かに存在を忘れられることはとても寂しく、そして怖くもあります。あなたはこれから、私の知らない時間を歩んでいくのでしょう。いつか私のいた場所に、違う誰かが立つこともあるのでしょう。そういう私の知りえない未来を、私以外の人と笑いあうあなたを、こうして想像するだけでも、今にも泣きだしそうになります。

 それでも、たとえば桜の木を見かけたとき。たとえば映画館で映画を見たとき。たとえば面白い漫画を見つけたとき。そうしたときに、ほんの少しでもいいから、私がいたことを思い出してくれたらいいなと思います。

 私はとても欲張りなので、最後に一つ、あなたにお願いがあります。

 将来、何年後になるかはわかりませんが、あなたが自分の生を終えてこちらに来るとき、私はあなたの人生の思い出話がたくさん聞きたいのです。私がいないときに何が起こったのか。あなたがどんな人生を歩んだのか。私の知らないあなただけの時間を、たくさん知りたいのです。

 もっともっと欲を言えば、本当は、私は隣でそれを見届けたかった。けれど現実は、そううまくはいかないようなので、この願望はあきらめようと思います。

 だから、いつか私に聞かせられるように、たくさんの思い出を作ってください。先にいなくなった私のことは気にせず、あなたの人生を、あなただけの力で歩んでみてください。

 挫けそうになることもあるかもしれません。やめたくなることもあるかもしれません。それでも、上を向いてください。そうすればそこには私がいます。

 どうか笑って生きてください。

 私は、私の生きる理由を見つけられなかったけれど、それでも私は、あなたの生きる理由になりたい。

大丈夫。時間は余るほどあります。焦らなくても、少しずつ、進んでいけばいいのです。

 あなたのすべてが私であったように、私のすべてもまたあなたでした。

 そのすべてを失ったあなたが、この先どんな人生を歩むのか、全く想像ができません。きっと、多くの新しい経験をしていくのでしょう。

 私がいなくなっても、止まるのは私の時間だけで、世界は気にせず回り続ける。そうした中で、私との思い出が色褪せて、不鮮明になっていくでしょう。

 そうして、いつか忘れて、あなたが気楽になって、自分の人生を楽しんでもらえれば本望です。

 でも、人生の一番最後には、私のことを思い出してください。これがささやかな、私の今の望みです。

 ここまで長々と書いてきましたが、結局私の伝えたいことはほんの一言でまとめられてしまうものなんです。

 できればもう少し、一緒にいたかった。

 こんなことを言えば、あなたを困らせてしまうことはわかっています。あなたを縛り付ける枷になることもわかっています。

 そのうえで私はここに書きました。

 どうかこの私を、早く忘れてください。

 さようなら。

  敬具 』


 僕がその手紙を読み終えるころには、視界はぼやけきっており、僕からあふれ出た涙で、便箋の上に置かれた文字たちは霞んでしまっていた。

 今まで、叶音の気持ちを、思っていることを確かめようとしなかった。

 叶音の本心を聞くことが怖くて、叶音と向き合うことから逃げていた。

 それを、こんな形で解消されて、しかも一方的に言うだけ言って逃げていくなんて卑怯すぎる。


 封筒から出した便箋を机に広げたまま泣き続ける僕の前に、突然ココアが置かれた。

 今度はプルが引かれておらず、何も気にすることはなかった。

 「そろそろ読み終えたころかと思ってね。邪魔だったかな」

 そういいつつも僕の返事を待たず僕の対面に腰かける佐藤さんに礼を言う。


 「それで、少年。君の答えは決まったかな?」

 「正直、今はまだよくわかっていません。この先どうするべきなのか、当たり前を失った僕が一人で生きていけるのか。解決するべき問題も山積みで、何から手を付ければいいのかもわからない。そもそも僕は、このまま生きてもいいんでしょうか。僕はあいつに、何もしてあげることができなかったのに」

 「君の人生は、いったい何のためにあるんだい?」


 僕はその質問の真意を測りかねて、時間稼ぎのつもりでココアのプルを引いた。

 ほんのりと甘く、その奥に苦みを隠したにおいが辺りに蔓延した。

 「それはもちろん、叶音のためです」

 その僕の答えを聞いて、佐藤さんは大きくため息を漏らした。

「いつまで自分に嘘をつき続けるつもりだ?もうわかっているんだろう。君は君自身のために生きるべきだ」

 佐藤さんはそういって、こちらをまっすぐに睨みつけてくる。

 けれどそれは、あまりにも……。


 「今更無理ですよ。今までだって、あいつのためだけに生きてきたから」

 「だったらどうして……っ!彼女の元をことを訪れることを途中でやめたりしたんだ⁉自分が傷つきたくなかったからだろう!君は、保身のためにあの子を言い訳にしているだけだ!いい加減気づけよ。誤魔化すのをやめてくれ……!これじゃああまりにも……あの子が報われない……」

 本当はたぶん、自分でも分かっていたんだ。

 僕が叶音に対して抱いている感情も。

 僕と叶音の関係も。

 僕が叶音に固執する理由も。


 でも、それをすべてわかったうえで僕は叶音と接していたし、叶音は僕と接していた。だとすればそれは本当に、非難されるべき関係なのだろうか?

 僕はまだ、そのことに答えを出せずにいる。

 いつの間にか、涙は乾ききっていた。

 「たしかに、そういった面もいくらかはあったでしょう。叶音は人気者だったし、あいつの隣にいれば、少なくとも他人から邪険に扱われることはなかった。けれど、この感情は本物です。僕は叶音を大切に思っていたし、これからの人生を、とても有意義なものにできるとは思えない」

 「あぁ、そうだろうな。ならばどうする?いっそ自ら投げ出すか?」

 「まさか。そんな愚かな選択はしませんよ。僕は、叶音に頼まれたから。最後まで、生きなきゃいけないんです」


 僕がそういうと、佐藤さんは呆れたように笑った。

 「君がそういうのであれば、ひとまずはそうしておこう。だが、これは人生の先輩からのアドバイスだ。『恋は盲目』なんてのはよく言ったものだが、そんなものはただの勘違いに過ぎない。いつか突然魔法が解けて、昨日までの自分がばからしくなる時がくる。精々それまでに、盲信からは抜け出しておくべきだ」

 けれど、こんな醜い独占欲を、他人にひけらかせるはずがないだろう?



 それから僕は、叶音の病室に戻った。幾分か頭は冷え冷静さを取り戻していたが、さきほどの佐藤さんの言葉が何度も頭の中を反芻していた。

 病室の中に入ると、そこはすでにもぬけの殻であり、僕は慌ててエントランスへと向かった。すると予想通りそこには叶音の両親の姿があり、並んで椅子に座り何かを話している様子だった。

 僕が声をかけるか迷っていると、僕の姿に気付いた希望さんがこちらに手招きしてきた。僕は逃げ場をなくし、観念して二人の元へと向かう。

 二人も同様に落ち着きを取り戻したらしく、未だ目は赤いままだったが、少なくとも錯乱はしていないようだった。


 僕が何から話そうか考えていると、こちらの様子を感じ取ったのか奏人さんが口を開いた。

 「すまないね、翔飛くん。こんなことになってしまって……」

 「いえ、誰が悪いわけでもありませんから。謝らないでください」

 本当に、そう思う。誰が悪いわけでもない。それなのに、叶音はいなくなってしまった。納得できないのも、受け入れられないのも、僕がこの感情の落としどころを見つけられていないのが原因だった。


 「けれどね、私たちには明日がある。だから前を向かなくちゃいけない。たとえどれだけ傷つこうと、明日を拒もうと、大切な人をなくそうと、生きているものには平等に明日が訪れる。だから辛いんだ。泣いている暇なんてものはないから。感傷に浸っていられるほど時間は残されていないから。いつかこうなることは覚悟していたつもりだったが、大切な一人娘をなくすというのはやはりつらいものだね……」

 「僕もそう思います。叶音さんは、僕にとっても……大切な人でしたから」

 僕がそういうと、希望さんは小さく笑った。


 「叶音も喜んでると思うわ。ねぇ?」

 そういって二人で天井を見上げるその目には、悲しみよりも慈愛の感情が浮かんでいるように見えた。



 その日、家に帰った後、日が落ちたのを確認してから僕は外に出た。特に何かしたいことがあったわけでもないが、静かな場所で一人になる時間が欲しかった。けれど思い当たる場所も特になく、小さいころいつも遊んでいた公園に行くことにした。

 僕は、これからどうすればいいのだろう。佐藤さんに問いかけた疑問の答えは、残念ながらまだ出せていない。このまま生きて、いったい何になるのだろうか。生きる理由を失った僕が、これからを生きていくことに意味はあるのだろうか。そんなことをずっと、考えている。


 結局僕は、僕のためにしか行動していなかった。叶音のためだなんて言いながら、僕は自分のことしか考えていなかった。

 生きる理由なんて、探せばなんだって見つかったはずなのに。

 ほんの少しでよかったんだ。

 明日を笑って迎えたい。たったそれだけ。

 君さえいれば、僕は何もいらなかったのに。

 思い返せば、後悔だけがあふれてくる。もっと早くに自分の気持ちに折り合いをつけるべきだった。


 人には生きてほしいなんて言いながら、僕はきっと、心のどこかで僕自身が生きることを諦めていた。

 どうせこんな世界、なんてばかみたいに。

 でも、それだって仕方のないことだった。

 どれだけ愛されたいと願っても、誰にも愛されることはなかった。

過去にすがろうとは思わない。けれども未来は見たくない。だったら僕は、どうやって生きればいいんだ?


 けれどそれも、本当はわかっていたんだ。もうとっくに見つかっていたんだ。でもそれに気付きたくないから、気付いてしまったら生と向き合わなくてはならなくなるから、迷ったふりをして、悩んだふりをして。そうして自分をだまして生きてきた。

 誰かが手を差し伸べてくれるまで待っていたんだ。

 そうすれば、認められたと思えるから。ここにいていいと、許されるように思うから。


 言ってしまえば、本当は誰でもよかったんだ。最初は。

 けれど、彼女が僕に手を差し伸べた日から、僕のすべてが色を持つようになった。世界が生まれ変わったかのように感じた。

 気づけば僕は、彼女に魅了されていた。どうしようもないほどに。

 一生、手放したくないと思うほどに。


 たぶん、叶音はこんな僕の感情すらも受け入れたのだろう。でも、だからこそ怖かった。自分自身で許容できないこの感情が、他の誰かに許容されてしまうことが。

 そうだ、怖かったんだ。自分でも知らなかった自分が、どんどんと形作られていくことが。

 彼女といることで、自分が自分でなくなる感覚によく陥った。傍から見ればそれはいい変化だったのだろうが、僕はなんだか言い知れぬ不快感に襲われた。


 それでも、僕はもうその感情からも解き放たれ、明日からは一人で生きていかなくてはならない。

 もう彼女に振り回されることもないし、男子から陰口をたたかれることも少なくなるだろう。そう考えると、今まで日常の一部だったものが抜け落ちたような気がしてなんだか寂しくなった。


 僕はこれから、どうやって生きていけばいいんだろうか。









 それから月日は流れ、僕は十八回目の春を迎えた。

 今年も見事なまでに満開の花を咲かせている桜の木を見ながら考える。

 僕はあれから、生きる理由を探している。それはまだ見つからないし、いつになっても見つかる気配は全くない。

 でも、それでいいのだと思う。生きる理由がなくたって、人は生きていけるんだから。


 春。美しい桜と、始まりの季節。

 あの秋、僕のすべてを失った日。僕の人生は一度終わった。

 ならばもう一度、新しく始めればいいじゃないか。僕はあと何回、春を迎えられるのだろう。あと何回、あの頃の日々を思い出して涙を流せるのだろう。


 けれど今は、そんなことを気にしている暇はない。僕はこれからの人生を、すべて鮮明に記憶していかなくてはならないんだ。いつか叶音に、話して聞かせられるように。

 まだ僕は、叶音を失った痛みから抜け出せていない。だからこうして、毎朝ぎりぎりの時間まで家の前で待ってしまうし、時期が早いと分かっていながらも、今年の花火大会の情報を毎日のように確認している。


 きれいだなぁ……。

 「本当に、綺麗だったよ。去年も、その前も」

 その声が、決して叶音には届かないことは知っていた。それでも僕は、どうしても叶音がいた日々に思いをはせてしまう。

 僕はまだ、あの日々を、叶音の存在を、忘れられそうにない。


 温かな風に包まれて、いつまでも途切れることなく季節は巡る。

 過去にとらわれ続ける僕を、一人その場に残したままで。

 十年後、二十年後の自分が何をしているのかはわからないが、ひとまずは、笑って明日を迎えよう。

 それだけが、残された僕にできるすべてだろうから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君に少しの温もりを 時燈 梶悟 @toto_Ma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画