七月某日、月齢三.二歳。

ヲトブソラ

七月某日、月齢三.二歳。

 子どもの頃から動物園が好きではなかった。厳しい季節、機嫌の悪い天気、園内を移動する歩数、疲れて果てて、味を覚えていないレストランの料理。どれもが不快だった。不快だなんて言葉を知った年齢には動物園に行かなくなっていたけれど、彼女がどうしても行きたいと言ったから、肌を突く陽の下を歩いている。


「想像していたよりくさい…っ」


 ずっと身体が弱く、遠足や家族との遠出にすらあまり行かなかったという春子が、突然、動物園に行きたいと我儘になったのは先々週のこと。夏の動物園は行くべきではないと言ったぼくに「それは動物さんにも同じことが言える?」と意地悪な笑顔をされた。それには全くもって同感だ。ぼくが動物園を不快に思う理由、その一番は“何故、彼らがここにいるのか分からない”から。

 軽く波打つアスファルトに当てられ、火照った身体を冷やそうと木陰に入っても、流れる空気が温い。きみが背負うと大きく見える小さなリュックから二本のペットボトルを出して水分補給をする。ごにょごにょと口を尖らせて文句を言っている彼女を見下ろし、その小さな口元を盗み見ていた。


 大方、暑いとか臭いとか、日陰がないとか………そういう事を呟いているようだ。


「ねえ?」

「何、春子」


「この子達はさ、どうしてここにいるんだろうね」


 ぼくもそう思う。この動物達は本来なら、ぼくらが知らない空の下で生きていて、ぼくらのために彼らが知らない空の下に連れてこられた。檻の中は決して満足のいく広さじゃない。木陰が少ないからと、身を寄せ合って陽を凌ぐ影はコンクリートだ。ぼくに彼らの気持ちや感情を知ることは出来ないけれど、ぼくが彼らの立場だったらどういう感情になるかくらい分かる。


 彼女の体力を気遣いながら少しずつ園内を周り、アルパカに触れ合えるコーナーで餌をやり、コウモリのいる暗い建屋では目を凝らした。そこだけ広く取られた敷地、高い樹がある檻にはコアラが一匹いるらしい。園の財政難で多頭飼育ができる状態ではないと、動物園のスタッフがコアラの生態を説明するメガホンから大きな声で言っている。それじゃあ、故郷に帰すという選択はないのだろうか。夏休みに入った子どもたちの“かわいそう”が虚しく響く。


「コアラ……どこ?」

「んー……あ、樹の真ん中より少し上にいる」

「どこっ、どこ?……わあっ!」


 樹の上ばかりに気を取られていた春子が、後ろ歩きに躓き、その小さな背中を受け止める。危ないなあ、と、注意をする言葉に「はははっ、さーせん」と戯けるきみ。あのコアラは二匹でここに来たらしいけれど、もう一匹は病気で先に発ったらしい。もし、ぼくらが動物の国に“人間のつがい”として連れていかれて、知らない空の下で多くの動物の興味に応えるだけの生活をしたらどうなるだろうか。ぼくらふたりは“人間”のままでいれるのだろうか。


 ゾウさんだっ、と、駆ける春子の手を取ろうとした。何故、手が動いたのかは分からない。また躓くかもしれないからか、動物の国の想像をしていたからか。ゾウの檻の中には年老いたゾウがぽつんと立っていた。長い鼻の先を少しだけ揺らし、ただ佇んでいる。広い、広い、土の見える地にぽつんと独り。ゆっくりと歩き、追いついた春子の背中から見えた彼女の手が、手すりを、きゅっと強く握りしめるのが見えた。


「あの子は、この空をどう見ているのかな……」


 生まれた地の空ではないと知っているだろう。変わりゆく時代の中で、ぼくらよりも長く生き、ここにいるあのゾウにとって、この空はどう見えるのか。ゆっくりと春子に勘づかれないように後退りし、この都会の中にある動物園から……、


 春子と高齢のゾウ、そして、新しく建ったこの国一番の高いビルの三世代をカメラに収めた。


「病室にいるわたしみたいだねえ」


 その笑顔が胸を突き刺して、酷く痛むから動物園は不快だ。自分の生きたい場所は自分で選ぶものだろ。ここにいる限りどこへも行けやしない、毎日、これは夢だと思い過ごすしか、ぼくには出来ない。


「ねえっ、このゾウさんも春子って名前だって!」


 そう春子は春子を指して、笑った。

 わたしと同じだね、と。


 幾度か同じ季節が巡り、七月某日の今日も朝から酷く暑い。窓を開けて眠ることなんて出来ず、エアコンで部屋を冷やさないと熱中症になってしまう。盛んに“電力が逼迫しているので、エアコン等の使用を控えましょう”なんて言っているが、それは生命を落とせということだろうか。災害現場が報じられる度に“地球環境が大きく変動した結果だ”と見聞きするが、何のせいでこうなったんだろうと突き詰めるとぼくらがいる。ぼくらはここの住人でしかないんだ。


 悪態ばかり吐く毎日。ベランダのカーテンを開けて、遠くに霞む国内第二位の高さを誇るビルを見てカーテンを閉めた。


 七月某日、新月を過ぎた日。天まで高く伸びる構造物の下で彼女が死んだことを知る。


 その名前は春子と言った。


おわり。



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七月某日、月齢三.二歳。 ヲトブソラ @sola_wotv

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