ふうちゃん
勤め先のある大分市街から下郡東の自宅へはバスで帰るのが常である。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯で、座席は全て先客に陣取られ、ポールやら吊り革やらに掴まって他の客とぶつからぬようふんばりながら立ち乗りをする。
中心市街と郊外を隔てる広大な大分川に架かった橋をバスが渡る時、群青、薄桃、橙のグラデーションを描いたマジックアワーの空の下、川沿いに建てられたパチンコ屋のネオンが極彩色に輝いている様が見える。あの光景は私が専門学校へ進学し地元と市街を行き来するようになって以来、私にとって"帰宅"という言葉を象徴するものになっている。
帰宅の象徴を前にして、私の脳裏に上司から渡された昇進試験の応募用紙がチラついた。
私の勤め先では平社員から役職付きへと昇進するのに試験を受けなければならない。受かれば出世コースに乗って今よりもずっと待遇が良くなるが、代わりに九州各地の支店への転勤を命じられる。
会社としては昇進試験の受験を希望制としているが、勤め先の支店においては女性の役職付きを増やさねばならぬとかそういう都合でもあるのか、部長が女性社員を捕まえては昇進試験を受けるよう説得している。特に社内でも1番の若手にあたる私には「無理矢理でも受けさせたい」などと言ってくる。
いま金に困っているわけでも無いし、地元を離れる気も無いので試験は受けたくないが、そう遠くない将来、両親の介護で多額の金が入り用になると思うと、昇進しておかなければならない気がしてくる。私が独身で伴侶を得る予定も無いとなると尚更。
どうしようか─煩悶しながら加納の停留所でバスを降りると、冷房でひえきった身体が生温い風で温められた。バスの去っていく方へ目を向ければ、住宅街の向こうにもっさりと盛り上がった明野の小山の上、濃紺の空に送電鉄塔のシルエットが浮かんでいる。
不意に私を呼ぶ声が聞こえた。声の主は反対車線側の歩道にいて、車道を絶えず往来する車の切れ間から、頭にタオルを巻いたツナギ姿の大男が手を振っているのが見える。
「ふうちゃーん」
私は車のエンジン音にかき消されないよう声を張り上げ、停留所から少し戻ったところの交差点へ早足で向かった。タイミングの良いことに私が辿り着いたのと同時に歩道側の信号が青色に点灯し、右折してくる車に気をつけながら横断歩道を渡ると、大男もといふうちゃんが「おかえり」と歩み寄ってきた。
「ふうちゃんも帰りなん?」
「いや、一回帰ったけどオカンに買い物頼まれたけん出てきた」
「家からここまで来る間に店あったやん。何してんの」
「あーたが帰ってくる頃やと思って、迎えに行ってから買い物しようと思ったの」
「あなた普段迎えなんて
苦笑すると背後から「たまにはいいでしょ」とふうちゃんに肩を掴まれ、押されるような形で歩かされた。
ふうちゃんとは長い付き合いである。家が真向かいでかなり昔から家族ぐるみの付き合いをしているそうで、赤ん坊の頃に並べて撮られた写真が沢山残っているし、幼児期にどちらかの家で撮られたらしきツーショットの写真も残っている。
保育園は同じ所に通った。小学校、中学校、高校も同級生の目を気にして絡まなかったものの同じ所に通い、その後は私が市内の経理系の専門学校に進み大手運送業者の事務職へ、ふうちゃんが市内の大学の経済学部から父親の経営する建築会社へ進んだ。別々の道を進みはしたが、2人とも実家暮らしなのでゴミ出しなりお使いなりで外に出るとよく出くわすし、時々2人で都町か中央町まで飲みに出かける。
日常生活にふうちゃんがいるのが当たり前になっているので、この間ふうちゃんと中央町の居酒屋を飲み歩いていた時、福岡から帰省してきた同級生の河野沙也加と出くわし「付き合ってんの?」と聞かれて面食らってしまった。家が近いだけだとと沙也加には伝えたが、その時の彼女のニヤけようを振り返るに、私とふうちゃんの関係についてあらぬことを言いふらされていそうである。
ふうちゃんに肩を押されながら、しばらく県道56号線の小川沿いを歩いていた。小川の向こうに地元のデパートが経営しているスーパーが見えるが、他のスーパーに比べて高価な為かふうちゃんはそのスーパーを素通りしようとしている。スーパーを過ぎてすぐの所に安価を売りにしたドラッグストアがあるのでそちらに寄るつもりなのだろう。
「あの、ふうちゃん」
「なーに」
「実はな」
ふと思い立って、背後のふうちゃんに昇進試験のことを相談してみた。万が一にでも合格すれば県外への転勤の可能性が出てくること。地元を離れたいとは思わないこと。しかし昇進に伴う昇給は将来的に必要だと思っていること。思っていることを包み隠さず全て話した。その間にもよく見慣れた景色─56号線沿いに展開される、平屋か2階建ての建物かばかりで見晴らしが良く、やや遠くに見える10階建て程度のマンションが目立った景色─が私の心に郷愁を芽生えさせ、目の奥を熱くする。
「あぁーそれは大問題ですね」
関心を示しているようなそうでないような、抑揚の無い声が背後から響いた。
「あーた、それはもう俺と結婚すれば万事解決ですよ」
続けて放たれた言葉に思わず声を上げて笑ってしまった。
「いやいやいや何言うてんの。酒でも飲んできたん?」
「いやいやいやマジで。あーたのことをよぉーく知っていて、地元企業の次期社長として経営学まで学んで参りました。これ程の優良物件を捕まえれば、あーたも転勤なんぞせんで済みますぞい。ずっと2人で地元で暮らせますぞい」
「いやいやいや意味分からんて」
背後から捲し立てられる戯言を一蹴したら、私の肩に添えられていた手に力が込められた。痛い痛いと喚くと、背中に温かいものがピタリと密着した。
「ふうちゃん?マジで何?ふうちゃん?」
ふうちゃんが何も言わなくなった。後頭部でスゥーと深く息を吸う音がする。
ふうちゃんがどんな顔をしているのか想像できない。
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