第40話 波乱の幕開け
「おはよ~、片岡!」
9月1日、金曜日の朝。
今日から9月。新学期が始まった今日も朝から蒸し暑く、夏休みだった昨日までと何も変わらない。夏休み中もほぼ毎日学校に通っていた誠也たちにとって、今日から新学期が始まるという実感はまるで湧かなかった。
昨日までと違う点は、登校時間が早くなったこと。おかげで乗換駅から先の電車はほぼ確実に座れるようになった。
「今日の選挙、楽しみだね~」
誠也の左側に座るえり子は、今日もトレードマークのツインテールを揺らしながらご機嫌だ。
「まぁ、部長は恐らく
村上光陽高校吹奏楽部の3年生は、9月の文化祭で引退となる。それに先立って毎年、2学期の始業式の日あたりで新しい部長を決める選挙が行われる。部長は2年生の中から1名選出されるが、選挙権は1・2年生のみに与えられ、3年生に投票権はない。その他、3年生は現部長・副部長が投開票作業を仕切る他は選挙には一切関与しない。これは村上光陽高校吹奏楽部の伝統らしい。
選挙の初めに立候補者の受付が行われる。ここで立候補者が1名の場合は信任投票、2名以上の場合は選挙となる。もし立候補者がいない場合は、全2年生の中から選挙で選出する。一番得票数の多いものが部長、2位、3位の者が副部長となるのがルールだ。
今年の場合、クラリネットパートの赤坂莉緒先輩が部長の最有力候補とされているが、莉緒先輩一強の状態で、副部長となる候補者の予想がつかない状況であある。
「まぁ、誰が副部長になっても、莉緒先輩ならうまくやってくれるよね」
そう言ってえり子は微笑んだ。
今日は始業式のみで授業はない。体育館での始業式の後、ホームルームを経て午前中で解散となった。
そして午後1時、部活が始まる。
「それでは、この後は早速部長選挙に移ります。3年生は先にパート練習を開始してください」
現部長である友梨先輩の指示で3年生が退出し、音楽室には部長・副部長の他は1・2年生のみが残った。
「まず初めに、投票用紙を配ります。1枚ずつ受け取ってください」
友梨先輩がそうアナウンスすると、副部長の
不正が無いよう、まるで試験会場で入試問題を配るように投票用紙が一人ずつ配られていく。皆、静粛に席に着いており、私語をする者はいない。
投票用紙が全員に行き渡ったのを確認すると、友梨先輩が再び会うアナウンスする。
「それでは、これより部長選挙をはじめます。まずは立候補者を募ります。部長に立候補する人はいませんか?」
音楽室後方の席に座っていた誠也は前方を見渡すが、挙手する者はいなかった。
「誰も好き好んで部長なんてやらねーよ」
隣に座っていたまりん先輩が小声で毒突く。誠也がまりん先輩の方を見ると、先輩はフンと鼻を鳴らして少し笑った。
「立候補の受付を締め切ります。立候補者がいなかったので、これより投票に移ります。投票用紙に2年生の部員から1名を選んで氏名を記入してください。記入したら、前の投票箱に投票してください」
友梨先輩の指示で、皆一斉に投票用紙へ記入を始める。早速記入をした者から、音楽室前方に置かれた投票箱へ投票を始めた。投票箱の前には立会人として和哉先輩が座っている。
誠也も記入を済ませ、投票箱へ向かった。
全員が席に着くと、友梨先輩が再び前に出る。
「まだ投票を終えてない人はいませんか?」
友梨先輩の声掛けに誰も応じない。
「それでは、投票を締め切り、開票に移ります」
投票が終わると早速開票作業が始まる。和哉先輩が投票箱から投票用紙を1枚ずつ取り出し、折りたたまれている用紙を開いて友梨先輩に渡す。
「赤坂莉緒さん」
友梨先輩が投票用紙の名前を読み上げると、香苗先輩がホワイトボードに氏名と得票数を書いていく。
「青山
誠也の隣に座るまりん先輩は、突然友梨先輩に名前を読み上げられ、驚きのあまり目を見開いた。誠也がまりん先輩を見ると、先輩は露骨に顔をしかめる。
「おい、誰だよ、私に入れた奴」
「まぁまぁ、まりん先輩人気ですから」
誠也は苦笑しながら、そう言ってなだめる。
しかし、その後もまりん先輩の名前がしばしば読み上げられ、次第にまりん先輩の表情がこわばっていった。
莉緒先輩の圧勝と囁かれていた選挙前の下馬評とは裏腹に、莉緒先輩とまりん先輩の接戦で開票が進み、徐々に音楽室がざわついてきた。
「以上で開票は終了です」
友梨先輩がそう告げると、和哉先輩が投票箱が空になったことを示すように箱を持ち上げ、中が見えるように部員たちに見せた。
「ご覧のとおり、赤坂莉緒さん20票、青山 凛さん26票、竹内隼人くん8票、前川杏奈さん5票でした」
友梨先輩が投票結果を読み上げる中、まりん先輩はホワイトボードを怒りを湛えた瞳で睨みつけ、細かく震えていた。
「投票の結果、青山 凛さんが部長に選ばれました。青山さん、前へどうぞ」
友梨先輩が選挙結果を告げると、部員からは拍手が起こった。音楽室の後方に座っていたまりん先輩は、後ろ側のドアから廊下に出た。
部員たちは皆、廊下を経由して前のドアから入ってくると思っていたが、まりん先輩が姿を見せることは無かった。そのまま出て行ってしまったことを察すると、音楽室は俄かにざわついた。
さすがの友梨先輩も対応に困っていた様子だったが、不意に右前方から声が上がった。
「友梨先輩!」
そう言って挙手したのは、オーボエパート2年の川島
「はい、川島さん」
友梨先輩が指名すると、音楽室中の視線が川島先輩に集まる。
「選挙で部長に選ばれても、本人が辞退することはあり得るのですか?」
確かに辞退の可否については事前の説明含まれていなかった。今度は視線が友梨先輩に集まる。
「それは正直想定していなかったので、前例があるのかも含め、ヤマセンに確認します。他に質問や意見のある人はいますか?」
友梨先輩の呼びかけに答える者はいなかった。
「それでは、青山さんの意思も確認できないので、一旦選挙結果は保留にします。この後は予定通りパート練習に移ってください」
部長の指示で、この場は解散になった。音楽室内は動揺する1・2年生で暫しざわついた。しかし、友梨先輩からまずは文化祭に向けて練習に集中するようにと促され、部員たちはそれぞれのパート練習会場に移動を開始した。
誠也が音楽室を出る際えり子と目が合ったが、その場では少し首をすくめるに留め、無言でパート練習会場に移動した。
♪ ♪ ♪
「……っていう訳なんですよ」
トランペットパートでは、拓也先輩が代表して選挙の顛末を3年生に伝えた。
「どうする、
深いため息とともに
「いやぁ、どうしたもんかねぇ」
直樹先輩は腕組みをして苦悶の表情を浮かべる。直樹先輩にとってまりん先輩は、中学校時代からの後輩であり、付き合いも長い。まりん先輩をよく知っているからこそ、心配する気持ちも人一倍強いのだろう。
「誰か、まりんに連絡したの?」
「とりあえず、さっき解散してからすぐにまりんにLINEしたんですけど、既読にならないです」
「まぁ、無理もないか」
そう言って咲良先輩も俯く。
廊下から他のパートの練習の音が聞こえてきても、トランペットパートだけはなかなかパート練習を始める雰囲気にはならなかった。
「やっぱり、良くない噂は本当だったのかしら?」
彩夏先輩がためらいがちに口を開くと、それに対し、拓也先輩が申し訳なさそうに答える。
「残念ながら、そう言う動きがあったのは事実の様です」
♪ ♪ ♪
村上光陽高校吹奏楽部は昨年の秋より、友梨先輩が部長となり運営してきた。友梨先輩は中学校時代、吹奏楽コンクールの全国大会に出場し金賞受賞の経験がある。将来はプロのクラリネット奏者を目指しており、楽器の実力は申し分ない。そんな彼女は同級生や後輩からの信頼も厚く、実際に今年の夏は数年ぶりの県本選大会進出へと導いた。一方、足元のクラリネットパートでは、友梨のもつ凛とした独特の雰囲気から、緊張感のあるパート運営が続いていた。これに対し、表立って反発する者はもちろんいなかったが、2年の中村
コンクールに向けて練習が次第にハードになって来ると、部員間のモチベーションの差はさらに広がった。それは演奏にも表れるようになり、ついにはヤマセンによる合奏中止という事態にまで発展した。友梨先輩は、全体にはモチベーションの向上を促す働きかけをしたものの、個々の部員に対しては自主性を尊重する方針を貫いた。しかし、莉緒先輩は、美羽先輩らやる気のない2年生に対し、嫌悪感を持ち、厳しく接した。誠也は、実際に莉緒先輩が美羽先輩らを叱責している場面に危うく遭遇しかけたが、えり子の機転で回避したこともあった。
莉緒先輩は明るく前向きな性格で、人望も厚い。クラリネットも友梨先輩に次ぐ腕前である。そんな莉緒先輩を友梨先輩はこれまで次期部長候補としてとらえていた。莉緒先輩自身もそのことを自覚し、期待に沿えるよう、友梨先輩から様々なことを学んでいた。
しかし、コンクール前に莉緒先輩から叱責を受けた美羽先輩とパーカッションの三浦
♪ ♪ ♪
拓也先輩がすべてを話し終えると、パート内に再び沈黙が訪れた。誠也は不穏な動きがあることは多少見聞きしていたし、予想はしていたが、ここまでの事とは思っておらず、一部の部員の身勝手が引き起こした事の全容に唖然とした。恐らくここにいる1年生は皆同じような心境だろう。
「すみません、もっと早く先輩たちに相談していればよかったんですけど……」
「いや、部長選挙については3年生は関与しないのがこの部の伝統だから、相談しなかったことを咎めるつもりは微塵もないよ。ただ、ここまでの事とはね。正直驚いたよ」
そう言って直樹先輩は優しく微笑んだ。
「まぁ、まりんも気持ちを整理する時間が必要だろうから、少し様子を見てはどうかしらね」
彩夏先輩の言葉に直樹先輩も頷く。
「そうだな。とりあえず今は、まりんを信じて文化祭の練習をしますかね」
直樹先輩のその言葉で、ようやくトランペットパートの練習が始まった。しかし、1・2年生は皆笑顔は無く、黙々と楽器を吹いた。
午後4時。パート練習が終わり、帰りのミーティングのため、再び全部員が音楽室に集まった。
友梨先輩が前に出て話し始める。
「先ほどの選挙結果をヤマセンに報告してきました。川島さんから質問があった件もヤマセンに確認しました。ヤマセンとしては、辞退は基本的に望ましいものではなく、選出された人は投票した部員の信任に応えてほしいが、役職を引き受ける意思のない人に無理やり任せても恐らく良いことは無いので、その場合は辞退もやむを得ないだろうと仰ってました。ただし、辞退の可否も含めて、基本的には部員みんなで決めてほしいとの事でした。この件に関して、質問や意見はありますか?」
友梨先輩が見渡すが、誰からも声は上がらなかった。
「では、この件に関して、1・2年生に決を採ります。ヤマセンの提案に賛成の人」
多くの部員が静かに手を挙げた。
「では、反対の人」
今度は誰も挙手しない。
「では、もし辞退の申し出があった場合はヤマセンの案で進めたいと思います。今は青山さんの意思が確認できていませんので、まずは本人の意思を確認をして、もし辞退の意志が固いと言う事であれば、再選挙を実施します。それまで今回の選挙結果は保留にしたいと思います」
音楽室に重たい空気が流れる中、その日の部活は解散となった。
「3年生は連絡事項があるので、1年5組の教室に集まってください」
解散直後、友梨先輩の招集がかかり、3年生は順次移動を始めた。誠也とえり子は、陽毬たちいつものメンバーでなんとなく集まった。
「なんか、どうしたらいいのかね」
えり子が口を開くと、陽毬が珍しく神妙な面持ちで黙り込んだ。
陽毬と莉緒先輩は同じ中学出身であり、中学校時代から陽毬は莉緒先輩を慕っていた。それだけに、今回の件は陽毬にとっても大きなショックだったに違いない。莉緒先輩は次期部長候補として友梨先輩の下で相当な準備と覚悟をしてきていたはずだ。それを一部の同級生の身勝手な考えに阻まれてしまった。そんな莉緒先輩の気持ちを考えると、胸が張り裂けそうな思いなのだろう。
その時、沈黙する5人の元に、慶が寄ってきた。
「ひまりん、この後どうしよっか?」
意外にも慶から陽毬に声が掛かる。陽毬は驚いた様子で一瞬軽く目を見開くが、すぐにいつものアイドルスマイルを張り付ける。
「う~ん、これはとりあえず集まった方が良い感じ~?」
慶も笑顔で答える。
「だね。とりあえずさ、目立たないように1年生にはLINEで連絡まわすね」
「おっけ~」
陽毬と慶の、必要最小限の短いやり取りで集会が決まった。目立たぬよう、慶からLINEで連絡が回り、集合場所も音楽室の下のフロアの、しかも一番端の教室が指定された。
予定調和ですんなりと終わると思われていた部長選挙だったが、誠也の予想だにしない結果となり、新学期は波乱の幕開けとなった。誠也は部の先行きに対する不安と、まりん先輩に対する心配で動揺する気持ちを抑えながら、えり子たちと共に、指定された教室に向かって歩き始めた。
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