ふうちゃん2

柑橘類のような名前をした塗り薬のCMソングが遠くに聞こえる。低い男性の声で、囁くような弱々しい調子で歌っている。

はて、あのCMは長らく放送されていないような─訝しんだ瞬間に開けた視界には壁紙が僅かに浮いた天井と、光の灯っていないシーリングライト。1日の始まりに必ず拝む光景が広がって、布団に横たわった状態の私に朝を告げる。

あら夢、と思ったら件のCMソングはまだ聞こえていて、声のする方へ顔を向けたら視界が人の顔で埋め尽くされた。反射的に飛び退く我が身から雄叫びに近い悲鳴が上がる。


「おはよう。良い土曜ですね」


幼馴染のふうちゃんが私の隣に寝転んでいた。私の吃驚に動じる様子も見せず、白い半袖の開襟シャツとベージュのスラックスを纏った大柄な身体をゆっくりと起こし、脇に置いてあった銀縁の丸メガネと黒い帯付きのカンカン帽を拾い上げた。


「隣で寝らんでよ、ビックリするやん…なんか昭和のおいさんみたいな格好しとるし」


「格好は余計やし。それよかあーた、今日ドライブ行こうっつった日でしょ。何寝てんの」


「ああ、そうか…え?」


私は枕元に置いていたスマホを取った。ドライブの約束は覚えているが、そんな出発を急かされるような時間まで寝ていたのかと焦りながら画面を点灯してみれば、表示された時間は午前の7時半。


「は?クソ早いんですけど」


「うん。あーたお化粧とかするだろうから早く来たのよ。車ん中で寝ちょって良いけん早く準備しなさいよ」


「あぁ〜…にしても早すぎだろ。準備するからどいて」


布団の上に座ったままのふうちゃんを退けて、布団一式を畳んで隅に寄せた。それからクローゼットを開けTシャツとデニムパンツを取り出すと、不満げな顔をしたふうちゃんが歩み寄ってきた。


「たまにはガーリーなコーデが見たいですねぇ」


「は?」


「ホラ、今日俺オシャレしとる。なのであーたもオシャレすんのよ」


「いや意味分からんし。オシャレするほどの所でも連れてってくれんの?」


「連れてく、連れてく。だから何かこう…スカート履いて」


「スカート指定とかキ…」


「キモい」と言おうとして詰まってしまった。隣に立つふうちゃんの、丸メガネ越しに私を見つめてくるダルそうな窪み目に、反論を許してくれなさそうな異様な圧力を感じる。

私は箪笥から黒のマーメイドスカートと、白地に黒い線で花が描かれたフレア袖のブラウスを取り出した。隣から「俺それ好きかも」などと言われた。

ふうちゃんを一旦居間へ追いやり、1時間半かけて身支度を済ませた。この際だと思ってラインストーンのついた細身のカチューシャまで着けて居間に入ると、ウチの母が握ったらしい握り飯を食べながら教育番組を見ていたふうちゃんが目を見開いて「おお」とだけ言った。

家を出ようとすると、台所から出てきた母から「デートに行くみたいやな」と冷やかされた。何言ってんだと一蹴したが、ふうちゃんは満更でも無さそうにしていた。




ここ何年か、大分では夏の盛りを迎えると朝の9時でも温度計が30度を指し、外に出れば強烈な太陽光線に肌を焼かれる。日焼け止めクリームにアームカバー、つば広帽子に日傘という重装備に身を固め、シートなりファンなりの冷却グッズを持たねば出かけられない。

ふうちゃんの愛車である水色のミニSUVに乗り、ふうちゃんがフロントガラスに敷かれたアルミシートを片付ける間にドアを開けて熱気を逃がす。それからふうちゃんがエンジンをかけ、クーラーから冷たい風が出始めた時にようやく行き先の相談が始まった。


「あちぃなぁ。どこ行きたい?」


「涼しいとこが良いよね…涼しくてオシャレなとこ、ハイ」


男池おいけ


「オシャレ切り捨てんな」


3分ほど話し合った末、行き先を決めずふうちゃんの気の向くままにドライブをすることになった。

ふうちゃんのカーポートを出て米良へ走り、大分南バイパスに乗って国道10号線を判田、戸次と南下していく。市内の中心を離れるにつれ人家や店などの建物は疎らになり、山が近づいて景色に緑色が増える。左手にオレンジと緑のテントを張った老舗の唐揚げ屋が見えてくると、ふうちゃんが「あそこ行ったことある?」と聞いてきた。無いと答えると「ふーん」とだけ返して唐揚げ屋を通り過ぎた。

上尾トンネルを抜けて大野川にかかるどんこ大橋に差し掛かった時、ふうちゃんから唐突に「どうなん?」と聞かれた。


「は?何が」


「結婚しようっつったやん」


「あー…そやっけ」


とぼけたが、よく覚えている。

私は1ヶ月程前にふうちゃんから求婚された。会社において転勤覚悟で昇進を目指すか否か悩んでいたタイミングで、そこにつけ込むが如く「結婚すればずっと地元にいられる」と吹き込まれて、髪の匂いまで嗅がれた。ふうちゃんの深い吐息を聞きながら、この人の目には私が"女"に映っているんだと衝撃を受けた。

あれからというもの、私の名前とか、風呂や着替えの度に鏡を通して見る丸みを帯びた身体とか、己が女であることを物語る要素を見る度に、ふうちゃんの息遣いが背後に聞こえるような気がして胸がざわつく。

額から嫌な汗が伝うのを感じながらふうちゃんに目を向けた。進行方向を見つめるダルそうな横顔。どう見たって、目の前にいるのは"男"でなく"幼馴染のふうちゃん"である。


「え、あのさ、どういう気持ちで言ってきたの?結婚とか」


「俺ずーっと好きやった。チビん時からずーっと」


「いやいやいや嘘や。だってセイちゃんおったやん」


ふうちゃんが大学時代に付き合っていた山岸聖子の名前を出した。

山岸聖子は背が低くて子供っぽい見た目の割にしっかりした女性で、常からダルそうなふうちゃんと程よく対になっていて、家の前なり市街なりで会う度に仲睦まじい様を見せていた。


「セイちゃんはホラ、あんたと付き合うのに女性経験ありませんとかカッコつかんやん」


「それつまり、好きで付き合っとったわけやないってこと…?」


「逆にあんたは1回も彼氏作らんで安心したわ。初心うぶなまんまやな」


「いやいやいや出会いが無かっただけやし…ね、この話やめない?」


「やめんよ」


「なんで?なんか今日話さんといけん理由でもあるん?」


しんどさのあまり語気を強めて訊いてしまった。ふうちゃんは押し黙り、車内には車の走行音だけが響くようになった。

ああやってしまった─気まずさの為に車窓の外に広がる雑木林を眺めていたら、ふうちゃんがどこぞの敷地に入って車を停めた。玄関に暖簾を垂らした小さな平屋と、その前に木製のテーブルセットが2つ。飲食店だろうか。


「ここ来てみたかったんよ。ソフトと飲み物とあるけん、好きなん言って。俺が奢ります」


「え、あ、はい」


沈黙の時間が嘘であったかのように、いつも通りの振る舞いを見せるふうちゃんに呆気に取られつつ車を出た。店に入ろうとしたら突如背後から抱きつかれた。


「本当に転勤してしまう前に捕まえとかんとなぁ。なぁ」


スカート可愛いやん、と粘っこい声で囁かれた。

周辺に広がる雑木林を見渡しながら、私は随分な山奥に連れてこられたことに気づいた。もうこのあと、私に何が起こっても逃げられない。

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