願うだけの恋

ダイレクトめの性表現につき注意









一滴、二滴と、男の鼻先から滴り落ちた汗の雫が、私の鼻先に落ちてきた。

汗は小鼻の隆起を伝って頬へ流れ、耳輪の端に溜まっていく。そうすると耳輪がこそばゆくなって拭き取りたくなるが、左右それぞれの手首が私の頭の横で、大きくて厳つい男の手に押さえつけられて動かせない。

そのうち男がいつも果てた時に発するくぐもったような声が聞こえたかと思うと、男の手が離れて身体の自由を取り戻した。


「慣れてきたんじゃん。そろそろ夜職デビューしようよ」


畳の上に脱ぎ捨てていたタックパンツを拾いながらそう言う男に、私は耳輪の汗を拭きながら「いや…」と聞こえるか聞こえないか程度の小声で返した。

私の下着とブラウスとタイトスカートが男の足下に散らされているが、拾うだけの力が出ない。生まれたままの姿で座り込み、タックパンツを穿いてベルトを締める男の背を見つめるばかり。


「またかよ。アンタが実の姉に背負わされた借金を手っ取り早く返させてやろうっつってんのに、アンタときたら"いや"とか"まだ"とかばっかりで全っ然乗ってこないじゃん」


「すみません…」


「衣食住に回す金削ってまで昼職続けて、毎月チマチマ金返そうとか効率悪いと思わないの?いい加減さぁ…」


男がすぐ目の前にしゃがみ込み、私の顔を覗き込んできた。目蓋の窪んだ出目にしっかりと見つめられ、反射的に目を伏せると、黒無地のタンクトップの襟から見え隠れする胸筋の隆起が目についた。


「身体売っちまえよ。もう誰とヤッてもおんなじだろ。アンタならた〜くさん指名入って借金なんかすぐに返せるよ。俺にテク仕込まれてんだからさぁ。ハハハッ」


「…すみません」


「"すみません"ばっか。まあいいや、また来るから。次こそ腹決めろよ」


「次…いつ来るんですか」


「さあ?明日でも来てやろうか?何ならアンタがウンと言うまで毎日通ってやろうか」


思わず目を見開いた。すると私の反応をどう思ったのか、男は口元を悪辣に歪めて「冗談だよ」と笑った。


「来週辺り来るわ。良い返事ィ、期待してるよ〜」


男は立ち上がり、ブラウスとスカートのそばに放っていた黒地の柄シャツを羽織るとそのまま出ていってしまった。

外の階段を降りる足音だけが聞こえる静かな六畳間に、男がつけていた香水のものであろう白檀の香りが漂っている。手首にはまだ男に掴まれた時の感覚が残っている。男の身体の重みも、吐息の生暖かさも煙草の香りも、無理矢理押し込められた舌がやけに粘ついていたのもまだ覚えている。下腹の中では男に注ぎ込まれた精子が卵子を求め卵管を彷徨っていることだろう。私の身体という身体、五感という五感を男に侵食されたような気分だ。

男は闇金を営むヤクザだ。私とあの男を引き合わせたのは失踪した姉で、市内の電話会社で主任を務める絵に描いたようなバリキャリだったが、ホストに入れ込んで貯金を使い果たしたのち、無断で私を連帯保証人にして多額の借金をし、そのまま行方をくらましたらしい。私の家を突き止めてきた男から六畳間の真ん中に正座させられ、責めるような口ぶりでそう説明されたのは、頬がジンジンとする程空気の冷たい夜でなかったか。

本来、勝手に連帯保証人にさせられた場合は支払いの義務を逃れることができる。当時の私もそれは知っていた。

それにも関わらず男の催促に応じてしまったのは、何も男に脅されて屈したからではない。当時の私は書面など一瞥する程度でしか確認しなかった。私の目はずっと男の顔を見つめていた。目蓋の窪んだ出目と、筋の通った高い鼻と、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた薄い口。今でも詳細に思い出せる程、私の目は男の顔をじっと焼きつけていた。

私は男に一目惚れしていたのだ。


「今日、火曜日なんだけど…」


独り言ちてから、以前に男から寄越されたアフターピルを飲んだ。それから卓袱台の上、お気に入りのマグカップの中に捨てられた煙草の吸い殻を拾い上げ、火を点けて吸ってみた。すると視界が揺れ出し、起きていることができなくなった。

仰向けに横たわり、右へ左へと回る蛍光灯を見つめながら、私の身体は男との逢瀬を反芻する。前戯から男が帰るまで、声も、匂いも、感触も、事細かに反芻する。


どうか、寝て起きたら来週になってますように─


心の内に浮かび上がってきた願い事があまりにも非現実的で、思わず笑いが漏れた。

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