熱帯夜の訪問者
篠原 皐月
招かれざる客
相方と共に夜の巡回に出ていた勤続三年目の志穂は、問題なく勤務先の交番に帰還した。そして書類仕事を進めていたベテランの高木に声をかける。
「高木さん、パトロール終了しました」
その声に高木は声を上げ、志穂と隣に立つ柴崎を見上げながら報告を促す。
「おう、お疲れさん。どうだった?」
「二丁目のコンビニでたむろしてる人達に声をかけてきましたが、大人しい方達でした」
「あとは、第二小学校から幹線道路に抜ける角で、今日も接触事故寸前の事があったと付近の方からお伺いしました。近日中に、付近の表示や警告を刷新した方が良いかもしれません」
「そうか。それでは報告書を上げておいてくれ。それでは現時点での引継ぎだが……」
(さすがに経験年数も見た目や体格も、如何にも警察官っていう先輩だと、数だけ揃ってる高校生なんてあっさり蹴散らせるものね。悔しいけど、仕方がないか)
高木の話を聞きながら、志穂は上背がある柴崎を横目で見ながらどうしようもないことを一瞬考えた。すると話し終えた高木は、掛け時計の時間を確認して腰を上げる。
「それじゃあきりが良いし、俺は仮眠に入る。お前達も順番に休憩に入れ」
「分かりました」
「今のうちに、書類作成を進めておきます」
「そうだな。日中はちょっと忙しかったしな」
そして高木が奥まった仮眠室に向かい、志穂達が書類作成を始めてすぐに、三十前後と思われる女性がやって来た。
「良かった~、すぐ近くに交番があって」
「どうかされましたか?」
「そこの電話ボックスで電話をかけたら、誰かがお財布を置き忘れていたのに気がついたので、届けに来ました」
「それはありがとうございます。今、遺失届を確認してみますね」
女性がトートバッグから取り出した財布を見て、志穂はすぐにデータの確認を始めた。と同時に、女性が戸を開け閉めしたタイミングで、交番内に招かれざる客がやって来た事に気がつく。
(あ……、夏だし夜だし、仕方がないよね。ちょっと気が散るけど、仕方がないか)
そのまま志穂は少しの間業務に集中し、顔を上げて女性に告げた。
「確認してみましたが、まだそれらしい届け出はされていないようです。こちらで保管して、拾得物件預り書を作成しますので、少しお時間頂いてもよろしいですか?」
「はい、大丈夫です。あとは家に帰るだけですし、問題も解決しましたし」
二人でそんなやり取りをしていると、隣の机にいた柴崎が静かに立ち上がる。
「川上。俺は少し奥に行っている」
「構いません。ここは私がやっておきます」
「頼む」
(ああ、そういえば、先輩は駄目だったっけ)
彼がこの場を離れたがっている理由を察した志穂は、素直に頷いて了承した。そして遠ざかる足音を聞きながら、女性との会話を始める。
「そういえば、先程問題が解決したとか仰いましたけど、何かトラブルでもありました?」
「それが……、食事をしてきた店に、スマホを忘れてしまったんです。電車を降りる直前に気がついて、動転して慌てて公衆電話を探しました」
「それは慌てますよね。無事に見つかったんですね?」
「ええ。店のレシートがあったので、そこに公衆電話から電話したら保管してくれていまして。ほっと一安心したら、このお財布が目に入ったのでこちらに持って来たんです」
「このご時世ですから、この人もスマホをどこかに置き忘れたりして、慌てて公衆電話から電話をかけて、お財布を忘れていったかもしれませんね」
「絶対そうですよ。だってこんな時でもないと、公衆電話なんて使いませんし。本当に久しぶりだったので、慌てて受話器を取り上げる前に小銭を入れて、見事に落ちてきました」
「本当に、使い方を忘れますよね~」
そんな雑談をしながら、志穂は必要事項を女性から聞き出して、手早く書類を作成していく。
(それにしても先輩、戻って来るのが遅すぎない? 大丈夫かしら?)
チラッとこの場にいない柴崎のことを考えながら、志穂は無事に手続きを終えた。
「今回はご協力、ありがとうございました」
「いえ。なんだか他人事の気がしなくて。早く持ち主が分かると良いですね」
「遺失者が判明して、引き渡す際にはご連絡します。慰労金の請求や、その権利の放棄については、その時に改めてご説明しますので」
「分かりました。よろしくお願いします」
「気をつけてお帰りください」
女性と互いに笑顔で別れてから、志穂は柴崎が未だに戻らない事に気がつく。
「ふう、一件落着っと。……あ、現在進行形の事案があった」
そこで志穂は一応トイレを覗いてから、隣の備品倉庫に軽くノックをして足を踏み入れた。
「柴崎先輩、どうかしましたか? 先程の女性はお帰りになりましたが」
「そいつ窓を開けてるのに、さっきから全然出て行かないんだ!!」
明かりが点いている室内で、奥の部屋で仮眠中の高木を起こさないための気遣いからか、精一杯声をひそめながら柴崎が必死の形相で訴えてきた。それと同時に、彼の周囲から聞こえてくる静かな羽音に、志穂は正確に事態を把握する。狼狽気味に手を振り回して払いのけようとしている彼の姿を目の当たりにして、志穂は思わず遠い目をしてしまった。
「あぁ……、いつの間にかいなくなったと思っていたら、逃げた先輩の後を律儀に追って、ここまで付いてきていたんですね」
「さっきから追い払ってるのに寄ってきやがって、何様のつもりだ!! なんとかしてくれ!!」
「危険な蜂でも毒蛇でもヒアリでもないし、見た目がアレなナメクジでもミミズでも毛虫でもないのに、どうして単なるカナブンがそんなに嫌なんですか……」
「カナブンだろうが何だろうが、立派な虫だろうが!!」
「あぁ~、はいはい。立派な虫でございますね……。先輩、室内の電気を一旦消しますよ?」
そこで志穂は室内の電気を消し、そこら辺にあるファイルを手にして、飛んでいるカナブンを慎重に窓に向かって誘導していく。すると街頭の灯りに惹かれたのか、カナブンは静かな羽音を響かせながら窓から外へと飛び去っていった。
「お騒がせしました。安心してお帰り下さい」
見送った志穂が窓を閉めると、背後から声をかけられる。
「行ったか?」
「行きました。もう電気をつけても良いですよ」
それを合図に、室内に再び明かりが満ちた。そしてげっそりした顔つきの柴崎に、志穂は苦笑いで声をかける。
「お疲れ様です」
「ありがとう、助かった。交番勤務が嫌というわけじゃないが……。来年は絶対、署内勤務になってやる」
「交番だろうが署内だろうが、入る時は入って来ると思いますけどね……」
頼りになる先輩の唯一とも言える弱点を前にして、志穂は少しだけ彼に同情すると同時に笑いを堪えていた。
熱帯夜の訪問者 篠原 皐月 @satsuki-s
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