第9話 同じ人間の癖に

 甘い、だけではない。美味しい。口の中に蜜が流れた瞬間、緩い多幸感を覚えてしまった。二人は人々の山から離れて、飴屋の作品に笑みを零した。「素晴らしい! こんなに美味い物は、初めて食べた」


 ロボアは、教え子の反応に喜んだ。さっきの出来事は(恐らく)忘れていないだろうが、その機嫌が直っただけでも嬉しい。普段の調子に戻ってくれる。思想の幅がおかしくなっているが、それでも「先程よりはマシだ」と思ってしまった。ロボアは「演技」と「本心」を混ぜて、自分の水飴を舐めつづけた。「これを食べたら、次は」


 あそこに行っていましょう。そう行って、町の国立美術館を指差した。ロボアは美術館の方を指差したままで、ハデスの方に振り返った。ハデスは、その提案に「行こう」とうなずいた。道化師の悪趣味が効いてか、市の方には興味を失っているらしい。ロボアの機転に対して、文字通りの感謝を述べた。ロボアは、彼の讃辞に頭を下げた。「ここまで来れば、きっと大丈夫だろう」と。「それじゃ」


 ハデスも、「ああ」とうなずいた。ハデスはロボアの隣に並んで、国の美術館に向かった。国の美術館は、静かだった。普段から静かな場所だったが、今日はいつも以上にしんとしている。作品に対する感想はおろか、その感嘆さえも吐かなかった。ハデスは静寂の本質に気付かないままで、美術館の作品を楽しみはじめた。「素晴らしい」


 神話の中に出て来る女神が、現代のタッチで描かれている。芸術家の感性と依頼主の要望が合わさって、紙の中にアートを作っていた。ハデスは作品の世界観を楽しみ、その感性が燃え上がった所で、ロボアの顔に視線を戻した。「正に芸術だな」


 ロボアも、それにうなずいた。ロボアはハデスの隣に立って、彼と同じ感情を抱いた。「この作者に拍手を送りたいですね?」


 ハデスは「ニコッ」と笑って、次の作品を観はじめた。彼の感性に響いた作品が、これ以外にも有ったからである。彼は美術館でのマナーを守る中で、自分の感性に合う作品を観つづけた。「これも良い、これも! あらゆる部分に魂を感じる」


 ロボアは、彼の笑顔にうなずいた。「これがハデスの、青年の本性である」と。普段のハデスを忘れて、彼と一緒に「そう思います」と笑い合った。彼はハデスの後に続いて、美術館の外に出た。


 美術館の外は、暑かった。一番暑い時間は過ぎたが、それでも「暑い」と感じる。ほとんど裸に近い大工の男も、首に掛けた布で顔の汗を拭いていた。ロボアは外気の暑さに耐えかねて、近くの噴水に目をやった。「あそこで少し、涼みませんか?」


 ハデスは、二つ返事でうなずいた。公務の合間に体を鍛えている彼だが、この暑さには少し参るらしい。ロボアの導きに従って、彼の隣に腰を下ろした。彼は花崗岩の端に座って、そこから広場の噴水を眺めた。「父の仕事で、唯一褒める所だ。噴水の流れが美しい」


 ロボアは、返答に窮した。「そうですね」とうなずきたいが、それでは死者への冒涜になる。この国を乱した元凶ではあるが、その礼節だけは「守りたい」と思った。ロボアは死者への敬意を含めた意味で、ハデスの感想に「貴方ならもっと、美しく出来る」と言った。「貴方の力があれば。噴水の水も」


 ハデスは、「プッ」と吹き出した。今までの話は、冗談だったのに。こんな時にまで礼節を守るロボアが、本当の意味で「美しい」と思った。ハデスは花崗岩の端に座ったままで、自分の周りを見渡した。彼の周りには、国の人々が。不満げな顔で自分の仕事に勤しむ人々が、恨めしそうな顔でハデスの顔を睨んでいた。


 ハデスは、それらの顔に感動を覚えた。ロボアが彼の心理を推し測る横で。「素晴らしい。すべての欠片が、合わさっている。平民は、平民の欠片に。貴族は、貴族の欠片に。皆、己の身分を弁えている。自分の命を悟るように。彼等は……」


 我が国の宝だよ。そう言って、ロボアの顔を見た。今の言葉に凍り付いている、ロボアの顔を。「秩序は、理性だ。『人間は、こうあるべきだ』と言う感情。『自分の役目をしっかり果たす』と言う精神だ。その精神が、国の中に調和を作る。人が人たる調和を。調和は……その理屈が分からない人間は、生きるに値しない」


 ロボアは、奥歯を噛み締めた。「その考えは、間違っている」と。怒りの中に沈黙を守ったのである。ロボアは主人の顔を見返して、今の意見に反論を言おうとした。だが、そうしようとした瞬間に一人、町の浮浪者だろうか? 


 ボロボロの服を着た少女が、ロボアの体にぶつかって来た。今の衝撃でよろける、少女。少女は体の不調に悶えているのか、ロボアの声にもしばらく答えられなかった。ロボアは彼女の前にしゃがんで、その体を起こした。「大丈夫か?」


 少女は、ロボアの顔を見た。今にも死にそうな目で、ロボアの瞳に「ああ」と喜んだ。少女は彼の手に捕まって、自分の体を何とか起こした。「有り難う御座います、ロボア……」


 ハデスは、その続きを遮った。ロボアもロボアで心配だったが、ハデスもハデスで彼女の身が心配だったらしい。彼は二人の会話に割り込んで、少女に「何処が悪い?」と訊いた。「立っていられないなら、医者を呼ぶぞ?」


 少女は、その声を無視した。だけではない。彼が自分の額に触れようとした瞬間、その手を思い切り払った。少女は射殺すような目で、ハデスの顔を睨んだ。「触らないで!」


 ハデスは、自分の手を引っ込めた。感謝の声ならまだしも、こんな風に「止めろ」と言われるなんて。それを聞いていたロボアも、思わず「え?」と驚いてしまった。ハデスは少女の顔をしばらく見て、彼女に「それは、おかしいんじゃないか?」と言った。「自分の身を案じてくれた者に。今の態度は」


 少女はまた、「うるさい!」と怒鳴った。「私は、お前と話しているんじゃない」と、そう態度に示したのである。彼女は青年の顔から視線を逸らして、ロボアの顔に目をやった。「何か食べさせて下さい。ひと月前から」


 何も食べていないらしい。「今すぐに死ぬ」と言うわけではないが、苦しそうな表情を見ると、それがどんなに辛い事か、本能の内で分かってしまった。ロボアは少女の体を支えて、自分の背中に彼女を背負った。「待っていなさい。近くの病院に君を」


 連れて行く、つもりだっった。彼女の事を案じて、病院の治療を施すつもり……だが。ロボアはハデスの動きを見て、それに「何をするんです!」と叫んだ。「私の背中から! 彼女は、今すぐに」


 ハデスは、彼の意見を制した。そんなのは彼も分かっていたが、それ以上に許せない物があるらしい。ロボアが自分に食ってかかり、少女が地面の上に倒れても、その現象に表情すら変えなかった。ハデスはロボアの怒声を封じて、少女の顔を見下ろした。


「無視しろ」


「え?」


「この場所に捨てて行け」


 ロボアは、ハデスの顔を見つめた。彼の言動、その意味が分からなかったから。彼に「良いな?」と言われた時も、しばらくは何も言い返せなかった。彼は「それでも」と思い返して、少女の事をまた背負おうとした。「駄目です! こんな所に置いていたら、彼女は」


 ハデスはまた、ロボアの意見を封じた。「そんな物は、聞けない」と言う顔で。「死んで良い。目上の、皇帝への礼節も分からない者は。こんな風に野垂れ死んだ方が良い」


 ロボアは、ハデスの顔を睨んだ。「この男には、大事な物が掛けている」と。自分の身分を忘れて、相手の胸倉を掴んでしまったのである。彼は相手の胸倉から手を放し、地面の上に崩れて、ハデスに少女の救済を願った。


 ……少女が二人の会話に割り込んだのは、ロボアがハデスに頭を下げた時だった。少女はロボアの厚意に首を振って、目の前の青年を睨み付けた。



「え?」


「神でも、悪魔でも。アンタは、うっううう、私と同じ人間。同じ人間の癖に上から目線で言わないで!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る