Act.2〈Ash〉

 スマホのアラームが鳴って目が覚めた。アラームを止めてベッドから這い出ると、肌寒さを感じる。それでも布団に未練がないのは、酷く静かだからだろう。目が覚めてから酷く気になって、すぐに洗面所に向かい蛇口をひねって一息つく。ほんの数秒で、落ち着けた。顔を洗って、歯を磨く。そうしていればより落ち着くことができた。昨日も同じことをしていたなと、鏡に映る自分を見て思う。

 部屋に戻って、先日、ここに来る前に買っておいたパンを食べて、学校へ行く支度を始める。白地に黒の縁取りが施されたブレザー。黒地のズボン。昨日の内に持ち物の準備を済ませて置いたリュック。準備はすぐに整った。時計を見て、ベッドに腰掛ける。

 今日は一ノ瀬と一緒に学校へ行く約束がある。その時刻まで後たった十分。部屋の中にいたくなくて、外へ出た。風が強く、吹き抜ける音がうるさかった。

 隣のドアが開いたのは多分、二、三分も経っていないと思う。凄く長い時間だったように感じたが。


「おはよう一ノ瀬」

「深樹おはよ。外で待ってたの?」

「ああ、いや。さっき外に出たばっかだと思う」

「思うって……うわ手冷た! てかめっちゃゴツゴツしてるねー」

「まあ、野球やってれば豆だらけになるからね」

「努力の証ってやつ?」

「そうかも」

「そうなんだ」


 一ノ瀬は俺の手のひらをじっと見つめて、かと思えば首を傾げて唸り始め、思い出した! と言わんばかり顔を上げた。


「そう言えば昨日ね、友達に深樹のこと話したの。転校生どんな子だろうって話でね。そしたら深樹に会いたいって言ってたから紹介していい?」

「うん。大丈夫」


 アスファルト舗装された起伏のない山道を、歩きながら、俺に会いたがっている人物について軽く教えてもらった。野球部で、なのに金髪で、気さくで、俺と一緒でどれだけでもお話に付き合ってくれる人らしい。

 十五分程で校門に辿り着き、そのままグラウンドへ。グラウンドは防球フェンスをいくつも並べて半分に区切っており、野球部とサッカー部が練習をしている。

 俺たちは端を通って、野球部のもとへ向かった。野球部の連中に近づくと、丁度終わりの挨拶をして、今から着替えるといった状況だった。一ノ瀬はその中を突っ切って、くだんの人物の元へ。俺もそれについて行く。

 金髪の男はこちらに気がつくと、駆け足で駆け寄ってくる。ブランドの髪を後ろで一括りにしてる女の子も手を振ってこちらに来ている。彼女も一ノ瀬の友達なのだろう。


「マジで豊篠とよしのの三笠じゃん!」


 金髪の男に両肩をがっちりと掴まれ、第一声がそれだった。


「え、本物じゃん、野球部入るよな! 公式戦一勝できるかもしれないな!これで外野のデコボコの守備が……」


 聞こえてるぞと、脇を抜けて行く野球部員が彼の頭を軽く叩いて部室に入って行くが気にせず言葉を続けた。こちらが一言を挟む余地なく。

 その状況は、俺が助けを求めるより早く崩れ去った。一ノ瀬が俺の腕を抱えて引っ張り、彼は後ろからにゅっと出てきた女の子がシャツを掴んで引っ張った。


「ちょっと丸やめたげて! 深樹困ってんじゃん!」

「……あー、俺またやった?」

「やった!」


 申し訳なさそうにしょぼくれる彼に、一ノ瀬は少し怒っているような、そんな気がした。


「丸は有名人に会うといっつもこうなってまうんよな」


 依然シャツを掴んだままの彼女は細い目を更に細くさせて「ごめんな」と言った。


「大丈夫。慣れ……てはないけど、まあ大丈夫。勢いにびっくりしただけだから」


 一ノ瀬の方に目配せをして大丈夫であることを言葉以外でも伝えようとした。一ノ瀬は少しの間俺を見て、腕を離した。


「そう? ほな良かったわ。うち野球部でマネしてる、今村詩音(いまむらしおん)。よろー」

「俺、キャプテンの渚正丸(なぎさしょうまる)! 野球部へようこそ!」


 入部することが既に確定している。そんな状況で彼らの気を落とすようなことを言うのは心苦しいが。


「あー、えっと。俺、野球やめたんだよね。だから、ごめん」


 深刻な雰囲気も、ふざけた雰囲気もない、ちょっと申し訳なさげに笑って言った。最初こそ言葉を失った様子だったが、理解して、驚愕の表情を浮かべた。


「ええ!? まじか、怪我したらしいってのは噂に聞いてたけど、そんなに酷いのか? 別に競技者としてじゃなくてもマネとかコーチとしてでもいいからさ」


 わたわたとしながら、渚は不安げに瞳を揺らす。今村も何度も首を縦に振った。傍らの野球部員も、多少のざわつきを見せる。流石にそれくらいなら力になれるかもと思い、口を開きかけて、やめた。野球への情熱は、これっぽっちも残っちゃいなかった。


「悪い」

「そっか。まあしゃあなしよ。無理強いできねえしな。でも一応言っとくとうちの学校、部活強制みたいなもんだから、なんか言われたら取りあえず名前だけでも置きな」

「……ありがとう」


 悪いことをしてしまったと思うが、謝罪はやめておいた。渚は「いいってことよ」と爽やかに言ってくれた。


「一周回って美術部くる? 歓迎するよ?」


 一ノ瀬がおちゃらけた口調でそう言った。それもいいかもしれないなと呟くと、爽やかでかっこいい渚が一瞬で崩れ、掛け持ちも推奨されていることを丁寧に説明された。

 渚が着替えている間、今村から質問攻めを喰らい、戻ってきた渚からも質問攻めを喰らいながら校舎の中へ入った。ここで俺は職員室に、一ノ瀬たちは教室に行くため一旦別れた。職員室の扉を開けて、一番近くの教員に、佐々部先生がいらっしゃるか尋ねると、忙しそうな様子ながら「そちらにいらっしゃいます」と教えてくれた。一礼して、佐々部先生のもとに向かう。


「おはようございます、佐々部先生」

「あら三笠君。おはよう。もう約束の時間かしら」

「いえ、少し早くきました。一ノ瀬と一緒にきたんです」

「……そう」


 安堵した様子を見せた。俺は眉一つ動かさない努力をしつつ、話を進めようと「どうしてたらいいですか」と問う。佐々部先生は少し考えるようなしぐさをしたのち、応接間で待つよう言われた。時間になれば呼ぶとのこと。

 俺は職員室に隣接している応接間に入って、ちょっとお高そうなソファに一直線に向かって腰掛け、目を瞑った。職員室の慌ただしさが微かに耳に届く。それが酷く心地よく聞こえるもので、いつの間にか眠ってしまった。

 それに気づいたのは、佐々部先生に揺り起こされた瞬間だった。


「三笠君、行きましょうか」


 俺は頷いて、歩いて行く佐々部先生を追った。その道中、廊下の窓から見える空は曇っており、俺はそれに今気が付いた。


「三笠君は生徒手帳に目を通しましたか?」

「一応は。部活強制みたいなもんって聞いたんですけど、ほんとですか?」


 一つ、間が空いた。


「そう、ね。正確には強く推奨、とはなっているわ。今はまだそういう気分じゃないかもしれないけれど」

「……今はまだ、入らなくていいですかね」

「え、ええ。仕方ないとは、思うわ」


 しん……と。体感温度が下がる。佐々部先生は何かを考えている様子だ。言葉を探しているのだろうか。自分自身にかける言葉を俺は持ち合わせていない。他人なら尚更……。

 だからってこっちから何か話すことがあるわけでもなくて、結局しんとしたままで、寒いままで。教室前に着いたのはものの数分なのに、何十分も歩いた気分だ。

 教室内は話し声がごちゃごちゃと混ざって聞こえた。佐々部先生が扉を開けると、徐々に静まり返ってゆく。佐々部先生に促されるがまま、教室に入って、教卓に立つと、一ノ瀬と今村の姿をすぐに見つけた。二人共、小さく手を振ってくれている。お陰で幾らか緊張がほぐれた気がする。


「三笠深樹です。よろしくお願いします」


月並みの言葉、若干高めに出した声音。一ノ瀬と今村を起点に、疎らな拍手が起こった。

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