#33 夜はいざなう。
監査院事務局での報告を終えたタロスとトラマルは、ツクヨミ支部を後にし、ホテルへと戻ってきていた。
陽はすでに傾き、商業街区の空には夜の暗さを跳ね返すネオンの明かりが広がっている。
ホテルのロビーを足早に抜け、カードキーを翳して部屋へと入る。
互いの部屋は隣り合わせだが、準備は個別に。
タロスは鞄をテーブルの上に置き、淡々とした動きで装備の確認に入った。
用意したのは、黒のショルダーバッグ。
外見は極めて無難な事務用鞄だが、中にはHK45を組み込んだカービンキットが収められている。
バッグの内部ポケットに予備マガジンと通信端末も忍ばせ、ファスナーを閉じてテーブル脇に立てかけた。
それらすべてを確認し終える頃、部屋の扉が元気よく開かれる。
「たいちょー! 準備完了っすよ! 見てくださいよ、完ッ全に観光客じゃないっすか?」
トラマルが勢いよく現れ、部屋の入口で両腕を広げた。
明るい色味のショートジャケットにプリーツスカート、脚元はぴたっとしたレギンス。
まるで休日の街歩きに出かけるようなその姿には、昼間の監査以上の気合いが入り、そしてその熱量が自然に馴染んでいる。
そして、ふと視線をタロスに移し、そのまま眉をひそめた。
「って、たいちょー……なに、その、私服? なんかこう、色気とか、遊び心とか……皆無じゃないっすか?」
タロスは無言のまま、襟元を整えた。
着ているのは薄いグレーのシャツに、生成りのチノパン。悪目立ちはしないが、どこか公務員の私服のような落ち着きぶりだった。
「もうちょっと、こう……せめてジャケットとか羽織ってくれたらいいのに」
トラマルは唇を尖らせながら、まるで無愛想な先輩をコーディネートし直したいとでも言うように、腕を組んで不満げに小さく首を振った。
タロスは、全く気にせず小さく頷いた。
「騒がしいな。拳銃は?」
「HK45っす。ちゃんと、内ポケットに仕込んでるっすよ」
トラマルはジャケットの前をめくりながら、いたずらっぽく笑った。
「たいちょーこそ、ちゃんと準備してます? 主に私服のコーデとか」
「拳銃程度はな。……用心に越したことはない」
食い違う互いの主張は、決して交わることはなかった。
悲しきかな、仕事人間に期待してはいけないのである。
タロスは時計を見て、出発の時刻を確認する。
「予定通りだ。下へ降りるぞ」
「ふざけんな了解っす、次はボクのコーデで隣を歩かせるっすよたいちょー!」
掛け声と共に、トラマルは軽快な足取りでエレベーターへと向かう。
その背を見送りながら、タロスも静かに歩き出した。
ホテルのロビーを抜け、街へ出たタロスとトラマルは、夜風を顔に受けながら歩みを進めていた。
目的地は、宗牙が教えてくれた屋台街。
「ウチの若手もよう使うてまっせ」と、あの男が笑いながら薦めた場所だった。
昼間は観光客でごった返すフィーアのメインストリートも、夜になると少し表情を変える。
石畳の路地には簡易な軒が連なり、数十軒もの屋台が肩を寄せ合うように並んでいた。
燻した肉に甘辛いソース、香ばしく焼かれた海鮮、炊きたての香草粥。
照明に照らされた蒸気と煙が交じり合い、地元民と観光客が一つの川のように流れていく。
そこは、昼の雑然とした観光地とは別の都市のようだった。
喧騒に潜む親密さ、混沌に宿る秩序。光と香りと熱気が織り成す夜のフィーアは、どこか夢の中の街のような浮遊感さえ漂わせていた。
「たいちょー……ここ、すごい活気っすね。あんなに人いるのに、誰も他人に興味なさそう」
「それが“街”だ。匿名性と密接性が共存する場……少し歩くぞ」
タロスは人混みに紛れつつ、視線だけを屋台の奥へと滑らせた。
通りの外れ、客がまばらな一角で、数人の若者たちが食事の準備をしていた。
昼間、宗牙の下で対面した“例のグループ”。あの熱心すぎる若手職員たちだ。
「……いましたね。パッと見、すごく“真面目”っすけど……」
「距離を保て。観光客のふりでつけるぞ」
タロスはショルダーバッグを右肩に持ち替えながら言い、ゆっくりと歩調を落とした。
若者たちは手慣れた様子で食事を包み、数言言葉を交わしては笑っていた。
その目に、あの応接間で見せた“國を良くしたい”という熱意と、同じ光が宿っていた。
けれど、その奥に滲むものがあった。
焚き火の中に埋もれた炭のような、静かで赤い熱。それは希望ではなく、信仰に近い何かだった。
タロスは足を止め、目を細める。
「……トラマル。裏通りの方へ向かっている。夜勤という名目通りなら、追って損はない」
「ちょっと待っててくださいたいちょー!あそこの屋台、さっきからずっと気になってて……!」
トラマルが急に駆け出し、行列のできた蒸籠屋台へと向かう。
湯気の中に香辛料と肉の匂いが漂い、並ぶ客たちの鼻をくすぐっていた。
数分後、袋を両手にぶら下げた彼女が戻ってくる。
「へへっ、全部肉まんっす!中身は豚、鶏、エビ、あと野菜が二個……冷めたら困るんで、あとで宿で食べましょ!」
「それだけ買えば、明日の朝まで持つだろう」
タロスは苦笑いしながらも、彼女の無邪気な気配に目を細める。
しかし、その視線はすぐに前方へと向けられ、表情に緊張が戻った。
若手たちは、屋台街の喧騒を抜けたあと、ゆるやかに道を逸れていた。
当初の進路は倉庫街へと続くものに見えたが、気がつけば横道に入っている。
街灯の届かぬ裏通り。人通りも少なく、夜間には使用されない搬入路だった。
「……あの道は、企業側の搬入経路じゃないな」
タロスの声に、トラマルも眉を寄せる。
「えっ……じゃあ、違う場所に向かってるってことっすか?」
「今のところは、そう“見える”だけだ。まだ断定はできんが」
口調は冷静なままだったが、その足取りは明らかに早くなっていた。
目の端で、若手たちの後ろ姿がビルの隙間へと消えていく。
本来であれば、もうしばらくすれば倉庫街で業務が始まる時間のはずだ。
にもかかわらず、彼らは人気の少ない脇道へと入っていった。
道の構造や、街の灯り、周囲の建物までもが、何かを隠そうとするかのように感じられた。
風の流れが変わる。ひんやりとした夜気に湿り気が混じり、タロスの背筋をなぞるように通り抜けていった。
その微かな違和感が、追跡の必要を確信に変えた。
二人の視線の先を、三人の男たちが歩いていく。
手には屋台で買った丼や肉まん。にやついた表情で交わす雑談は、まるで夜勤前の気楽な夕食にしか見えなかった。
「……どう見ても、夜勤前の食べ歩き風景にしか見えないっすよ」
トラマルが小声で呟く。タロスは無言のまま首を横に振り、足音を殺して追跡を続けた。
男たちは港湾方面でも、九龍貿易商会の事務所でもない方向へと進み、路地の奥へと消えていく。
やがて、開けた空間に辿り着いた。
ビルの裏手にあたるその広場には、簡素なプラスチック製のテーブルと椅子が幾つも並べられており、夜間の休憩所のような体裁をしていた。
男たちは、そこで足を止めた。
空いている椅子に腰を下ろし、手にした肉まんや丼を広げて食べ始める。広場には既に先客がいた。テーブルごとに散らばるようにして五人。どれも作業着姿で、先ほどと同じく九龍関係者と思しき男たちだった。
「……さて、何が出る」
タロスは視線でコンテナの影を示し、トラマルを促した。
二人は錆びた大型コンテナの裏へと身を滑らせる。街灯の光も届かぬその暗がりは、息遣いすら許されないほどの静寂を宿していた。
「調子はどうだ?」
椅子に座った男の一人が言った。
「問題ない。監査も無事に切り抜けた。抜き打ちだったが、こちらの情報は漏れてねぇ」
「けどよ、あの官製の連中に呼ばれた時はさすがにヒヤッとしたな。現体制の蛆虫どもが、まさか俺たちの顔色まで気にするとは思わなかった」
会話が始まった。
トラマルがタロスに視線を送る。「突入っすか?」と問うように、軽く首を傾げた。
だがタロスはわずかに首を振る。時期尚早だ。
銃口を向けるには、まだ証拠が足りない。
二人のやり取りの間も、会話はさらに深まっていく。
「……決起の日も近い」
「国を腐らせてる現体制、鎖国して日和った天帝を、あの方と共に引き摺り下ろす日がな」
「我ら“強き國”こそ真に國の未来を憂う者たちだ。辛酸を舐めながら諸外国から仕入れた武器も数は揃った。あとは号令を待つだけだ」
男たちは肉まんを頬張りながらも、目の奥には火が灯っていた。
それは空腹を満たす者の光ではない。
信念。否、狂信と呼ぶべきものに間違いなかった。
トラマルが息を呑み、再びタロスを見やった。
もはや十分すぎる証拠だ。
タロスはゆっくりと顎を引き、合図の代わりにした。
突入のタイミングを計る。
そのときだった。
「……ッ!?」
トラマルの表情が強張った。
タロスがわずかに振り返ると、背後の路地に新たな足音が二つ、三つ。話し声と共に近づいてきていた。
別行動だった仲間か。広場にいた八人に加え、さらに人間が接近してきている。
振り返ったトラマルの足元で、何かが転がった。
鉄パイプか、それとも積まれていた空の工具箱か。
それがコンテナ脇の壁に当たって転げ落ち、金属音を響かせた。
その一瞬が、静寂を引き裂く。
「……今の音、なんだ?」
「おい、誰かいるぞ!」
椅子を蹴って立ち上がる男たち。銃を抜く者もいる。
コンテナの陰に潜むタロスとトラマルは、一拍だけ目を合わせた。
トラマルは唇を噛み、眉を伏せた。
タロスは無言のまま、ショルダーバッグを一度開き、そして一つ息を吐き出してそのファスナーを閉じた。
そして敵に向かって、両手を上げて無防備に姿を晒す。
錆びたコンテナの影から身を現したタロスとトラマルに、八つの視線が集まった。
「……あんたら、昼の……監査官?」
緊張が波打つ中、タロスはどこか困ったように苦笑した。
咄嗟にトラマルの肩へと手を添え、わざとらしく目を伏せる。
「いや……その、ええ……」
トラマルが戸惑いの声を漏らしかけた時、タロスが彼女よりも一歩前へ出た。
「すみません。まさか、たまたま入った路地が、あなた方の……憩いの場だとは知らず」
言葉を探すように、ゆっくりと続ける。
「我々のことは……その……黙っていただけるなら、そちらのことも……」
「監査官の兄さん。あんたら……聞いてたよな?」
先に黙らせようとした意図を読み取られたのか、男のひとりが鋭い目で睨みつける。
トラマルが緊張に身じろぎし、タロスは再び口を開いた。
「取引は、どうでしょうか。お互い、知らなかったことに……」
「チッ。やっぱ腐ってやがる」
侮蔑の吐息とともに、男はジャケットの内側に手を滑らせた。
「路地裏で部下を手篭めにしてたお代官様は、暴漢に襲われて死んだ。残念だったな」
銃口がタロスを向いた瞬間、タロスは静かに名を呼ぶ。
「トラマル」
「……ッス」
引き金が引かれる。
だが、銃声と共に二人の姿は掻き消えていた。
「なっ……!?」
怒声が跳ねる間もなく、音もなく迫る影。
気付いたときには、タロスがショルダーバッグからHK45カービンを抜き放ち、懐に入り込んでいた。
低く抑えた発砲音が、三発。
ひとりの男が、頭蓋ごと脳を弾き飛ばされ、無様に膝を折る。
騒然とする場に、短く硬質な声。
「よそ見なんてしてたら即、死ぬッスよ」
トラマルが抜き放った拳が、敵の顎を粉砕する。
もう一人は腹部を抉られ、痙攣しながらその場に崩れ落ちた。
飛び散る血しぶきに目を細めながら、トラマルは大事そうに袋を抱き直した。
肉まんの熱気が、まだほんのりと袋の中に残っていた。
立て続けに三人を無力化したことで、敵の輪郭が完全に浮き彫りとなった。
タロスとトラマルは、視線で合図を交わしながら、路地の影から広場全体を見渡す。
まだ複数の敵が残っており、どこかから怒声が響いている。
その声を頼りに、広場の奥、暗がりに通じる別の路地から数人の影が駆けつけてくる。
銃を構えた姿勢、統率の取れた動き。タロスは瞬時に判断した。
「包囲される……トラマル、退くぞ」
「了解っす、たいちょ」
二人は躊躇なく身を翻し、元来た裏通りへと駆け戻る。その背後で、敵の発砲が始まった。だがそのほとんどは、すでにそこにいない場所を撃っている。
タロスたちが逃げ込んだのは、先ほどまで身を潜めていた細い路地。古い建材や放置された配管が行く手を狭めるが、その雑多さが逆に彼らの機動を助ける。
前方から複数の足音が迫った。合流してきた別働の敵勢力か。タロスは片手をかざし、トラマルの動きを止めると、HK45カービンのストックを肩に押し付け息を潜める。
姿を見せるより一瞬早く、狙い済ました射撃が闇を貫く。先頭の敵の一人が足をもつれさせると、次の一撃で肩を砕かれ、その場に崩れた。
「たいちょ、そっちに……!」
警告の声とともに、トラマルが横合いから現れた男を跳び蹴りで壁に叩きつける。敵の銃がそのまま手から離れ、無防備な腹部にトラマルの拳が食い込んだ。
さらに一人。だが彼は手にした短銃をすでに構えていた。
それでもタロスは焦らない。銃口が上がるより早く、数歩を詰めて膝蹴りを顎へと叩き込み、体勢を崩した隙に一撃で意識を奪った。
「こっちは制圧……たいちょ、次は?」
「この先で振り返る。奴らの足並みを崩す」
二人は廃材と管材が入り乱れる曲がり角へと走り込み、反対側の路地の暗がりに再び身を潜める。追撃してくる足音、叫び声が、まるで波のように背後から押し寄せていた。
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