第17話 一人は、寂しい(※主人公、一人称)
「トレジャーナイト?」
それが、店の名前らしい。「マスター」と呼ばれている男性が、一人の少女とやっている店。町の人達から「美味しい」と評される、喫茶店の名前だった。僕は事務の女性からカップを受け取ると、口の中に珈琲を含んで、その味をじっくりと味わった。
「美味しい」
「でしょう? 本当は、煎れ立てを飲ませたかったけどね。丁度、出ていた時だったから」
「いえ、それでも美味しいです! 珈琲は冷えているのに、その風味は落ちていない。口の中に美味しいが広がります!」
僕は皿の上にカップを置いて、女性の顔に目をやった。女性の顔は、今の言葉に輝いている。「きっと優しい人が煎れたんでしょう」
女性も、「うん、うん」とうなずいた。彼女は会社のお茶を飲んで、自分の喉を潤ませた。「私も、行った事はないんだけどね。ここの社長が、店のマスターと仲良しだから。そう言う気分になった時は、珈琲とかケーキを頼むみたい」
僕は、「へぇ」と微笑んだ。僕の町にも、は良いか。アレは、思い出したくない記憶。記憶の底にある、記憶の残骸だ。記憶の残骸は、無理に思い出さなくて良い。僕は自分の記憶に蓋を置いて、残りの珈琲を飲み干した。
「ご馳走様です」
「お粗末様です」
女性は自分と僕のカップを持って、会社の流し台にそれらを移した。僕も彼女の後に続いて、自分の使ったカップを洗った。僕達は非番の暇潰しとして、普段は出来ない談笑を楽しんだ。「へぇ、旅が好きなんだね?」
「はい」
本当は、嘘だけど。自分の素性を隠すには、そう答えるのが「自然」と考えた。「自分の気持ちが向くままに」と。「同じ所にずっと言うのは……その、あまり好きじゃなくて」
女性は、「ふうん」と微笑んだ。僕の話に興味と感心を抱いて、その口元に笑みを浮かべたのである。彼女は楽しげな顔で、僕の顔を見つづけた。
「たまに見るわ、そう言う子。何かの事情で、旅せずにはいられない。彼等は流浪の中に故郷を、自分の安息地を探している。心の不安を和らげるように。貴方も」
「同じ、かも知れない。何処かにずっと居ると……まあ、見たくない物も見えてしまうから。僕が望むか、望まざるかに問わず。嫌な真実が『わっ』と、自分の前に広がってしまう。僕は……我が儘かも知れませんが、綺麗な物を綺麗なままに見ていたいんです」
僕は「子供ですね」と笑って、相手の顔を見た。今の話に微笑んでいる、相手の顔を。「自分でも、呆れる程に」
女性は、その返事に首を振った。僕の本音をそっと、包むように。「そんな事は、ないよ。人間は誰だって、私も綺麗でいたいからね。汚れた物には、触れたくない。社会の中で生き行かなきゃならないから、日々のお金を稼いでいるけど。本当は私も、自由に生きてみたい」
僕はまた、彼女の言葉に暗くなった。「今の話は、嘘」とは言え、それを通すのは苦しい。正直、「今の話を止めたい」としら思った。僕は会話の流れに従って、今の話を粛々と続けた。
「僕もそうです、あらゆる物事に……。僕は出来る事なら、何もない真っ新な所で、一日の風景をぼうっと」
「眺めていたいね。そこには変化が無いし、心を苦しめる現象も無い。一定の物事が、一定のままで続く。何も考えないで生きるのは辛いけど、それ以上に考えすぎるのも辛いわ」
彼女は「ニコッ」と笑って、窓の外に目をやった。窓の外には、通りの光景が広がっている。
「出て行くの?」
「え?」
「『今すぐ』ってわけじゃなく、飛び出したい衝動に駆られたら」
「そう、いえ」
分かりません、そうなる状況になるまでは。日々の暮らしに力を注ぐしかない。「ここが、その……心休める場所だったら。ずっと」
彼女は、「居て」と加えた。僕の手を握るように。真剣な顔で、僕の目を見つづけた。彼女は僕の手から手を放して、テーブルの上に目を落とした。「独りは、寂しい物よ?」
僕は、返事の言葉を飲み込んだ。今の言葉に色んな意図を汲み取ったから。自分の本音に反して、相手の要求を飲んでしまった。僕は皿の上からお菓子を取って、口の中にそれを放り込んだ。「確かに。僕も、自分の家族を失っていますから」
女性は僕の顔を見、その瞳に「そう」と囁いて、テーブルの上にまた目を落とした。自分と僕との空間を噛みしめるように。「私も、独りぼっちになっちゃったから」
僕は彼女の本音に触れて、自身の中に悲哀を見た。孤独の中でしか感じられない、乾いた感じの孤独を。僕は残りのお茶菓子を平らげて、会社の中から出て行った。会社の外は、晴れていた。午後の三時からお茶会を楽しんでいたけれど。それが終わった頃には、町の空に星が見えていた。
僕は会社の前から離れて、町の通りを進んだ。町の通りには様々な店、様々な人が立っていたが、その誰もが多様な顔ぶれで、似たような顔はあっても、同じ顔はない。すべてがすべて、個の自分を表している。個の中にずる賢さを潜めた顔はあるが、それ以外は穏やかな顔を見せていた。
僕はそれらの顔を見る中で、自分の下宿先に帰った。下宿先の玄関では、おかみさんが僕の帰りを待っていた。僕は彼女の気遣いにお礼を言って、彼女の作った夕飯を食べた。野菜のスープにパン、それに葡萄ジュースとハム。追加料金を出している下宿人には、彼女特製のローストブーフが出た。僕は自分の夕食を平らげると、体の汚れを落として、ベッドの上に上がった。「ふう」
疲れた、わけではない。だが、疲れた感じはする。体の芯が疲れて、それに心地よさを感じるような。満足感のある疲れを覚えた。僕は頭の後ろに両手を回し、ベッドの上に右足を立てて、部屋の天井を見上げた。「明日から仕事か」
町のゴミを集める仕事。リアカーの上に麻袋を乗せて、決まられた場所にそれを捨てる仕事。その仕事がまた、明日から始まるのだ。日々の生活費を稼ぐ、仮初めの仕事を。「頑張らなきゃ」
この町から出て行く日まで、日々のお金と未来の費用を稼がなきゃならない。僕は明日の仕事を思って、今日の休みを終えた。「お休み」
そして、おはよう。睡眠の空白から目覚めた朝、朝の光に頭痛を感じる目覚めだった。僕は共用の洗面所で顔を洗い、外出用の服に着替えて、いつもの食堂に向かった。「おはようございます」
周りの人々は、その挨拶に顔を上げた。「おはよう」と返す人は居たが、その表情は無愛想。僕との間に境界線を敷いて、境界線の外側に僕を置いていた。彼等は自分の食事を食べおえると、それぞれに自分の向かう所、勤め先や学校などに行った。
僕も彼等の後に続いて、自分の職場に行った。僕は会社の中に入ると、事務員の女性から順に「おはようございます」と言って、自分のリアカーを引きはじめた。「行ってきます」
事務員の女性は、「行ってらっしゃい」と笑った。会社の社長も、同じように「気を付けてな」と言った。彼等は僕が町の中に消えるまで、僕の背中を見送っていた。「今日も、しっかり働いてこい!」
僕は、「はい」とうなずいた。「はい」とうなずいて、「頑張ります」と返した。僕は会社のリアカーを引いて、自分の担当区域を回り、リアカーの上に麻袋を乗せて、町のゴミを次々と集めた。「頑張れ、頑張れ。明日の為に」
頑張れ、終わらない冒険の為に。日々の生活費を稼げ。僕は額の汗を拭って、町の中を歩きつづけた。「ふうっ」
また、汗を拭った。昼食の時間になったが、休めそうな場所がない。町の通りにも、人が溢れている。市場の前から役所の前まで。あらゆる所に人が溢れていた。僕は通りの隅を少し歩いて、良さそうなベンチの隣にリアカーを停めた。「ここで、休もう」
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