第13話 失った分身

 夕食の味に満たされたハデスだったが、彼女に対する疑問、それも大事な疑問を思い出すと、今までの空気を忘れて、彼女の方に意識を戻した。ハデスは皿の上にスプーンを置いて、彼女の目をじっと見返した。「そう言えば、貴女の名前を訊いていなかった」


 彼女は、「確かに」と思った。彼の看病に夢中で、その部分がつい脱けていたらしい。彼の指摘に舌を出して、自分の無配慮を「ごめんなさい」と謝った。彼女は両膝の上に手を置いて、目の前の青年に頭を下げた。「『レイフィー』と言います。平民なので、名字はありませんが。先祖代々この家に住んで……」


 貴方は? 彼女はそう、続けた。話の続きを遮るように。「なんて?」

 ハデスは一つ、咳払いした。質問の内容は、簡単でも。今ここで本名を明かすのは、得策ではない。恩人を騙すのは仕方ないが、「今は、嘘を付くしかない」と思った。ハデスは真剣な顔で、「ルーヴ。帝国の古い言葉で、『純粋』を意味する名前だ」


 レイフィーは、その名前に目を輝かせた。「ルーヴ」と言うのは、女性の間でも人気な名前だったからである。「そう言う名前の人間、特に男性は素敵である」と、一種のまじないになっていた。彼女は彼の名前に運命を感じて、その表情に「クスッ」と笑った。「こう言う事も、あるんですね」


 ハデスは、それに半笑いだった。自分の嘘をここまで信じてくれるなんて。彼女に対する罪悪感よりも、高揚感が勝ってしまった。彼女は(悪い意味で)、変な男に騙される。あるいは、騙された事すら気づかないかも知れない。ハデスはそんな彼女に同情を抱いたが、それ以上の好感を覚えた。「自分の妃に選ぶ」としたら、こう言う人を妃に選びたい。


「嫁にしたい」


「え?」


 レイフィーは、ハデスの顔を見つめた。今の言葉に固まるように。彼の微笑みにも、甘い熱を感じてしまった。彼女は自分の髪を弄って、彼の本音に首を振った。「そ、そんな! 勿体ないですよ、私なんか」


 ハデスは、「そんな事はない」と言い返した。言葉通りの真剣な顔で。「貴女は勿体ない、普通の男には。貴女は、多くの男が憧れる」


 レイフィーは、その続きを遮った。「これ以上は、耐えられない」と。あらゆる遠慮を込めて、彼の本音に「御免なさい」と謝った。彼女は二人分の食器を持って、椅子の上から立ち上がった。「お皿、片づけちゃいます!」


 ハデスは、「ありがとう」と微笑んだ。彼女の背中をじっと見つめるように。彼女の動きに愛を感じたのである。彼はテーブルの上に頬杖を突いて、彼女の背中を「クスクス」と見つづけた。「本当に勿体ない人だ」



 そんな事を呟いた翌日。ハデスはまた、彼女の手料理を食べた。フライパンの上で揚げた目玉焼きに新鮮なサラダを添えて。昨日と同じ黒パンをむしゃむしゃと頬張ったのである。彼は朝の食事を食べ終えると、彼女と一緒に皿を洗って、彼女の農作業を手伝った。「恩人には、恩を返さないと。ただ飯食いは、俺の性分ではない」

 

 レイフィーは、素直に「ありがとう」と微笑んだ。一人で農作業を熟す彼女だが、彼の申し出は嬉しいらしい。作業の基本を教えると、彼に重たい仕事を任せた。彼女はハデスが麦の運搬に汗を流す横で、彼の姿をじっと眺めた。「あの人が」

 

 ずっと居れば良いのに。そんな事を呟いて、自分の火照りに焦った。彼女は額の汗を拭って、ハデスに「少し休みましょう」と叫んだ。「おやつを持ってきます」

 

 ハデスは、その言葉に表情を変えた。慣れない作業に疲れを感じていた所為で、彼女の「おやつ」が「ありがたい」と思ったらしい。彼女が家の中からおやつを持ってくると、切り株の上に腰を下ろして、彼女から今日のおやつを受け取った。「パンの中に蜂蜜を染み込ませた物です」

 

 ハデスは、蜜まみれのパンに生唾を飲んだ。ロボアが教えた水飴も良かったが、このおやつも美味そうである。彼はパンの端を摘まんで、口の中にパンを含んだ。「う、うううん!」


 美味い、美味すぎる。口の中に蜜が広がって、気持ちの奥に満足感を作った。蜜の後にパンも追い掛けて。口の端から漏れた蜜を啜るのも、そのおやつを味わう醍醐味だった。ハデスは至高のおやつを味わって、自分の中に快楽を見た。「幸せだ」


 レイフィーは、その様子に微笑んだ。気難しい美青年のイメージだったが、どうやら思った以上にお茶目らしい。自分の作ったおやつにも、目を輝かせている。正に絵本の中から出て来た王子様だった。


 レイフィーは彼の横顔を眺め、その笑みに胸を躍らせて、岩の上から立ち上がった。「休憩、終わりです。今日は草むしりもあるので、今の仕事もすぐに終わらせましょう」


 ハデスも、「そうだな」と思った。本音では、「もう良いだろう」と思っていたけれど。彼女の腕が動いている以上は、その考えにうなずくしかなかった。ハデスは自分の鍬を動かして、彼女の畑を耕したが……。両手の鍬を振り上げた瞬間、ある事をふと思い出した。


 ……? 彼女の関わりですっかり忘れていたが、王笏の存在がすっかり脱けていたのである。ハデスは畑の土に鍬を刺して、レイフィーの前に歩み寄った。


「レイフィーさん」


「はい?」


「俺の王笏は、何処にありますか?」


 レイフィーは、彼の質問に固まった、質問の意図はもちろん、それが何かも分かっていないらしい。ハデスがそれを不思議がっても、その答えに「え? え?」と戸惑っていた。レイフィーは不安な顔で、ハデスの顔を見返した。「王笏って、何ですか?」


 今度は、ハデスが黙った。ハデスは彼女の肩を掴んで、自分の体を震わせた。「見て、いないのか?」


 見ていない。それが、彼女の答えだった。「そんな物は、初めて聞いた」と。ハデスの期待を真っ向から破ったのである。レイフィーは彼の手を握って、その表情を窺った。「それは、大事な物なんですか?」


 ハデスは一つ、「ああ」とうなずいた。本当に大事な物。自分の命と並ぶ、大事な分身である。分身の消失は、自己の消失だ。ハデスは彼女の肩から手を放して、地面の上に両膝を突いた。「嘘だ」


 嘘だ、嘘だ、嘘だ。「そんなのは、認められない!」


 ハデスは彼女の隣を通って、自分の杖を捜しはじめた。畑の土を掘り、倉庫の扉を開け、通りの向こうに進み。今の彼が考えられる、すべての場所を捜した。レイフィーに「落ち着いて」と言われても、草木の間を掻き分けた。彼は自分の頭を押さえて、地面の上に「うわっあああ!」と叫んだ。「俺の、俺の、俺のぉおおお!」

 

 レイフィーは、彼の傍に歩み寄った。彼の気持ちを、その傷を癒すように。彼女は優しげな手で彼の背中を摩り、そして、地面に座る彼の体を抱き締めた。


「笏は、自分だけでは威張れない人の為にある道具です。貴方は一人で、歩ける。歩けるから、自分の笏を捜せたんでしょう? 自分の体が汗だくになるまで。貴方は……」


「くっ、うううっ」


「貴方は、『笏』に頼らなくても生きて行ける。いや、『生きなきゃならない』と思います。失ってしまった、笏の分まで。貴方は……。そうでなきゃ、杖が杖として浮かばれない。貴方の心を支えて来た」


 ハデスは、彼女の声を遮った。声の思いに耐えられなかったから。彼女の体に抱きついて、その肩に涙を流しつづけた。彼は「すまない、すまない」と謝る中で、自分のこれからを「どうしよう?」と考えつづけた。「俺はこれから、どうすれば良い?」


 レイフィーは、彼の背中を撫でた。そうする事で、彼の気持ちを宥めるように。「考えましょう。貴方が一体、どうするべきか? その涙を落ち着かせて。貴方には、その自由があるんですから」

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