Act.1〈Turning point2〉

三笠みかさ君が住む場所なんだけどね、さっき通り過ぎた学生寮はあまり部屋数が多くなくていっぱいだから、昔警備の方が使ってた部屋を使ってもらうね」


 スーツ姿で小柄の佐々部ささべ真紀まき先生は、茶色がかった髪を揺らしながら俺の前を歩き、淡々と話す。先程見たでかい建物は、学生寮だったのかと、後ろをちらと見た。


「あと数年で取り壊す予定があるくらいには古いけど、その代わり学生寮より間取りは広いし、家具の質もあまり変わりないから」


 何故俺は部屋の詳細なんか聞かされているのか。ちょっぴりだが、不動産屋と話をしている気分になる。なんて考えていると、佐々部先生は立ち止まった。


「ここです」


 佐々部先生が指差す方を見た。形容するとしたら、ボロアパートだ。数年で取り壊されるのも納得の外見である。二階建てで各階に三部屋あるが、誰かが住んでいるようには決して思えない。


「一階右端の部屋が三笠君の部屋ね。これ鍵です。荷物は今日の朝に届いて、中に置いてあるわ。何かあったらこの番号に連絡して」

「わかりました。ありがとうございます」


 佐々部先生から鍵と名刺を受け取り、一礼して部屋に入ろうとしたその時、隣の部屋のドアがゆっくりと開いた。今は平日の正午はとっくに過ぎた頃のはずだが。

 毛先を青く染めた黒いボブヘアーの女の子が頭だけ覗かせた。瞳は深い青、顔の造形はくっきりとして端正だが、日本人らしさを強く感じる。

 その彼女は、俺と佐々部先生がいることを目視すると、ドアを開けて出てきた。黒いオーバーサイズのトップスとロングスカートのセットアップで、中に着ている白い服の裾がのぞいている。


「この人? あたしらのクラスに来る転校生」


 佐々部先生が頷くと、彼女は僕の方に歩み寄って、こちらに手を差し出した。薔薇の香水が、強く鼻腔を擽る。


一ノ瀬いちのせ凛羽りうです。お隣同士で同クラだし、助け合って生きていこうね」


 はきはきとした物言いで、フランクな感じがいい印象に映る。俺は小さく笑って、差し伸べられた手を取った。


「三笠深樹みきです。こちらこそよろしく」


 挨拶が済んで、俺と一ノ瀬はほぼ同時に手を離した。その様子を見ていた佐々部先生は、安堵した表情をしていた。


「じゃあ三笠君、明後日は登校したら職員室に来て下さい。一ノ瀬さんは出席代わりの宿題はやりましたか?」

「ばっちしです!」

「ならゆっくり休むんですよ?」


 そう言って、佐々部先生は戻っていった。俺と一ノ瀬はその姿が見えなくなるまで見送り、俺は「それじゃあ」と軽く会釈して玄関へ。バタンという音は鳴らず、代わりに薔薇の香りがした。振り返ると一ノ瀬が上半身を割り込ませていた。


「ねえ、少しお茶しない? 親睦会的なさ」

「……俺が出せるものは何もないけど」

「なら任せて。貸しひとつでね!」


 去り際に「待ってて」と言って、自室へと戻っていった。俺は一足先に部屋でくつろぐことにした。ベッドに腰掛けて部屋を見回す。

 家具は確かに古いが、柔和な色味で統一されていて味がある。家電も一世代か二世代、なんならもっと古い型だが、外見とのギャップでかなり良い部屋にしか見えない。


「おまたせ! 勝手に色々開けるよー」


 トートバッグを肩にかけた一ノ瀬は、部屋に入ってきてすぐクローゼットを開けた。その中の小さなタンスの一番下から、座布団を二枚取り出して俺の目の前と自身が座る場所に敷く。そのあとテーブルにペットボトルの天然水、三種類程の紅茶スティックの束、マグカップが二つ、市販のクッキーと、バッグの中身が次々と並べられ、台所から電気ケトルを持ってきた。

 一言感謝を述べて座布団に座り直すと、ケトルのプラグを渡され、そこに差してと指差された。俺が指示に従っている間に、一ノ瀬は水を入れ、スイッチを入れた。


「……この時期に転入ってさ」


 一ノ瀬がそこで言葉を止めて、聞いて良いか探るように俺の顔をじっと見つめる。


「平日昼間に学校行ってないのってさ……って聞いてもいい?」

「よし、やめにしようじゃないか」


 案の定の即答に、俺は思わず笑ってしまう。一方は十月半ばの転入、もう一方は学校を休んでいる。訳アリであろうことはすぐにわかる。佐々部先生の反応や発言で常習的なものではないようではあった。

 初めはラインを探るような会話が展開されたが、その状態はものの数分で終わった。最初に一度やめにした二つ以外、触れられたくないものがなかったと、この時点で俺は薄らと思っていたし、一ノ瀬も同じことを思っているように見えた。


「へー! 野球やってたんだ。動画とかないの?」

「あー、荷物の中かな」

「あ、調べたら出てきたよ」

「お、ほんと?」


 一ノ瀬がスマホの画面を見せてきたので、ちらと見ると「二〇一六年夏・好プレイ集」というタイトルがあり、そこのコメント欄に俺の名前と三:四〇という時間指定リンクがコメントされていた。

 一ノ瀬がリンクをタップすると、俺がダイビングキャッチした様子と、バックホームでアウトを取った様子が流れ、別の人の紹介に移っていった。まあ外野の守備の見せ場は少ない。バッティングも、長打が打てるタイプではなかった。そんな短い活躍場面を、一ノ瀬は目を輝かせて見ていた。


「飛び込みスゴ! めちゃカッコイイ!」

「……なんかお母さんみたい」

「え、今のどこにバブみ感じた?」


 何とも語彙のない褒め方だなと懐かしく思っていると、そのままの表情でいきなりこちらを向くものだから変なことを口走ってしまった。


「え? ああ! 違う、忘れて……」

「踏み込めばもーちょっといじれそうだけど、初対面ボーナスで見逃したげる!」

「そりゃどうも……試合の録画探しとくよ」


 その言葉で一ノ瀬は更に目を輝かせた。聞かなかったことにもしてくれるらしい。助かった。


「一ノ瀬は美術部? どんな絵描いてるの?」

「んー、調べたら出てくるよ」


 二杯目の紅茶を淹れながら、何気ない声音でそう言った。何かしらの受賞歴があるんだろう。適当に名前だけ検索にかけて、口が、目が、かっぴらいたままとなる。


「なんだ、これ」


『天才高校生画家誕生 稲美画伯「色の魔術師」』これは二〇一六年の記事。次いで『中学生が描いた絵、高額落札』これは二〇一四年。大きく目を引いたのはこの二つだけ。稲美画伯というのは美術の教科書で同じ名前を見た気がする。そんな有名人に一目置かれているということか? 絵自体はかなり独創的と言うか、不規則で無秩序な色使いに見えるのに、絵ごとに喜怒哀楽、どんな表情をしているかわかるというか。


「凄いな……」


 それしか言えなかった。


「ありがと。あたしの部屋、半分アトリエだし、新作描けたら一番に見せてあげるね」

「それは楽しみだ」


 芸術なんてこれっぽっちも興味はない。それでも見てみたいなと、思っていた。

 それからも会話は途切れることを知らない。永遠に続くんじゃないかと思ったほど。中身のない話を、ずっと。やがて紅茶スティックは全て消費し、クッキーもかなり早い段階でなくなっていた。


「深樹って相当のお話好きね」


 ふと会話が途切れた瞬間……いや、会話の主導権は一ノ瀬がずっと握っていた。会話がひと段落したタイミングで、満足気な顔をしてそう言った。


「一ノ瀬こそ」

「あたしは話すことと仲良しになることが趣味と言っても過言じゃないから」

「最高の趣味だな」


 思ったことを思ったままに告げると「でしょ!」と言って一ノ瀬は満面の笑みを咲かせた。俺も影響されて、笑顔を咲かせることができている。


「グイグイ行き過ぎて、結果一歩引かれることが多いけど、深樹みたいに付き合ってくれる人と出会えると、ちょー嬉しいんだよね」


 心の底から言っていると、声音の上がり方や表情でとても良く分かった。


「そーだ、このまま晩ご飯も一緒どう? まだ喋り足りない!」

「いいけど、軽く五時間超えてるが」

「それでもあたしは喋るよ。喋りまくれるうちに喋るよ。だって、喋れるもん」


 意思で満ちた眼差しを向けられる。彼女でなければ、目を合わせ続けることができなかっただろうと思うと同時に、小石を蹴とばしたみたいな、引っ掛かりにも満たない違和感を見た気がした。

 ぐぅと間抜けな音が響いた。一拍おいて、互いに吹き出す。


「めっちゃお腹鳴ったんだけど。深樹は晩ご飯何食べるの?」

「今日はカップ麵で済ませる。一ノ瀬は?」

「普段は向こうの寮の食堂に食べに行くんだけど行くのだるいし、冷食かな」


「取ってくるね」とだけ言って、俺の部屋を飛び出していった。その間にお湯を沸かし、粉末スープを入れた。ケトルの合図と供に一ノ瀬は戻ってきて、互いの晩ご飯の用意が済むまでの僅かな時間すら惜しむように話して、食べている時も食べた後も変わらず話した。


「それじゃまた、一緒ご飯食べよ」

「うん、そうしよう」

「うん、おやすみ!」

「おやすみ」


 一ノ瀬が出ていく。扉が閉まる。瞬間、異世界にでも飛ばされたと錯覚した。それ程に、ここが寒い場所だと実感した。これから先、何もかもが冷え込んでゆくのだろう。

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