第38話 岩の上での考え事

 ふぅーーー。


 胸いっぱいに吸い込んだ空気を、僕はゆっくりと吐き出す。


 僕は岩だ、僕は岩だ。


 そう心の中で唱えてからゆっくりと息を吸い込み、さっきより静かに息を吐き出しながら完全に気配を消して自然と同化する。


 がまん、がまん。絶対に声を出すな、魚が逃げる。


 おじちゃんが『秘密のポイント』と言っていた場所の近くにある岩の上で、水に影を落とさないよう注意しながら、僕がここにいることが魚にバレないように身を潜める。

 毛鉤を竿に巻き付けて、獲物が来るのを待ち構えるハンターのモノマネをしているのにはワケがある。


 歩きながら聞いた話だと、このポイントはかなり凄い。

 ここから竿二本分だけ離れたあのポイントには、必ずと言っていいほど魚がいるらしい。しかもメチャクチャ良いポイントみたいで、行きに釣り上げたとしても帰りにまた釣れる。そんな夢みたいなポイントだ。


 そんなことを聞かされたから、僕はウキウキでそのポイントを見ながら岩に飛び乗った。飛び乗らなくてもよかったのに飛び乗った。そしたら滑って川に落ちた。自分でも呆れるほど、僕は紛れもないバカタレだ。

 そんなことをしたらもう釣りどころじゃない。おじちゃんの盛大な笑い声とともに、魚はどっかに逃げたか隠れてしまっただろう。


 おかげさまで、ずぶ濡れになった靴と共に、ここからポイントを見つめている。靴下も濡れて気持ち悪いから、岩にぺったりとくっつけて干してある。騒がしく鳴くセミにバカにされている気がするけれど、大声で言い返すこともそこまで行って追い払うこともできずに我慢している。


 僕は再び、ふーーーっと、溜め息混じりで息を吐く。


 気持ちを落ち着かせるために、流されないように川岸に繋いである網に目を向ける。

 おじちゃんはすごい。教えてくれたポイントに僕がいくら毛鉤を投げても食いつかないのに、おじちゃんが毛鉤を落とすとすぐに竿がしなる。

 おじちゃんが言うには、今日はいつもより調子が良いらしい。「ヒロ君は、山の神様に気に入られてるのかもな」何て言ってくれたけれど、同じ釣り道具なんだからどう見てもおじちゃんの腕が良いだけだ。僕は一匹も釣っていない。


 ちょうど良く、網の中で魚が跳ねる水の音が聞こえた。

 ヤマメにイワナ、どれも型の良いやつだけを網に入れている。目当ては鮎だけだったけれど、僕たちに食わせてやれ、と神様が言っているんだろうということで急遽持ち帰ることにした。

 釣った数でいうと家族の人数分よりは多かったけれど、『家族の分だけを持ち帰る』というのが大切らしい。欲をかくと神様に嫌われるし、そうすれば次も良くしてくれるらしい。


「本当は、魚を獲り過ぎるといなくなっちゃうからだけどな」


 おじちゃんは、一番最後に笑ってそう付け加えた。


 そのおじちゃんがどこにいるかというと、総仕上げとして日和の鮎を釣りに行っている。遠くに見えるのがおじちゃんだ。

 子どもを一人にしておくのはどうかって話になったけれど、鮎のポイントはここから見える位置だということでお留守番をすることになった。


「まあ、お留守番という名のズボンを乾かしているだけなんだけれど」


 ズボンの乾き具合を手で確認しながら、僕は独り呟く。


 それより何より問題なのは、さらにおじちゃんに子どもと思われてしまうことだ。鮎の友釣りができなかったのは、子どもと思われているが原因だ。このままでは、まずい。かなりやばい。仙人の弟子になれなくなってしまう。

 もう川に落ちたりしないし、これぐらいなら危なくもない。自分の身は自分で守れる。その点は分かってもらわないといけない。

 それに僕は子どもじゃない、仙人から奥義を継承する男だ。あっちゃんの一番弟子でもあり、日和のお兄ちゃんでもある。あの日和の、だ。さっきだってとっさに反応したから片足だけ水に浸かる程度だったので、道具も流されなかったし怪我もしなかった。けれども、それが何だっていうんだ。悔しくて悔しくてたまらない。


 このまま一匹も釣らないなんてありえない。

 帽子を脱いで太陽に顔を向けてから気合いを入れ直すと、どこからか「クォックォーー」と、聞き慣れない鳥の鳴き声が聞こえてくる。帽子を被り直して鳴き声の聞こえた森の方へと目を向けると、流れる川の中に不自然な波紋が広がるのが目に入る。川に浮かんでいる昆虫を魚が食べた時にできる波紋、ライズだ。


 当たり前だけれど、ここに魚はいる。しばらくその辺りを見ていると、さっきより大きくライズする。


「流れがゆっくりだと、浮いてる昆虫も見つけやすいんだろうな」


 何気なく言った一言がきっかけとなって、『魚の気持ちになって考えてみな』というおじちゃんの言葉が頭に浮んだ。


 僕は秘密のポイントに目を向ける。


 川の流れが変化しているのか、水面が盛り上がっている。

 川の中に岩や石がある証拠だ。隠れるならやっぱり、岩の前より後ろだよな。


 あそこは流れが早い。

 あそこで泳いでるのは疲れそうだから、岩の後ろもそうだけど、急な流れの直ぐ横にいて獲物を待ち構えているんじゃないか。


 流れに巻き込まれて葉っぱが一瞬だけ沈む。

 昆虫が流れてきたらあそこで沈むよな。それなら、あそこより上流に毛鉤を落とした方がいいんじゃないか。いや待てよ、毛鉤が沈むならその横に落として、待ち構えてる魚を狙った方がいいんじゃないか。


 見えるはずがないのに、川の中にいる魚の姿が頭の中に浮かんでくる。その魚に向かって、どうすれば毛鉤に食いつくかを考える。けれどもしっくりとこない。


 いつしか僕は、釣りのことだけを考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の思い出 @touno-tokimatu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る