第12話 美しい女性(ひと)

 孤独は、地獄? 馬鹿な! 真の地獄は、秩序の崩壊。人間が人間を忘れる、修羅の世界だ。自分の欲望に従って、他人の人生を壊す世界。決まりの外に自己を見出す世界である。決まりの中に自己を見出さない世界は、犬畜生の住む野生に過ぎない。


 人間は、その野生から解き放たれた種族なのだ。あの女が言う、自由を求める種族ではない。人間は自分の理性に従う事で、その呪いから解き放たれるのである。ハデスはそう感じる中で、自己の意識を取り戻した。「う、うううっ」

 

 そう唸る中で、自分の体を起こした。ハデスは自己の覚醒を覚える中で、自分の周りをゆっくりと見渡した。彼の周りには、見慣れない景色。どうやら家の中らしき景色が、彼の周りに広がっていた。


 ハデスは自分の状況を読み取る意味で、周りの景色を見つめはじめた。木の板で造られた内壁、所々に修繕の跡がある窓、縁の部分が欠けている花瓶。彼の靴が置かれていた床も、至る所に穴が開いていた。

 

 ハデスは、それらの景色に息を飲んだ。景色の内容には驚かなかったが、「その中に自分が居る」と言う事実。「体の汚れが落とされ、ベッドの上に寝かされていた」と言う事実には、言いようのない恐怖を感じてしまった。ハデスは敵への備えとして、護身用の短剣に手を伸ばした。「あの女が、この場所に」


 運んだのか? そう考えた瞬間に声が、「あっ!」と言う女性の声が聞えた。ハデスはその声に驚いて、声の方に振り返った。「うん?」


 あの女じゃ、ない? 背格好はもちろん、その姿もまるで違う。ウエーブの掛かった赤髪が、窓から吹き込む風に靡いていた。女性は丸テーブルの上に水差しを置くと、彼の前に少し歩み寄って、その体調を伺った。「お体の方はもう、大丈夫ですか?」


 ハデスは、返事に困った。(声の感じから)悪人ではないらしいが、それでも疑ってしまう。あんな事が起こった後では、目の前の女性も「本当に人間か?」と思ってしまった。ハデスは自分の短剣に意識を戻しながらも、視線の方は決して動かさなかった。「貴方は、誰だ? 俺はどうして、ここに居る?」


 今度は、女性が固まった。ハデスから投げ掛けられた質問に「え?」と固まってしまったのである。女性は彼の顔をしばらく見たが、やがて「覚えていないんですか?」と話しはじめた。「貴方が来たんですよ、この家に。三日前の夜」


 ハデスは、言葉を失った。三日前に? 俺が、自分で? この家に「来た」と言うのか? ハデスは半信半疑な顔で、相手の顔を見つめたが……。相手は、その反応に苛立った。ハデスの気持ちはどうであれ、その反応はやはり不快だったらしい。


 ハデスの「す、すまない」に対しても、言いようのない不信感を抱いていた。女性は不機嫌な顔で、ハデスの顔から視線を逸らした。ハデスは、その反応に慌てた。彼女の本音がどうであれ、今は話を聞かなければならない。彼は目の前の女性に頭を下げて、話の続きを「教えて欲しい」と頼んだ。「俺の未来が掛かっている」


女性は、彼の要求に応えた。彼の表情をじっと窺う中で。


「三日前の夜。貴方は、この家にやって来た。私がベッドの上で寝ようとしていた時に。貴方は玄関のドアを叩いて、中の私に『開けてくれ!』と叫んだ。『悪い奴等に追われている』と、主人の私に助けを求めたんです」


「そんな、そんな事?」


「が、起こったんです。三日前の夜に。貴方は……。私は貴方の来訪に怯えて、玄関の扉をじっと見ていました。『こんな時間に訪れる人はきっと、普通の人ではない』と。家の台所から包丁を取って、扉の様子をじっと見ていたんです。私は貴方の声を聞く中で……最初は『絶対に開けない』と思っていましたが、貴方が何度も叫ぶので、その話をだんだんと信じはじめた。『この人の話は、本当かも知れない』と、そんな風に思ったんです。私は震える手で、玄関のドアを開けました。ドアの向こうには、泥だけの貴方が立っていた。今にも倒れそうな顔で、私の姿に『ホッ』としていたんです。貴方は目の前の私に頭を下げて、家の中に入りました」


「家の中に入った後は?」


「私の案内に従いました。どうやら疲れ、疲労困憊だったようで。私が『服を脱いで』と頼めば、服を脱いだし。『ベッドの上で休んで下さい』と言えば、その言葉に従いました。私はベッドの上に貴方を寝かせて……ごめんなさい、服がまだ乾いていないので。換えの下着は、履かせましたが」


「構わない、自分の命と比べれば。裸の一つや二つ」


「そう、ですか。それなら、うん……。私は家の仕事、独り暮らしですが。仕事の合間を見て」


「俺の事を看てくれた?」


「はい……」


 ハデスは、その返事に胸を打たれた。返事の中に恐怖はあったが、その厚意自体は素晴らしい。体の痛みに悶えながらも、彼女に対して「ありがとう」と微笑んだ。ハデスは自分の恩人に頭を下げて、ベッドの上に意識を戻した。「貴女のお陰で、助かった」


 女性は、「いえ」と微笑んだ。訳ありの相手には違いないが、今は知らないフリをする。彼が持っていた短剣も、箪笥の奥に隠しておいた。女性は敵意のない笑みで、病人(と思う)の彼に「少し待っていて下さい」と言った。「今、お茶を持って行きます」


 ハデスは、その厚意に「ありがとう」と微笑んだ。彼女が家の奥に消えるまで、その余韻に酔い痴れた。彼はベッドの上に頭を沈めて、今の状況を推し測った。「俺は……」


 狂っている。のかも知れない。自分のやった事すらも忘れて。彼女が自分に嘘を付いている可能性もあったが、その可能性を含めても、今の自分は「おかしい」と思った。ハデスは「とにかく確かめよう」と思って、体の回復に意識を戻した。「真実がどうであれ。今は、体を癒すしかない」


 そう考えた瞬間に声が、あの女性が「お待たせしました」と戻った。彼女はベッドの脇にお茶を置いて、目の前の青年に「お腹が空いたら」と言った。「言って下さい。すぐに何か作ります」


 ハデスは、「ありがとう」と微笑んだ。彼女の温かな厚意に心から「嬉しい」と思ったのである。「彼女は、本当に素敵な人だ」と。まだ僅かしか話していないが、その口調や態度から彼女に対する好感を覚えてしまった。ハデスは彼女の厚意に甘えて、自分の体をまた休ませた。「さて……」


 一応の寝床は、得られたし。彼女が裏切る可能性もあったが、ここは体を休ませる意味で、気持ちの方をまた休ませよう。彼は両目の瞼を閉じて、自分の体を休ませた。彼の体が蘇ったのは、それから数時間後の事だった。ハデスはベッドの上から降りて、女性の所に「おはよう」と歩み寄った。「すっかり良くなった」


 女性も、嬉しそうに笑った。彼女は丁度作っていた夕ご飯に目をやって、ハデスの方に「一緒に食べません?」と訊いた。「独りだけの食事は、寂しいので」


 ハデスは、二つ返事でうなずいた。家族との食事は御免だが、彼女との会話は大歓迎である。それでもし、「彼女に毒を盛られた」としても、その感覚が襲うまで、彼女の事を信じられる自信があった。ハデスは食事の用意を手伝って、彼女と一緒に今夜の夕食を食べはじめた。「頂きます」


 彼女も「頂きます」と言って、今夜の夕食を食べはじめた。彼女は「料理の食材はみんな、家の畑で採れた物です」と言って、ハデスに料理の味を訊いた。「どう、ですか?」


 ハデスは一つ、「美味しい」と答えた。「今まで食べた、どんな料理よりも美味しい」と、そう本音で言ってしまったのである。ハデスは彼女の作った野菜スープを啜り、葡萄酒の中に浸した黒パンを頬張り、焼きの効いたベーコンを囓った。「幸せだ」


 女性は、その感想に赤くなった。「端正な顔立ちの青年に料理を褒められた」と言う、その感覚に思わずときめいてしまったらしい。ハデスが彼女の反応に首を傾げた時も、彼の視線から逃げるようにして、自分の顔を隠してしまった。彼女は頬の熱に悶える中で、目の前の青年に「何でもありません」と言った。「貴方の感想が、嬉しかっただけで」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る