第6章 罪と報いと後悔と
僕は、僕自身とようやく向き合えるようになったと思う。
自分の弱いところを隠して生きてきた今までと違って。
自分を嘘で固める必要はなくなったし、自分の気持ちから目を背ける必要もなくなった。
それが果たして幸福なことなのかはまだ分からないけれど、少なくとも、罪悪感なく生きていくことは可能になったのだろう。
そんな予感が、確かにあった。
あの日、佐藤さんの言葉に気付かされ、僕は久しぶりに僕の本心に触れた。
同時に、僕は彼女に顔向けできなくなった。
一番大切だったはずの人に、嘘をつき続けてきたから。
だからもう、あれから彼女に会っていない。
───────────────
いつからだろうか。
翔飛は私の病室を訪れなくなった。
私がそういうふうに言ったから仕方ない。
そんなふうに割り切れたら、いったいどれだけ楽だろう。
私の人生はいつもこうだ。自業自得。取り返しがつかなくなってから後悔する。
彼はまだ、私の手を離さないと信じていた。──そう願っていた。
そんな浅はかな願望をあざ笑うかのように、彼は私のもとを去っていった。
今更、どうしようもないのだ。
今まで傲慢に生きてきた罰なのだ。
彼をだまし続けてきた報いなのだ。
彼が会いにきてくれたところで、私は彼と生きる資格はない。
目に焼き付くほどに鮮烈な緑の葉をつけていた木々が枯れ始め、少し肌寒くなり始めたころ。
私は病室から抜け出して中庭へと赴いていた。とはいっても、自力で歩く体力なんてものはほとんど残されていなかったので、看護師さんから借りた車いすに乗って移動してきたのだ。
最近は運動も控えていたし、何よりも病室にこもりっぱなしだったので腕の筋肉もすっかり衰えてしまったみたいだった。病室から中庭までの道中だけで、私は大きく肩を揺らしている。もともと体力自慢だったわけでは決してないのだけれど、自身の衰退をこうも実感してしまうのはいささかつらいものがある。
入院着だけでは寒いと思いベージュのカーディガンを羽織ってきたのだが、どうやら正解だったらしい。
頬を撫でる乾いた風が、束ねた髪と私の胸に空いた穴をくすぐっていく。
色素が薄くなったように感じる寒空に、まばらな頼りない茶色と、一際目立つ朱色が揺れている。
私は昔から、夏よりも秋が好きな人間だった。
その理由にはいろいろあるのだけれど、何よりも大きいのは寂しさが目立たなくなることだった。
自慢の色を失った木々に誘われて、人々はなぜか感傷的な気持ちに浸りたがる。その中でなら私は、その感傷に紛れることができた。秋は悲しさを誘うから好きだった。
そんなことを考えていると、ふと扇形の葉が風に飛ばされ私の手元に舞い込んできた。
「あなたも独りぼっちなの?」
昼下がりということもあってか、それとも単に知名度が低いだけなのか、中庭にはほとんど人がいなかったので、私はそんな独り言をつぶやいた。
「君は案外、そうでもないだろう?」
誰もいないと思っていたから、突然声をかけられて大きく肩をはねさせてしまう。しかしそれ以上に、先ほどの独り言を聞かれてしまったのだという羞恥と焦りのほうが大きかった。
慌てて声のしたほうを向くと、そこにはツカツカとヒールを鳴らし、白衣をたなびかせながらこちらに歩いてくる私の元主治医の姿があった。
「こんにちは、佐藤先生」
私が仕返しにと思いそう呼ぶと、やはり先生は心底嫌そうなしかめ面でこちらを見てくる。
「先生はやめてくれと何度言えばわかるんだい?私はそんな柄でも立場でもない」
「立場は先生でしょう?」
私はしたり顔でそう返す。
「患者の命を諦める医者は、先生と呼ばれるにはふさわしくないだろう」
視線を落とし、自嘲気味に笑う先生をわき目に私は話を続ける。
「それより先生、わたしが独りぼっちじゃないってどういう意味なんですか?」
私の問いかけに佐藤先生は少し迷ったように口を開こうとするが、すぐに閉じて顎に手を当てて何かを考え始める。
先生は何か考え事をするときに顎に手を当てる癖がある。
「そうだね……概ねは言葉の通りだ。君は一人じゃない。私もいることだしね」
しかしまあ、佐藤先生が実際に私のもとにいられる時間は皆無にも等しいため、それが私が一人ではないことの証明にはならなかった。最近はよく香織が病室に来てくれてはいるが、佐藤先生はそんなことは知らないだろう。
「それで、こんなところに何の御用なんですか?」
「それはこちらのセリフなんだがね。君は病室で大人しくしているようにと散々言われているはずだ、そして何より私が散々言ってきた。にもかかわらずふと窓の外を見てみたら君が一人でこんなところにいるもんだから注意をしに来たのさ」
これは迂闊だった。この中庭は病院の建物に囲まれるように配置されているため、どの病棟からでも中庭の様子をうかがうことは可能なのだ。
とはいえ、まさか業務中に中庭を覗き込む暇人なんていないだろうから、そこまで気にする必要もないだろうと思っていたのだが、どうやら暇人はより身近に潜んでいたらしい。
「先生は診察とかしなくていいんですか?」
私がそう訊ねると、先生は得意げに胸を張る。
「私は今お昼休憩だ。故に働く必要はない」
いや、堂々とそんなことを言われても……なんて思わないでもなかったのだが、そこに言及したところで先生は働かないだろうから私はもう何も言わないことにする。
「ところで、最近少年は何をしているんだい?」
彼女の指す「少年」というのが誰のことかはわからかったが、私にその現状を訊ねてくるのだから思い当たる人物は一人しかいなかった。
「先生、翔飛と関わりがあったんですね」
「関わりも何も、私と彼は親友といっても過言ではない。その親友が最近私の元に来なくなってしまったので、君の所には来ていないのかなと思ってね」
なんとも意外な組み合わせだし、翔飛の口から先生の話題を聞いたことがなかったので驚いてしまう。
「残念ながらというか、当然ながらというか……。私の元にも彼は来ていませんよ」
私がそう返事をすると、彼女は深くため息をついた。
しかしそれは、当てが外れたという落胆からくるものではなく、あるいは失望に似た何かなのかもしれない。
「そうか……。実は彼、一か月ほど前かな、私の元に相談へ来てね。初めは恋の相談かとも思ったのだが、聞いてみれば「幼馴染が死ぬのがつらくて耐えられない」というものだった」
私は今、どんな顔をしているのだろうか。自分の表情の管理ができないほどには、私はその言葉に衝撃を受けていた。
一か月前と言ったら、ちょうど翔飛が病室にこなくなった辺りではないだろうか。毎日同じような景色ばかり見ていると、日付感覚どころか時間感覚まで失われてしまうらしい。
「それは……、どうしてですか」
「どうして?そんなことを聞かれても答えられないよ。なにせ私は彼じゃない」
私自身も、私が発した言葉の意味を理解していなかった。けれど、何かを口に出さなければという謎めいた義務感のようなものに駆られて、特に考える間もなく意味不明なことを口走ってしまった。
「彼は言っていたよ。「僕はあいつに生きてほしい」とね」
頭の整理が全く追いつかなかった。
どうして、今になって?
今までは何も言ってこなかったくせに。
どうして、全てを諦めて、逃げて、投げ出して。もう手遅れになってからそんなことを言うの?
「その希望には、答えられそうにはありませんね。もう、本当に長くはないみたいで。今日だって、ベッドから起き上がるので精一杯でしたから」
「君は本当によく頑張ったよ。まさか延命医療もなしに、ここまで長生きするとは思ってもいなかった。こんなことを口にするのは医者以前に、人間失格かもしれないがね」
そう言って佐藤さんはからからと笑う。
「ちょうどいいところに来たのでお願いしてもいいですか」
私が上目で彼女に視線を送ると、彼女はにんまりとした笑みでこちらを覗き込んでくる。
「あぁ、何でも言ってごらん。私にできることなら最善を尽くそう」
「私を、病室まで運んでくれますか?もう、戻る気力も元気もなくて」
私がそういうと、佐藤さんは素早く私の背後に回り込み、車いすを病室がある方向へとむけて歩き出した。
なんの不満もこぼさずにそうして私の力になってくれる人を目の当たりにし、私は今更ながらに何か大切なことに気が付いたような気がした。
「これはお願いというか、私の単なるわがままにはなってしまうんですが、私がいなくなったら翔飛に渡してほしいものがあるんです。」
「おや、なんだい?ラブレターなら自分で渡すべきだが」
「そうじゃなくてですね……。いえ、似たようなものなんですが、──です」
私がそういうと佐藤先生は心底おかしそうに笑って「そういうことなら引き受けよう」と言ってくれた。
そうして私は、もう一つお願いをすることにした
「佐藤さん、最後にもう一つ。私───もっと長く、生きたかったです」
佐藤さんは、今度は何も答えなかった。
空には、多くのイチョウが風に巻き上げられ楽しそうに踊っていた。
私は、ぼやけ始めた視界を、秋のせいにした。
──────────────────
少し前までは桜が満開だった川沿いの道を、僕は一人で歩いている。
最近は、こうして一人での登下校にもすっかり慣れてしまい、静かになった左側に何か思いをはせることもなくなった。
そのことが妙に悲しく思えてきて、わけもなく空を見上げてしまう。
今までいびつに歪められていたものが、正しい形に戻っただけ。そう解釈することで、僕は僕の正気をどうにか保っていた。
そうでもしなければ、自分がどうなってしまうのか想像もできなかったからだ。
もし、彼女が病気になんてならなければ。幾度となくそんなことを考えた。しかし、そんなことを考えたところで、彼女の病気が急に治るわけでもないし、時が巻き戻るわけでもない。
こういう状況になってしまったのだから、受け入れるほかないだろう。
今更僕には、何もできないのだから。
いつもはもう少し賑やかだったこの通学路も、彼女がいないというだけでまるで別世界のように思えた。彼女がいなくなることで、世界が違う意味を持つようになった。僕に見せる色が、なくなったように思えた。
僕は結局、何がしたかったのだろうか。何をするべきだったのだろうか。何度そうして自分に問いかけようと、答えが返ってくることはなかった。
本心が自分にしかわからないように、自分のするべきことは自分にしかわからない。誰かが手を指し伸ばしてくれることもなければ、親切に助言をくれることもない。
冷たい世界だとは思わないが、もう少し救いがあってもよかったのではないかとは思う。
「なーに辛気臭い顔してんだよっ!」
そんな、僕の悩み事を吹き飛ばしてしまいそうなほどに明るい声が聞こえる。
「あぁ、誠也か」
「最近毎日暗いぞー?なんかあったのか?」
「それはもう知ってるだろ。今や笑える状況じゃないんだよ」
僕は、誠也や秋山に、叶音のすべてを話しているわけではなかった。もう病室に来るなと言われたことや、なによりも彼女の容態のことについては深く話していない。
だから彼らはまたいつものと同じようなものだと思っているのかもしれないが、僕にとっては人生を揺るがしかねない一大事なのだ。
「とはいっても、喧嘩しただけだろ?今回はちょっと長いけど、どうせまたすぐに元に戻るって」
彼は僕を励まそうとしてくれているのだろうが、その気遣いが今は一番つらかった。
「そうだといいな。………本当に」
僕の返事に何かを察したのか、誠也はそれ以上深く詮索してくることはなかった。
授業が終わって下校時間が近づいてきても、僕は自分の座席に座ったまま動けずにいた。叶音の病室によるという日課がなくなってから、放課後に一人になる時間が増し、これからの人生を先行体験させられているようで、何も考えなくていい環境を欲するようになった。
そうして何も考えずに時を過ごしていると、気が付けば辺りは夕焼けに染められていた。もう夏も終わりを迎え、日が落ちるのも早くなってきたようだ。
ようやく意識がはっきりしてくると僕は少し前の佐藤さんとの会話を思い出した。叶音を忘れたくない、いつまでも一緒にいたい。僕の隣にいなくてもいいから、せめて叶音が生きたいといってくれればそれでよかった。これは間違いなく、今僕の中にある本心なのだろう。
自分すらもだまして隠していた本心が、こんなにもわかりやすく、単純だったことに驚きを隠せないでいる。しかしこの望みは、叶うあてがほとんどないことを僕は知っている。だって彼女は自身の先の短さを自覚し、その死を受け入れる準備を済ませてしまっているのだから。
「今更どうにもなんねーよ………」
「いつまでそんなこと言ってんのよ」
そう言いながらため息をつく。声のしたほうに視線を持っていくと、そこには秋山が立っていた。
「いつまでって、それは……」
僕がごにょごにょと煮え切らない返事を返すと、秋山は何か覚悟を決めたように深呼吸し僕の目をまっすぐに見つめながら言った。
「もう、長くないんでしょう」
主語がないし、言葉の裏も読めなそうな言葉だったが、僕には秋山が何について言っているのかを瞬時に理解できた。
「なんで、それを……」
僕のその返答に、秋山は呆れたように肩をすくめる。
「翔飛くんはもう叶音ちゃんの病室に行ってないかもだけど、私は毎日通ってるの。職務放棄した誰かさんの代わりにね」
「職務放棄って……」
給料をもらっていた記憶もないし、仕事ほど無感情で行けるものではなかったのだが。
「だから、わかるんだよ。声に出して言われなくても、調子が悪い日とか、最初のほうより握力が弱くなってることとか。………投げ出したくなる気持ちもわかるよ。日に日に痛感させられる。叶音ちゃんのいない未来を、いやでも想像させられる。それなのに何もできない自分が、不甲斐なくて仕方がない」
そういって現状を語る秋山の声が、今までに聞いたことがないほどに震えていた。
「けどさぁ……。一番つらいのは私たちじゃないでしょ?だったら、本人よりも先に私たちが逃げ出していいわけないじゃんか……!私は、一番大切な親友が弱っていく姿を何もできずに見守るしかない。私は、叶音ちゃんを失うことが何よりも怖いの!でも──私は親友だから、絶対に見捨てるわけにはいかないの!翔飛くんはなんとも思わないの!?何も特別な感情なんてないの!?このままあえなくなっても、本当に後悔しない!?」
そういって、今まで胸の中に押し込んでいた感情を爆発させる秋山を前に、しかし僕は、何も言うことができなかった。
僕は結局、言い訳していただけなんだ。叶音が弱っていく姿を見たくないから。叶音がもう来ないでくれといったから。そんなふうにしていかなくていい理由を作って、ただ現実から目を背けていただけなんだ。僕は叶音に、それ以前に自分に、全くと言っていいほど向き合っていなかった。
「そうだな……。僕はたぶん、最低な人間だ。自分が悲しい思いをしたくないから、だから相手に責任があるようにして、被害者面してすべての責任を秋山に押し付けた。それで、見たくない現実を見ないでいいようにしたんだ」
けれど今更、僕にできることは何もない。それが痛いほどに分かっているからこそ、できるだけ早く忘れられるように、傷口が浅いうちに身を引くことを選んだんだ。これから先の人生で、叶音との思い出をいつまでも引きずっていかなくてもいいように。
僕のその考えはあまりにも自分勝手で、浅はかで、それでいて正しかったのだろう。現に、こうして精神を弱らしている秋山を見ると、僕の中で叶音の余生を共に過ごす自信はとうになくなっていた。
それでも、と思う。それでも、僕たちの過ごした十数年を、こうも簡単に手放してしまってもよいのだろうかという疑問は常に頭の中に残り続けていた。その葛藤があったからこそ、今になっても叶音のことを思い出しては後悔にも似た感情を抱いてしまっている。
もともと綺麗なものではなかったし、健全ではなかったし、隠し事だらけの張りぼてではあったけれど、それでも確かに僕たちは長い時を共にしたんだ。そこにどんな感情があろうと、あるいはなかろうと、その事実だけは変わらない。
「秋山はどうして、叶音と一緒にいられるんだ?その……辛くないのか?」
僕の問いかけに秋山は泣きはらして赤くはれた瞳をこちらに向けると、あまりにも純粋で、透き通った笑顔を浮かべてこう言った。
「もちろんつらいよ、とても。───でもね。私たちは、最後まで友達だって約束したんだ」
──────────────────
あれから、佐藤先生に病室まで運んでもらって、私は病室のベッドの上でひたすらに泣いた。目が腫れるのが少しネックだったが、香織が来る頃には腫れも治まっているだろうと考え、彼女と違う時間で生きているのだと実感しまた泣きそうになった。
体が弱っていると心も弱っていくのだろうか。こういう時に人の温かみを感じたくなるのだが、母親はなぜか最近はあまり病院に足を運ばなくなってしまった。ただそれもまぁ無理もない話だ。実の娘が弱っていく姿なんて見ていたくもないだろうし。
そんな風に、いろいろな物事に理由をつけて、自分を納得させて。できるだけ何の恨みも未練もないようにこの世を去ることが最近の目標だったりする。別に、悲しくないわけじゃない。でも、日々の生活に毎回そうした感情を抱いているときりがないし、最近はようやく受け入れる覚悟ができてきたのだからその気持ちを中途半端に崩したくなかった。
寂しくないといえば嘘になる。
けれど今更、誰か会いたい人がいるわけでもない。翔飛とも、望んでいた形ではないにしろ決別できたわけだし。こうして着々と、私は未練を解消しているのだ。
それにしても、翔飛が私に「生きてほしい」なんて思っているのは本当なのだろうか。翔飛が本心を言っていない可能性だってあるし、佐藤先生が私を元気づけるために言った嘘かもしれない。それと、私の言葉。「もっと長く生きたかった」なんて、今更いったい何を言っているんだろう。あんなもの、佐藤先生を困らせてしまうだけなのに。私はまだ、私に対する答えを出せずにいる。
「なんだかなぁ……」
少しづつ茜色に染まり始めた秋空を眺めながら、私はため息をこぼした。
それから少しして、考え事をしているうちに眠ってしまっていたのだと気づいたのは、病室の扉がノックされた音で目を覚ました時だった。辺りを確認してみればもうすっかり暗闇に飲み込まれていたが、時計を見てみると先ほどから一時間ほどしかたっておらず、秋の日の短さを実感した。
私は手櫛で髪を整えるとノックをした人物に返事をする。
「どうぞ」
寝起きでほとんど水分を取っていなかったからか、少しかすれた声が出てしまい妙に恥ずかしい気分になった。
私の声に反応して扉がゆっくりと開かれる。普段からこの時間に来客があるのは珍しかったので、あまり訪問者が誰なのかは予想がつかなかったが、その来客者はとても意外な人物だった。
「あれ、佐藤先生。こんな時間にどうしたんですか?」
驚きのあまり声が少し上擦ってしまう。
「やぁ、笹原さん。邪魔しちゃったかな」
扉から顔をのぞかせる佐藤先生には若干の申し訳なさが滲んでおり、私がつい先ほどまで眠りこけていたことがばれていそうで顔が赤くなってしまう。
「いえ、お気になさらず。少し寝不足なだけですから」
私が言い訳すると、佐藤先生はそれに納得したのか肩をすくめながらこちらに歩いてくる。かけていた眼鏡を白衣の胸ポケットにしまいながら私のベッドの横に置かれた椅子に腰かける。
「君にとっての寝不足は大きな危険につながるかもしれないんだ。できるだけ規則正しい生活は心がけておくれ。……それはそれとして、私は君に聞かなければならないことがあるんだが」
私に聞きたいこと、と言われ真っ先に思い浮かんだものは先ほどの発言のみなのだが、佐藤先生がそんなに深くあの発言を受け止めているとは思えないので思考を巡らせていると
「いやなに、そんなに重要なことではないさ。君たちにとっては、一番重要かもしれないがね」
という補足説明をされたがさっぱりわからないので早々に答え合わせを求めることにした。
「それで、聞きたいことというのは?」
私は聞きながら体勢を整え、ベッドに深く腰掛ける形で先生の声に耳を傾ける。
私がそう問いかけると、佐藤先生は先ほどまでの呆れたような表情とは打って変わって真剣な表情になる。私はそれなりに長い期間佐藤先生と関わってきたが、今までにも見たことがないくらいに真剣な顔をした佐藤先生に少したじろいでしまう。
「君は─────あの少年が好きなのかい?」
いったい何を言われるのかとひそかに身構えていたので、全くの予想外な質問に私は思わず吹き出してしまった。普段翔飛からどんな話を聞いていたのかはわからないが、間違いなく好ましくない勘違いをされていることがどうしようもなく不服だ。
彼は私のことなど、なんとも思っていないのだから。
「やだなー、そんなことないですよ。腐れ縁ですからね。今更そんな殊勝な感情なんてないですよ」
私が少し茶化しながら答えると、佐藤さんは遠い目をしながら鼻で笑った。そのおかしな反応に私が首をかしげていると、私の様子に気が付いたのか佐藤さんは説明を始めた。
「いやね、私は君と全く同じことを思っている人を知っていてね。その人と少し重なったんだよ。取り返しがつかなくなるうちに、けじめはつけておくべきだよ」
あまりにも主観的な話し方だったのでもしや佐藤先生本人のことか?なんてにらんでみたが、それを問いただしてもうまく誤魔化されるだけだろうから口には出さないでおいた。ここ十数年生きてきて今日初めて気が付いたのだが、どうやら私は人の心を読むのが苦手らしい。現に、佐藤先生が言おうとしていることが全く分からないのだから。
私があまり納得していない様子を感じ取ったのか、佐藤先生は柔らかな笑みを浮かべながら私の頭の上に手をのせる。
「要は、結果がどうなるものであれ、本心を伝えるべきだ、という話だよ」
その言葉を聞いて私はまた吹き出してしまった。
「佐藤先生、やっぱり誤解してますよ」
私がそう返すと佐藤先生は心底不服そうに胸の前で腕を組んだ。
「おや、そうかい?私は人間観察は得意なんだがね。勘も鈍るかな」
「いいえ、先生は間違っていませんよ。ただ私たちの関係を勘違いしてます」
私がわざと遠回りな言い方をすると佐藤先生は顎を触りながら数秒硬直したかと思うと、突然満面の笑みになって顔を上げた。
「もしやもうすでに……⁉」
「だから違いますって……。シンプルに、そんな関係じゃないんですよ。隣にいることが当たり前で、それが何も特別なんかじゃなくて。自分が思ってることは全部相手にも伝わってるなんて思ってて。───そんな関係でした」
無意識にそう言って、私ははっとした。もう彼との関係が過去のものとなってしまっていることに。そうして、これからなんて物がないことを再認識して無性に泣きたくなった。
もう一緒に映画を見ることもできないし、本屋巡りだってできないし、貸しを作ることもなければ、借りを返すこともない。「いつか」なんてした約束も、果たされることはないんだ。
一緒にいつもの景色を見ることもなくなるし、いつまでも一緒にいることもできない。生きる意味なんて探す機会もなくなる。闇夜に浮かぶ花火を見ることだってできなくなるし、何よりも明日が遠くなる。
それが、いなくなるってことなんだ。
「いやだ……。私、まだ一緒にいたい。行きたい場所だってたくさんあるし、やりたいことだってやり切れてない。このまま終わりなんて、絶対に嫌……!」
ふと、頬に違和感があった。ほんのり温かいものが、私の頬をなぞっていった。私はその違和感に触れてようやく、自分が泣いているのだとわかった。
「なら君はまだ、生きたいと願うのかい?」
そう言われ佐藤さんのいる場所に顔を向けるが、涙に覆われた瞳ではその表情を映し出すことはできなかった。
「私……。私は、でももう、疲れたの。私が翔飛の前で、私でいられなくなることが何よりも嫌。取り繕って笑うのが嫌。親友に嘘をついてだますのが嫌。もうこの人生は、嫌なことであふれかえってる。悔いがないようにって思ってたけど、結局私の未練は何一つ、なくなってなかった……。私は、特別なんかじゃなくてもいいから、ただみんなと同じように生きたかったっ……!
」
それを聞いた佐藤先生は満足げにうなずくと椅子から腰を上げた。
「それが君の本心なのだろう。それが聞けて良かったよ」
そう言って遠ざかっていく佐藤先生の白衣の裾をつかむ。
これだけは、今言っておかなければならない気がした。
これもまだ、私の本心なのかはわからない。
けれど、確かに今私の胸の中を埋め尽くしている思い。言葉。
「あのね、先生。私──────翔飛が好き」
その言葉に、先生の体が硬直したのが分かった。なんでも見透かしていそうな先生の裏をつけたようで、なんだか勝ち誇ったような気分になる。
「あぁ、知ってる」
先生はそれだけ言い残すと私の病室から去っていった。
私には先生を引き留めるのに十分な握力は、もう残されていなかった。
佐藤先生が病室を去ったあと、私はすぐに眠ってしまったらしく、私は開け放たれたカーテンから差し込む少し弱くなった日光で目が覚めた。
自分がどのタイミングで眠りに落ちたかが明確に思い出せなかったので、昨夜の出来事が夢だったのではないかとも思ったが、私の頬には何かが伝った跡が残されていた。
そうなると、私は昨夜私の口からこぼれた私の本心と向き合い、どうにか折り合いをつけなければならないのだが、ここまでこじらせて肥大化してしまった思いを、今更どうにかできるとは思えなかった。
「そっか私…………好きなんだ」
今更ながらに自覚したこの思い。しかし私は、必ず墓場まで隠し通すと決めた。それが彼の負担にならない一番の方法だし、なによりもう伝える機会も気力もない。この世にはどうにもならないことが存在しているというのは理解していたが、これ自体は世の中が悪いわけではなくて、ただ勇気がなかった私の自業自得なのだから、誰を恨むだとか世界がどうだとか文句を垂れ流すつもりは毛頭ない。
だがそれはそれとして、あれだけ長く同じ時を過ごしていながら私に何の感情も抱かなかった翔飛にも責任の一端があるのではないかと八つ当たりしてしまう。
そう考えるとなんだか無性に腹が立ってきて、この腹いせに翔飛に嫌がらせをしてやろうという名案を思いついた。私はベッドの横に備え付けられた机に手を伸ばすと、そこに置かれている携帯を手に取りメッセージアプリを起動させる。
トーク履歴の一番上にあった翔飛のアイコンをタップすると
「暇すぎる。おすすめの漫画持ってきて」
と連絡を入れる。文章を打ち終えて一瞬、送信ボタンを押すか迷ったが、ここで悩んでいては何もできまいと思い目を瞑りながら送信ボタンを押した。
なんだかんだ言って、翔飛は私のお願いを断れないんだからきっとお昼までには大量の漫画を持ってきてくれるだろう、なんて考えていたのだがどれだけ待っても返信はおろか既読すらつかなかった。
さすがにおかしいな、と思い日付を確認してみるとそれもそのはず、今日は平日であり翔飛は学校へ行っている時間だった。馬鹿まじめだから校則を破ってスマホを見るなんてことはしないだろうし、大人しく放課後になるまで待っておこう。
「学校、いいなぁ。私も普通の生活が送りたかった……」
「じゃあいったい、君の考える普通とはなんだ?」
突然声をかけられ方を大きく跳ねさせてしまう。声のしたほうに目を向けると、そこには扉にもたれるようにして立っている佐藤先生の姿があった。
「びっ…くりしたぁ、先生、ノックくらいしてくださいよ」
私が唇を尖らせてそう抗議すると、先生は嫌な笑みを浮かべながら近づいてきて、昨夜と同じ場所に腰かけた。
「いや、声はかけたんだが何やらスマホを見てニヤニヤしてたもんだから邪魔しちゃ悪いかな、と」
そんな様子を見られていただけでも恥ずかしいのに、目撃者が佐藤先生というだけで取り返しのつかないことをしてしまったかのように思えてしまうのはやはり、この人の人柄が大きく影響しているのだろうなと思う。
「それにしても乙女の独り言を盗み聞きとはいただけませんね」
「君は大概独り言が大きすぎるんだよ。それで、君の思う普通の生活とは?」
その内容がそんなに気になるのか、佐藤先生は期待に満ちた目をこちらに向けている。
「それは……毎日学校に行って授業受けて、休み時間に友達と話して、放課後や休日は遊びに行ったり……そういうものですかね」
私がそう答えると、さきほどまで光り輝いていた佐藤先生の顔が急に曇りだした。
「いいかい?私の高校時代には休み時間に話す友達はいなかったし、ましてやどこか遊びに出かけるなんて夢のまた夢だった。まぁいつまでも付きまとってくるストーカーはいたがね」
なぜか説教されているような感覚に陥ったが、佐藤先生が何を言いたいのかがあまり分からなかった。
「つまりだ。君の考える普通に、私は含まれていないわけだ。けれど教室で一人で読書するのが私の普通だったし、時にはストーカーを相手にするのも私の普通だった。私は『普通』という言葉が嫌いだ。どうせその中に私は含まれていないんだし、自分がはみ出し者だといわれているような感覚になる。『普通に生きたい』なんて望んでいる人間の描く『普通』とは結局、その人の理想でしかない」
なるほど、何か深い話だな、と感心しそうになったが
「いや先生……ひねくれすぎじゃないですか?」
という感想に落ち着いてしまった。たしかにその『普通』を経験したことのない私にとっては理想に過ぎないかもしれないが、では翔飛にとってはどうだろう?香織にとってはどうだろう?この世の中にはそういった、どうしようもない格差がある。
「たしかに、世間一般から見れば私はひねくれているのだろうな。だが、私にとってはこれが普通だ」
佐藤さんはそういうと、勝ち誇ったように笑って病室を出て行ってしまった。いったい何をしにここに来たのだろうか、なんていう疑問をよそに、私は唐突に睡魔に襲われた。
「私にとってはこれが普通、か。それにしても、独りぼっちはさみしいなぁ、、、
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