第14話 そいつの名前は?

 陰鬱な朝だった。窓から見える景色は、美しいのに。それが目に入ると、嫌な感覚を覚えてしまった。自分が闇の中に放り込まれた感覚、闇の中で「自分は何か?」と叫ぶ感覚。その不気味な感覚が、精神の中に響いてしまったのである。バザムはそんな感覚に苛立って、ベッドの中から出てしまった。「くっ、うううっ」

 

 あああああっ! イライラする。頭の奥は眠いのに、気持ちの奥が眠くない。精神の中がチクチクする。自分の中から棘が出るように。あらゆる刺激にイライラしてしまった。彼は不機嫌な顔でいつもの場所に行くと、店のマスターやチェミンに「おはよう」と言って、彼等の仕事を手伝いはじめた。「外の仕事は、あるか? あるなら、俺が代わりに」

 

 マスターは、「行ってくれるかい?」と微笑んだ。彼の様子を見て、その心中を察したらしい。チェミンが「私が行きますよ?」と言っても、それに「大丈夫」とうなずいた。彼は少年の顔を見て、その瞳に「よろしく」と微笑んだ。「簡単な用事だから、そんなに難しくはない」

 

 バザムは、「分かった」とうなずいた。彼も彼で、マスターの厚意に気づいているらしい。「後で内容を教えてくれ」


 マスターも、「分かった」と微笑んだ。マスターは店の仕込みを終わらせて、彼に金属製の水筒を持たせた。「その中に入っている珈琲を届けて欲しい」と。彼は地図の写しに印を付けて、バザムに「ここだよ?」と渡した。「『ダストカンパニー』と言う会社。そこの社長が、わたしの知り合いでね? わたしの珈琲を久しぶりに飲みたい……」


 バザムは、「分かった」とうなずいた。珈琲の配達も経験があるが、こう言う場所は初めてである。地図の写しに書かれた印も、いつもより大きめに見えた。彼は配達用の鞄を持って、その場所に珈琲を届けた。「トレジャーナイトです。ご注文の品をお届けに上がりました」


 事務員の女性は、それに「ありがとう」と微笑んだ。「美人」と言うわけではないが、笑顔が可愛いので、美人に思えてしまう。バザムに対する態度や口調も、柔らかい。珈琲を頼んだ方なのに何故か、相手に珈琲を出す程だった。「素人の品だけど。もし良かったら、どうぞ?」


 バザムは遠慮を感じたが、すぐに「ありがとう」と受け取った。店のマスター然り、こう言う厚意は受け取った方が良い。彼は「素人とは思えない珈琲」に驚きながらも、その味を味わって、会社の中を見渡した。「誰も居ないんですね?」


 女性は、「ええ」とうなずいた。「みんな、外に出ているのだ」と。町のゴミは無くならないし、それを拾う人間も足りていない。いつでも何処でも、人手不足が起きている。つい最近に新しい人は入ったが、それでも熟練が抜けた穴は大きかった。女性は寂しげな顔で、コップの水を飲んだ。「


 バザムは、「ふうん」とうなずいた。新人が真面目なのは良いが、それでもきつい事に変わりはない。出前で頼んだ珈琲に手を付けないのも、彼女なりの遠慮に見えた。彼は自分の珈琲を飲み干して、会社の外に出た。


「いつでも、じゃないですが。ご用の時は、呼んでください。情報屋の仕事は、意外と暇なんで」


「ありがとう」


 そう言って、バザムに微笑んだ。彼の厚意を心から喜ぶように。「その時は、お願いします。うちの社員も、貴方の事を伝えておきますね?」


 バザムは、彼女の厚意に頭を下げた。損得勘定もあるが、借りを作るのは嫌いらしい。バザムが「バイト」を申し出れば、相手も「依頼」を望んで来た。バザムは事務員の女性に頭を下げて、通りの道を歩き出した。


 通りの道には、多くの人が溢れていた。自分の用事に足を動かす人、会社の営業に足を急がせる人、自分の呼んだ馬車に足を止める人。皆それぞれに違うが、「町の中に居る」と言う点では、バザムとまったく同じだった。バザムは彼等の事を眺める中で、町の中を進み、そして、公園の中を通った。


 公園の中には、例の子供達が居た。メンバーの中に鬼を決めて、その鬼が鬼でない者を追いかけている。世間一般に知られる鬼ごっこだが、子供の好奇心も相まって、公園の中に歓声を響かせていた。バザムは彼等の方に歩み寄って、その全員に「よお」と話し掛けた。「今日も、元気だな?」


 子供達は、その声に立ち止まった。自分達の親分に呼び止められたような、そんな笑顔を浮かべて。彼の前に走り寄っては、その周りを囲ったのである。彼等はそれぞれに嬉しそうな顔を浮かべると、相手の顔を見て、その表情に「兄ちゃんは、仕事?」と訊いた。「それとも、仕事の帰り?」


 バザムは、「帰りだよ」と返した。情報屋の仕事とは関係ない、「お使いの帰りだ」と言って。残念そうな顔を浮かべては、その全員に「フッ」と笑ったのである。彼は自分の頭を掻いて、その事実に呆れた。「?」


 そう訊かれて、子供達の表情も変わった。「面白い事」とは、「情報屋」としての資料。直接の依頼に繋がる(かも知れない)、間接情報の要求である。資料の隅に注釈を付けるような、そんな感じの要求だった。子供達は互いの顔を見合ったが、やがて「無いよ」と答えた。「いつもと同じ。偉い人が威張って、低い人が震えている。この前も、大人の人が飛び降りた」


 バザムは、「そうか」とうなずいた。子供達の言う通り。その情報は、いつもの社会を映している。欺瞞と搾取が入り混じる、地獄のような社会を。


「相変わらず酷いな?」


「うん」


 子供達も、即答だった。


「本当に酷い」


「それ以外には?」


 子供達はまた、互いの顔を見合った。最近あった事を思い出すように。「お兄ちゃんと遊んだ」


 バザムは、その言葉に眉を寄せた。少女の一人が「お兄ちゃん」と笑う部分に。ある種の直感が働いたのである。彼は眼光の奥に闇を抱いて、少女の目を見つめた。


「そいつは?」


「え?」


「どんな奴だ?」


 子供達はまた、互いの顔を見合った。質問の意図に首を傾げるように。


。あんちゃんよりも、年上の感じ」


「背格好は?」


「痩せている。顔が綺麗。髪は黒で、町のゴミを集めていた。お仕事の途中でお休みしていた時に」


「話し掛けた?」


「うん! お腹が空いていたみたいだから、わたしの飴をあげたよ!」


 バザムは、その情報に表情を変えた。「町のゴミを集めていた」と言う事は、それを専門とする業者、つまりは清掃会社の可能性が高い。仕事と仕事の間に休憩を取った、(時間の視点から言うと)お昼の可能性が高かった。バザムは子供達の日常に安心感を覚えながらも、その情報にだけは何故か引っ掛かってしまった。「なるほど。それで、お兄ちゃん? そいつの名前は、聞いたか?」

 

 子供達は、「うんう」と返した。自分達の名前も名乗っていないし、相手の名前も聞いていない。疲れていそうな人、お腹が空いていそうな人に自分の飴を上げただけだった。彼等はそんな事実に対して、バザムに「どうかしたの?」と訊いた。「名前、訊かなきゃダメだった?」

 

 バザムは、「いいや」と返した。自分の直感に従って、それも彼等に命じたわけでもないので、今の返事にも「大丈夫だ」と返したのだ。そいつの名前を聞いていたら興奮。子供達に対しても、「そいつが悪い奴じゃなくて良かった」とうなずいた。バザムは部下達の頭を撫でて、その全員に「仕事が決まったら、伝える」と言った。「当分は、フリーだ」


 子供達は、それに喜んだ。フリーなのは悲しいが、動けるのは嬉しい。彼の状態に対して、「待っているよ!」と笑った。彼等は少年の背中を見送って、また公園の中を走りはじめた。「よぉし! 次は、俺が鬼だ!」

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