#32 諜報員、かく在りき


 白い朝靄が街を包んでいた。高層ビルの隙間から薄く陽が差し込み、ホテルの廊下に淡い光の帯を描いていた。

 タロスは、隣室の扉の前に立っていた。無地の黒いスーツは皺ひとつなく整い、肩に落ちる光が整髪された黒髪の輪郭をさらに引き締めて見せていた。

 静かに腕時計を見やる。あと五分で予定の時刻。

 が、室内からは控えめな騒音が続いていた。


 「うわっ……ブラウス、ボタン飛んでないっすよね!?」

 「スカート、短すぎるって言われたらどうしよう……」

 「パンプス、やっぱりちょっとキツい……たいちょーには絶対言えねぇ」


 タロスは軽く目を伏せ、再び時計に目を落とした。予定の三分前。

 やがて、カチャリ、とドアの鍵が回る音が控えめに響く。

 直後、スーツ姿のトラマルが勢いよく飛び出してきた。


 「た、たいちょーっ! お待たせしましたっ! し、新人研修、よろしくお願いします!」


 ぎこちなく敬礼をしようとした手が、ジャケットの襟に引っかかる。

 深めのスカートに、白いブラウス。動き慣れないパンプス。何もかもが不慣れさを物語っていた。

 タロスは一瞥したのち、静かに頷く。


 「装いに気を取られるな。視線は常に前へ」

 「っ、はいっ!」


 背筋を伸ばしたトラマルが小さく深呼吸する。少しだけ、緊張が抜けたようだった。

 タロスは踵を返し、エレベーターへと向かう。

 その途中で、何気ない声の調子で振り返った。


 「……名乗りの件、覚えているな?」

 「もちろんっス。今日からアタシは、監査官補佐の。たいちょーは……、でしたよね」

 「“主任”で構わん。“たいちょー”と呼ばれた瞬間に我らが何者か、察しの良い者には即座に見抜かれる」

 「へへっ、了解しました主任」

 「語尾が軽い。もう少し抑えろ」

 「……っ、分かり、ました」


 エレベーターが静かに下降を始める。

 その向かう先は、九龍貿易商会本社。正規の監査官としての立場を装い、いよいよ核心に近づく。

 その足取りに、迷いはなかった。



 フィーア上層街区。その中枢に位置する区画の一角に、異質な建造物が聳えていた。

 高層ビル群に挟まれるようにして建つその本社棟は、まるで時代錯誤の中華楼閣を縦に伸ばしたような構造だった。

 赤煉瓦に塗られた外壁、金の雨樋、龍を象った瓦の装飾。ビルというより“砦”に近い。

 正門には巨大な門扉と、対になる一対の石獅子像。目に見える警備員は少ないが、随所に設置された監視装置と、門内に立ち込める無言の緊張感が、容易ならざる場所であることを告げていた。

 タロスとトラマルは、門前に足を止めた。


 「九龍貿易商会、本社か」


 タロスが小さく呟いたその瞬間。門内のスピーカーから微かに音が鳴り、鋼鉄の扉が重々しく開いた。

 出迎えに現れたのは、一人の男だった。

 四十代半ばほど、黒地に白い波頭模様のアロハシャツに、上質な着流しを羽織っている。

 胸元は大きく開けられ、右肩から覗く墨染めの龍が肌の上で蠢くように見えた。


 「いやあ、ようこそ。よう来てくれはりましたなあ」


 男はにこやかに両手を広げて近づいてくる。だが、その眼だけが笑っていない。

 声には柔らかな抑揚があり、ヒノモト時代から受け継がれたカンサイ訛りに近いイントネーションが混ざっていた。


 「わたくし、九龍の港湾方面をちぃと預からしてもろてる宗牙ソウガいうもんですわ。ほな、こちらへ」


 タロスは一礼し、営業用の柔和な笑みを浮かべた。


 「初めまして、監査局の主任を務めております“イズミ”と申します。突然の訪問、失礼いたします」

 「わっ、わたしはそのた、たた、“タカセ”です! 本日はよろしくお願いしますっ」


 トラマルはやや早口に名乗り、深く頭を下げる。

 その額にうっすらと滲んだ汗を、宗牙は何かを試すような目で眺めていた。


 「ええのええの。堅苦しいのはウチの流儀やあらしまへん。どないでっか? ウチの建物、なかなか風情あるでしょう?」


 男はそう言って、本社棟の内へと二人を促した。

 建物内は外観に違わぬ豪奢さだった。真紅の絨毯に金色の手すり、黒漆の柱に龍の彫刻。

 仄かに漂うのは沈香か、それとも別の香か。眼と鼻とを一気に刺激される空間に、トラマル……タカセは思わず目を白黒させた。


 「……あんまりにも“絵に描いたような”本社で、ちょっと緊張してきましたよたいちょ……じゃなくて、イズミ主任」


 トラマルが小声で漏らす。タロスは目線を逸らさず、唇だけを僅かに動かした。


 「口を慎め。“主任”と呼べ」

 「は、はぃ……主任……」


 そのやり取りの隣で、宗牙がにこやかに振り返る。


 「ん? お連れのお嬢さんは緊張しぃやな。新人さんか何か……まあええか」


 男の言葉に、タロスは笑みを崩さぬまま頷いた。


 「ご配慮、痛み入ります。正直に申し上げますと、今回は彼女の研修も兼ねております。どうかお手柔らかに。……まずは、監査内容の確認と書類の提出をお願いできますでしょうか」

 「はいな。用意してますがな。こちらで」


 宗牙は長い廊下を抜けた先の応接間へ二人を案内する。


 応接間は、想像以上に広く静かだった。

 天井の高い一室の中央には、瑠璃色の漆面に金縁の文様が浮かぶ円卓が鎮座している。

 その周囲を、白い椅子が等間隔に並び、まるで舞台の幕開けを待つ役者のように整列していた。

 背後の壁に掲げられた巨大な水墨画。山水の風景に龍が舞う図柄は、差し込む陽光に照らされ、現実感をわずかに曇らせていた。


 「さ、どうぞ。こちらへ」


 宗牙が卓の一角に手を添え、二人の着席を静かに促す。

 タロスとトラマルは無言のまま席に着き、それぞれの書類鞄を椅子脇に置いた。

 間もなく、着物をまとった若い男が現れ、黒檀の盆に茶器を乗せて給仕を始めた。

 揃いの陶器に注がれたのは、濃く香る普洱茶。白い湯気が静かに揺れ、空気に深い香りを重ねていく。

 宗牙は煙草代わりのように、その一杯を手に取り、軽く口をつけた。


 「ウチとしてもな、“國”からのお客様いうのは久しぶりでしてな。どんな風に話が進んでいくんか、ちいと楽しみにしとったんですわ」

 「本日は、提出済みの帳簿ならびに物流記録と照合を行います。不明瞭な点があれば、現場確認も視野に入れています」


 タロスは端末を操作し、初期リストを宗牙に提示する。

 その表情には一切の硬さはなく、終始、穏やかで礼節を崩さぬままだった。


 「ふむ……輸出入品目の実地照合、でっか」


 宗牙が資料に目を通しながら、口角を上げる。


 「ま、我々としても“國”との信義には疵をつけられまへんしな。それに……」


 そこで一瞬、宗牙の目元がわずかに鋭さを帯びた。


 「帳簿に載らん品物も、世の中にはぎょうさんありますさかい。こうして洗い出してもらえるんは、うちらにとってもええ機会かもしれまへんな」


 一拍、沈黙。空気がわずかに張り詰める。

 宗牙の声音は柔らかく笑みを帯びていたが、その奥には鈍い刃のような重みがあった。


 「必要があれば、徹底します。それが我々の仕事ですから」


 タロスが静かに返す。

 宗牙は目を伏せ、茶をもう一口。

 次いで、わざとらしさのない笑声で、こともなげに言った。


 「ほう……ようできたお方やなあ、主任さんは。國の人間ちゅうんは、やっぱり一味ちゃいまんな」


 その瞳は細く、笑っていた。だが、内側は底知れぬままだった。



 応接間に沈む陽光が、静かに朱を帯びていた。

 窓の外に広がる港湾のシルエットも、夕暮れの茜に溶け込み始めている。

 机上には照合済みの資料ファイルが整然と並び、宗牙はそれをひと通り確認したあと、胸元に手を当てて静かに頭を下げた。


 「ほんま……見事なお手前やったわ、イズミ主任。國の監査っちゅうんは、こうも厳密で、なおかつ品があるんですなあ」

 「お褒めに預かり光栄です。ですが、本日の監査はあくまで表層的な部分に過ぎません。今後とも、情報の透明性と協力をお願いできればと思います」

 「もちろんでっせ。おかげさんで、ウチの連中も気ぃ引き締まるいうもんですわ」


 宗牙は肩の力を抜きながらも、どこか満足げに笑んだ。

 そのまま、茶の冷めた湯呑みに口をつけ、ふと視線を卓越しながら問いかける。


 「……ところで主任。これは査察とは別口の雑談やけど」

 「はい」

 「こういう場で、よう言われることがあるんや。 “部下に変わった様子はないか?”“何か兆候は?”ってな。せやけど、現場の人間っちゅうのは、そんなに簡単に変わるもんとちゃいますやろ?」


 宗牙の問いに、タロスはうなずいた。

 その返答を受けて、宗牙はふと顎に指を添える。


 「……けど、実は最近、ちょっと気になる連中がおりましてな。私の直属ではない、別んトコの若手のチームなんやけど、ここ数ヶ月で急にキリッと仕事し出しまして。元はどっちかいうたら、無気力というか……目ぇが死んどった口なんですが」

 「興味深いですね。その変化、何かきっかけのようなものでも?」

 「さあ、はっきりしたことはわからしまへん。ただ……話してみると、みんな妙に“この國を良くしたい”とか言うんですわ。前は口も開かへんような奴らが、今じゃ顔つきまで変わって」


 宗牙の言葉には、得も言われぬ違和感がにじんでいた。

 それは“嬉しい驚き”というより、“底の見えない不穏さ”に近い。


 「なるほど。もしよろしければ、今後の励みにもなりますし、我々からも直接声をかけて激励してもよろしいでしょうか? 若手同士、タカセにもその気概を分けてもらうとしましょう」

「うえっ? あ、はい。よろしくお願い、シマス」


 タロスの申し出に、宗牙はわずかに目を細めた。


 「……ええよ。主任がそう言うんやったら、案内させましょ。ちょうど今日、夜勤の前に顔揃えて集まってますさかい」


 トラマルがこくこくと小さく頷く。

 宗牙の言葉に、若い側近が小さく頷いて廊下へ出ていく。

 数分後、別室へと案内されたタロスとトラマルの前に、淡い薫香とともに扉が開いた。


 揃いの着流しに身を包んだ五人の若手職員が、一列になって入室してくる。

 まるで訓練された兵士のように動きに無駄がなく、立ち居振る舞いも整っている。


 「初めまして。四龍組、物流第二課所属のハスイケと申します。

  本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


 先頭の青年が頭を下げると、他の四人も同時に深く礼を取った。

 歳は二十代半ばから後半ほど。均整の取れた体躯に、手入れの行き届いた短髪。

 目立った特徴はない。だが、その“整い過ぎた”印象が、逆に違和感として引っかかる。


 「國、ツクヨミ所属。監査官のイズミです。隣は新人のタカセ」


 タロスは微笑を浮かべたまま、軽く会釈を返す。


 「現場を牽引する若手の声をぜひ、こちらのタカセにも聞かせたく思いまして。今回の監査の範囲外ではありますが、宗牙さんの厚意に甘えさせていただきました」

 「光栄です。私たちも、國のお役に立てる機会をいただき嬉しく思っております」


 青年は即座に返した。語尾に迷いはなく、内容にも一切の無駄がない。

 だが、優秀すぎる。


 タロスの直感が、小さく警鐘を鳴らす。

 何かが、異常に滑らかすぎる。

 言葉の選び方も、口調のバランスも、微笑のタイミングすらも、

 あらかじめ用意された“正解”をなぞっているかのようだ。


 「では、軽くお話を。緊張なさらず、自由に」


 タロスは場の空気を和ませるように促すが、返ってくる言葉はどれも模範的だった。


 「今の職場に、誇りを持っています」

 「物流の基盤は、この國の命脈といっても過言ではありません」

 「我々はその一翼を担っているという使命感を、日々強くしています」

 「この國を、より良いものにしたいと願っております」


 嘘はない。声に濁りもない。

 しかし、その瞳の奥に、ただの勤勉さでは説明がつかない熱病にでもかかったかのような奇妙な“浮遊感”があった。


 ただ仕事が好きなわけではない。評価されたいだけでもない。

 彼らの目に宿っているのは、“理想の國”に殉ずる信仰……狂信に近い何かだった。


 握手を交わした瞬間、タロスはその熱を皮膚で感じ取った。

 掌から伝わってくる温度は異常なほど高く、それでいて汗一つかいていない。


 「素晴らしいですね。是非とも、その志で今後も國の柱として活かしてください」


 笑みを浮かべたまま、タロスは深く頷いた。

 心の奥に走った寒気は、顔には出さない。

 ただ、心の中で一つだけ、結論を下していた。

 こいつら、“何か”に染まっている。



 会話は終始、和やかな空気のまま進んだ。


 タロスは一人ひとりと握手を交わし、形式的な激励を送る。

 若手たちは丁寧に礼を返し、完璧な所作で会議室をあとにした。


 重厚な扉が静かに閉まる。

 次の瞬間。外側から、常人では聞き取れない声量のくぐもった呟きが漏れた。


 「国を食い物にしとる蛆どもめ……我らこそが、本当の國の柱だ」


 声は小さく、だが確かに熱を帯びていた。


 「……主任」


 トラマルが小さく声をかけた。


 「ええ。彼らはとても、優秀でしたね」


 タロスは机の上に残った湯呑を手に取り、静かに口元へ運んだ。

 香ばしい普洱の香りが、わずかに鼻をくすぐる。


 「宗牙さんのお心遣いに感謝しましょう。視察の成果としては、申し分ありません」


 その声には、何の揺らぎもなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る