第10話 流浪(※主人公、一人称)
今日の夜は、気持ち良い。昨日は曇っていた空が、今日は雲の存在を消している。空の中にも月を浮かべて、地面の上に明かりを落としていた。僕は夜空の月をしばらく眺めると、丁度目に入った町を眺めて、その外れにゆっくりと降り立った。
町の外れには林が、林の向こうには森が見えたが、林の中から出ると、町の出入り口がすぐに見えて来た。僕は背中の荷物を背負い直して、町の中に入った。
町の中は、賑やかだった。多くの町がそうであるように。資本家に首輪を掛けられている労働者が、日々の不満を吐き出す意味で、夜の店に救いを求めていた。僕は彼等の怒声に眉を潜めて、その間をするりと脱けた。パブで騒ぐ男達を無視し、その声に喜ぶ女達を無視した。僕は嫌な空気に溢れる町の中を進んで、自分の住める下宿屋を探した。
僕の住める下宿屋は、なかなか見つからなかった。安い家賃でも住みやすい場所は、地元の人間にも住みやすい。僕が下宿屋の主人に「もっと払います」と言っても、「仕事もない人に貸せない」と言って、僕の入居はもちろん、その敷金すらも受け取らなかった。僕は彼等の拒否に眉を寄せて、その玄関をじっと睨んだ。「嫌な連中。人間は、やっぱり」
嫌いだ、相手の事情も考えないで。自分の面子や損得ばかりを考える。僕の願いに「すまない」と謝ったのも、「自分の対面を保つ方便」と思った。僕は背中の荷物に意識を向けて、その重さに溜め息をついた。「早く落ち着きたい」
そう言ってまた、溜め息をついた。僕は夜の喧騒に眉を寄せる中で、自分の住家を探しつづけた。自分の住家は、それから三時間後に見つかった。町の中心部から少し離れた場所、入り口の玄関が少し寂れた下宿屋を見つけたのである。下宿屋の近くには商店が並んで、商店の出入り口にも僅かな明かりが灯っていた。僕は下宿屋の女将さんに敷金と前金を渡すと、彼女の案内に従って、部屋の中に荷物を置いた。「広い」
女将さんの感覚では普通らしいが、僕の感覚では充分に広かった。僕は部屋の明かりを付けて、「備え付け」と思われる椅子の上に腰掛けた。「ふう」
女将さんは、それに「クスッ」と笑った。「感じの良い未亡人」と言う感じだが、僕が「疲れた」と呟くと、それに子供のような笑顔を見せた。彼女は僕の疲れを労って、僕に「何か作りましょうか?」と訊いた。「お腹、空いているんでしょう?」
僕は、「はい」とうなずいた。普段なら「要らない」と断るけれど。女将さんの厚意には、有無を言わせぬ迫力があった。僕は「簡単な物で良い」と言って、彼女の厚意に「ありがとうございます」と言った。「ここ数日、何も食べていないので」
女将さんは、「まあ」と驚いた。驚いたが、すぐに「分かったよ」と微笑んだ。彼女は目の前の僕に頭を下げて、部屋の中から出て行った。「ちょっと待っていてね?」
それに「はい」と応えた。僕は椅子の背もたれに寄り掛かって、女将さんが戻って来るのを待った。女将さんは、すぐに戻って来た。本当に簡単な物を作ったようで、それを作るのにも時間は掛からなかったらしい。
テーブルの上に料理を置くと、僕に「食器は、外に出しておいて」と言って、僕の食事を促した。彼女は最後の確認として、僕に下宿での決まりや食事の時間などを話し、それを話し終えると、素敵な笑顔を浮かべて、部屋の中から出て行った。
僕は、その背中を見送った。明日からずっと、ではないな。時々見るだろう、彼女の背中を。彼女の余韻に浸る中で、その気配を感じつづけたのである。僕は部屋の中にある浴室……浴室の中は狭かったが、浴槽の中にお湯を入れて、お湯の中にゆっくりと入った。
お湯の中は、温かかった。細かい温度の調整は出来ないようだが、ボイラーの効きが良いようで、浴槽の前にある蛇口を捻ると、そこから程良いお湯が出て来た。僕は湯船の中に浸かって、浴室の天井を見上げた。「ふうっ」
また、溜め息。それが消えると、明日の事を考えた。「明日から仕事を探さなければならない」と。「この町にずっと居る」とは限らないが、当面の費用を稼ぐ意味でも、町の紹介所に行って、自分がやれそうな仕事を見つけなければならない。それが日雇いでも何でも、自分の食い扶持を稼がなければならなかった。僕は明日からの日々を思って、その重たい瞼を閉じた。
……朝、になったらしい。部屋の窓から差し込む光に朝が感じられた。僕は両目の瞼を開けると、外出用の服に着替えて、一階の食堂に向かった。一階の食堂、正確には食堂の中だが。食堂の中には、下宿の住人達が居た。彼等は少し無気力な顔で、今日の朝食を食べている。僕が彼等の全員に「おはようございます」と言っても、自分の食事を黙々と食べつづけていた。
僕は、その様子に眉を寄せた。「おはよう」の返事はあるが、「よろしく」の返事はない。自分の世界に入って、自分の世界を味わうだけだった。
僕は彼等の事を「変人だ」と思う中で、自分の朝食を食べはじめた。自分の朝食は、美味しかった。下宿の家賃からすると決して、贅沢な食事ではないが。温かいパンに柔らかいパンが加わると、心の奥がホッとするような、そんな感覚に襲われてしまった。僕は今日の朝食を食べ終え、所定の場所に食器類を片づけると、女将さんから紹介所の場所を聞いて、その場所に「さて、行くか」と向かった。「仕事を探しに」
そう言って、町の紹介所を目指した。町の紹介所には、様々な人が居た。僕と同じくらいの少年から、僕よりもずっと年上の男性まで。その体型や雰囲気は違っていたが、それぞれに生活の糧を求めていた。僕は彼等の後ろに並んで、自分の順番を待った。
僕の順番は、すぐに来た。前の人達が、次々と進んだお陰で。時計の針が十時を指した時にはもう、相談員の前に進んでいた。僕は彼女の前に座って、相手に自分の求める仕事を話した。「職種は、特にこだわりません。働ける所で、働きます」
相手は、「分かりました」と困った。「こう言うのが、良い」と言えば、その候補も絞れるだろうけど。「拘らない」と言われれば、それに「探してみます」と返すしかなかった。相手は僕の年齢も踏まえて、僕がやれそうな仕事を集めた。「こう言うが、ありますが?」
僕は、机の上に置かれた求人票を見た。求人票は、いつも通り。僕のやれそうな仕事で、溢れていた。工場の見習い、商店の配送、町の清掃。これらはすべて、若者向けの仕事だった。僕は給料の良い清掃を選んで、目の前の職員に手続きを頼んだ。「明日からでも、働けるんで」
相手は、「分かりました」とうなずいた。肉体労働、特に清掃などは若者の間で不人気だったので、自分から「やります」と言う人間は、相手としてもありがたかったらしい。僕の情報が載った紹介状を書いた時も、目の前の僕に「頑張って下さい」と喜んでいた。相手は僕が椅子の上から立った時も、僕の未来を重んじて、その姿を見送った。「それでは」
僕は職員の作った紹介状を持って、件の清掃業者に向かった。清掃業者は、紹介所の近くにあった。昔の工場が建ち並ぶ場所、その隅に建っていたのである。僕は会社の出入り口に行き、そこの事務員らしき女性に事情を話して、会社の面接試験に挑んだ。「明日から働けるんで。下宿の家賃も、払わなきゃならないし」
相手は二つ返事で、「採用」を決めた。ベテランの清掃員が辞めてしまったので、会社も人手不足に悩んでいたらしい。作業用の服を何着か、仕事で使う地図を渡すと、会社の休憩所に導いて、僕に温かいコーヒーを出した。「これからの頑張りに。君には、会社の未来が掛かっているから」
僕は、「大袈裟だな」と思った。僕一人が頑張った所で、この会社が良くなる筈はない。人手不足の問題が、少し良くなるだけである。僕は老夫婦の未来を案じながらも、真面目な顔で二人の未来に「頑張ります」と微笑んだ。「綺麗にするのは、嫌いじゃないですから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます