第10話 圧政への抵抗
彼女は一体、何を言っているんだ? 自分が「上から目線で言っている」って、何を根拠に? 皇帝が民衆に対して、自分の臣民に対して「上」を示すのは、ごく自然の事だ。対等の立場から物を言う筈はない。
上下の区別を持って、相手に「上」を表す。自分が相手の上に立って、そこから自分の身分を示す。慣れた相手に砕けた口調を使う事はあるが、それはごく一部の例外で、大抵は目上の相手に「敬意」を示していた。
ハデスはその事実を踏まえて、彼女に社会の基本を語った。そうする事で、彼女の間違いを正すように。「確かに。俺とお前は、同じ人間だ。性別や年齢の違いこそあれ、その中に流れる血はほとんど変わらない。お前と俺が見ている世界も。『世界』とは」
少女は、「うるさい!」と怒鳴った。「お前に世界を語る資格は、ない」と。言葉には出さなかったが、眼光の奥で「それ」を訴えた。少女はフラつく体を動かして、自分を背負っているロボアに「降ろして下さい」と言った。「こんな事に貴方を巻き込みたくない」
ロボアは、彼女の要望に応えた。最初は「何を言っている?」と拒んだが、彼女が何度も頼むので、最後には「分かったよ」とうなずいた。彼は彼女の体を支える形で、ハデスの返事を待った。「ハデス様」
ハデスは、彼の声を無視した。彼が少女の体を支えている事にも、言いようのない怒りを感じた。彼は二人の顔を見比べて、その二つに相反する感情を抱いた。「同じ人間には、思えない。片方は自分の分を弁え、もう片方は……」
そこで一つ、言葉を切った。ハデスが言いたいのは、こう言う事ではない。
「人間には、役割がある。自分の身分に沿った、その役割が。人間はその役割に従って、己の生を全うする。王が自分の国を治めるように、そして、民が『それ』に従うように。『自分の役割を守る』と言うのは、それだけで多くの者に利益を与えるのだ。己の欲を消し、公の利を重んじる事で。我々は己の欲を捨てて、世の為人の為に働かなければならない」
少女は、今の言葉に呆然とした。呆然としたが、やがて「プッ」と笑い出した。彼女は、まるで狂った人形のように「アハハッ」と笑い出した。「傲慢。違う。ただ、痛い男か。その歳になって、大人の言い付けを守る子供。教科書の太文字しか読まない、ただの頭でっかち。アンタは図体だけが大きい、ただの子供よ!」
ハデスは、彼女の首を絞めた。彼女が「ただの子供」と笑った瞬間に彼女の喉を掴んだのである。彼は彼女の体を掲げて、その目を見上げた。「俺が『子供』なら。お前達は、子供以下だ。国の考えも分からず、自分の心をただ垂れ流す。言葉通りの餓鬼畜生だ。そんな人間に生きる資格はない!」
少女は、泣いた。喉の痛みはもちろん、彼の言葉にも。自分の不幸も混ざって、その目から涙を流してしまった。少女はハデスの腕から解き放たれてもなお、彼に対する憎悪を忘れなかった。「私の親は、アンタの所為で死んだ。アンタが下らない罰則を作った所為で。ギロチンの刃に頭を落とされたの」
返して。彼女はそう、訴えた。彼の中に残された、良心に賭けて。「私の親を。あの二人はただ、普通に生きていただけ。国の決まりに従って、自分の仕事をただ全うしただけ。ギロチンの刃で、首を落とされるような人達じゃない。あの人達は」
ハデスは、「屑だ」と言い捨てた。少女の主張を頭からぶった切るように。「平和とは、自分の役目を重んじる事。それが示す態度を守る事だ。お前の言うような、尊厳を守る事ではない。役目の為なら尊厳を、自由すらも捨てる事だ。『自分は、この国に生かされているんだ』と。それが分からない人間に国をあれこれ言う資格はない」
少女は、自分の口を閉じた。「この人には、何を言っても通じない」と、そう内心で諦めてしまったらしい。ロボアが自分の事を呼び止めようとした時にも、彼の厚意に頭を下げて、二人の前から歩き出してしまった。少女は、自分の人生を呪うように「こんな国は、滅んでしまえ!」と叫んだ。「人を人とも思わない国なんか!」
ロボアは、今の言葉に固まった。彼女が叫んだ言葉の本質、その内容に衝撃を受けてしまったからである。「彼女が、この国が苦しんでいる本質は、正しくそこにある」と。形だけの決まりに拘る、「その形式主義こそが原因だ」と思った。
ロボアは今の感覚に従って、自分の教え子を諭そうとしたが……。そんな言葉が、ハデスに通じるわけはない。ロボアがハデスに話し掛けても、その声自体を聞き流されてしまった。ロボアはハデスが苛立つ横で、その怒声をただ聴きつづけた。「ハデス様」
ハデスは、少女の背中を見つめた。フラつきながら遠ざかる、少女の背中を。
「傲慢だ」
「え?」
「自分の不幸を他人の所為にして。あの少女は」
自分の責任から逃げている。そう言いたげなハデスの瞳だった。
「ロボア」
「はい?」
「政治を進めるぞ? あのような思想は、国の秩序を乱す。不遜な人間を生かす価値はない。法案を作るから、後で目を通してくれ」
ロボアは一つ、「はい」とうなずいた。こうなったハデスは、誰にも止められない。彼の言葉に従って、その法案にサインを書くしかなかった。ロボアはハデスが件の法案を作ると、自身の本音を無視して、彼の笑顔に目をやった。「素晴らしい、です」
ハデスも、「そうだろう?」と笑った。ハデスは椅子の背もたれに寄り掛かって、机のランプに視線を移した。「そうだろう? まだ、草案だが。近日中には手直しを加えて、国の正式な法律にする。この草案は国民の品位を上げるだけではなく、国自体の品位も上げる物だ。国民の自由を縛る物ではない」
ロボア。そう言って、自分の臣下に微笑んだ。自分の仕事を喜ぶ、子供のように。「人間は、美しくなければならない。人が人たる尊厳を持って、その内面を律しなければならないんだ。自分の心を律せない人間に生きる価値はない」
ロボアは、「そうですね」とうなずいた。気持ちの奥では、反対の事を考えていても。彼の笑顔に対しては、嘘の笑顔を浮かべるしかなかった。ハデスは悲しい顔で、部屋の中から出て行った。「う、うううっ」
駄目だ、このままでは。国はもちろん、その民も死んでしまう。あの冥王に狩られて、その命を取られてしまう。獅子が獲物を仕留めるように。彼の政治もまた、狩人が獲物を狩る政治だった。
彼は感性まで仕上げた法律を発して、前よりも国の中を縛った。「思想犯」と呼ばれた犯罪者を罰する。犯罪の領域に合わせて、その刑罰も強くなる。「重罪人」と認められた犯罪者は、ハデスが直々に葬った。ハデスは王笏の先から滴る血を見て、それに深い興奮を覚えた。
ロボアは、その光景に震え上がった。「あれは、文字通りの冥王だ」と。「人の死を、命の消失を見て、自分の全能性を感じる冥王だ」と思った。ロボアは罪人達の声を聴きつづける中で、自分の中に葛藤を抱きはじめた。「やはり、あの子を」
殺すしかない、のか? この国を救う為に。自分があの子の命を奪って……。ロボアは自分の頭を掻いて、その葛藤に苦しんだ。「私が間違っていたのか?」
彼に人間の良心を教えた、自分が。自分は善の知識だけを教えて、あの子に本質を教えなかったのかも知れない。ロボアは自分の教育を悔いて、天の神に懺悔を述べた。
彼の前に将軍が現われたのは、それからすぐの事だった。将軍は自分の館に彼を招いて、彼に謀反の話を持ち掛けた。「お気持ちは、変わりましたか?」
ロボアは、「ああ」とうなずいた。気持ちの中にはまだ、迷いがあったけれど。ハデスの暴走を見て、「これは駄目だ」と思った。ロボアは真剣な顔で、将軍の顔を見返した。「兵は、何人使える?」
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