#31 緋衣が運ぶ太陽紋
陽光が差し込む司令区の執務室。分厚いカーテン越しに、白金色の光が長机の上へ斜めに落ちていた。
ここは、特務機関スサノヲ第九部隊、隊長執務室。
机の上には、一通の文書が置かれている。黄金色の封蝋には重厚な刻印が押されていた。太陽を象った天帝の紋章。今では神域においてしか見ることのない、古式ゆかしき文物だった。
遡ること、数刻前。静かなノックの後に現れたのは天理教会の正装とも異なる、淡い緋色と白の布を纏った若い女性。
肩を覆う薄衣には、満月を思わせる神託の姫巫女の紋様が刺繍されている。
控えめな身なりながら、所作には一切の乱れがなく、静かな敬意と緊張が滲んでいた。
神託の姫巫女直属、天帝と姫巫女に仕える巫女の一人だった。
彼女らは、神域に立ち入ることはない。神託の姫巫女を通して発せられる天帝の勅令を各機関へと通達し、また姫巫女や天帝が必要とするありとあらゆるものを神域まで運ぶ役目を担う者たちである。
巫女が退室した後、書簡を受け取ったタロスは緊張を払うために小さく吐息を吐き出した。
「……何度見ても慣れぬものよな。”紙”の勅令とは」
タロスは机の上に置かれたその文書に目線を落とす。直立不動で傍らに控える若き副官、トラマルの表情がかすかに引き締まる。
書かれた内容には目を通してあるが、トラマルにも伝える必要があるためタロスは厳かな口調でその文面を読み上げる。
『國の健やかなる在り様を乱す、些か気がかりな報せが届いた。フィーア地区リージョナルタワー、九龍貿易商会において、正規の手続きを経ぬ物流が存在する可能性があるという。貴殿に調査を委ね、必要に応じて然るべき判断と措置を願う』
読み終えたタロスは文書を丁寧に畳み、封蝋の刻印を親指でなぞった。その眼差しに、わずかな疲労と、僅かながらも苦笑めいたものが混ざる。
「天帝陛下も、人使いが荒いな」
「……タロス隊長。不敬罪、っすよ」
トラマルの真面目な声に、タロスはほんの一瞬だけ口元を緩めた。だがその目は既に、任務へ向けられていた。
九龍貿易商会。國の物流を支える巨大な組織であり、その実態は幾つもの武装派閥が寄り合って形成されている。
本来、國法とそれを司る天理機関ツクヨミによって諸外国との輸出入は厳密に管理されているのだが、ツクヨミとて常に張り付いて監視しているわけではない。近年の國内の情勢悪化と物資移動の混乱に紛れて、密貿易の可能性が浮上していた。
真偽は不明。しかし、もしも事実であれば……それは内政上の不祥事では済まない。
國の根幹を揺るがす企業の”裏切り”そのものだった。
「監査名目でいいな。ツクヨミからの調査官と、付き添いの新人。九龍も、國からの抜き打ち監査であれば隠し立てもできまい」
「了解っす。貿易監査……なんか、それっぽいっすよね」
タロスは静かに頷き、書簡を執務室内の金庫にしまった。
任務地は、第八商業街区港。國でも有数の物流拠点であり、九龍貿易商会の主要な活動拠点の一つ。
表向きの理由は、新人職員の監査実地研修。だが、真の目的は密貿易の事実が存在するかを突き止め、必要に応じて断罪の刃を振るうこと。
タロスは執務室内の壁に掛けられた赤鞘に納められた大太刀に手を添え、ひとつだけ息を吐いた。
「出るぞ。場合によっては長期任務になる。心せよ」
「ラジャっす」
二人の足音が、執務棟の床を硬く鳴らす。
その足取りは迷いなく、これから訪れる“疑惑”に向かっていた。
リージョン間を繋ぐ高速列車が、ほとんど音もなく減速を始めた。長大な車体が流れるようにステーションへ滑り込み、空調音と共に扉が一斉に開く。
フィーアリージョン。國内唯一の諸外国との貿易都市にして、九龍貿易商会の本拠地を抱える交易の要衝だった。
天井の高いガラス張りの駅舎からは柔らかな自然光が差し込み、吹き抜け構造の広大な構内を暖かく照らしていた。構内を埋め尽くすのは各リージョンからの買い付けを行いに来た人々と、行き交う荷役用ドローン。香辛料、汗、電磁気の匂いが混ざり合い、この街の熱量を否応なく伝えてくる。
列車の扉から、濃紺のスーツを隙なく着こなした長身の男が姿を現す。襟元には天理機関ツクヨミの小さな徽章。引き締まった顔立ちはどこか古風で、柔らかい微笑を浮かべながら周囲を見回すその様は、冷厳な軍人というよりも丁寧な外交官を思わせた。
そのすぐ後ろから、小柄な女性が降車口を小さく跳ねるようにして飛び降りた。膝上丈のタイトスカートに細身のジャケットというスーツ姿に、ヒールの靴。普段の身軽な服装とはかけ離れているのか、歩き方はどこかぎこちない。
「ふぅ……スーツって、こんな動きにくいもんなんすね」
「トラマル。気を抜くな。貴公の身なりは我らの看板である」
タロスは振り返らず、穏やかな声音だけで副官を諭す。トラマルは頬をすこし膨らませながら、肩を張って歩調を合わせる。
「わかってますって、たいちょー。ちゃんと“新人感”出すんで」
「……出すものではなく、滲み出ているように見えるがな」
構内を包む喧騒の中、タロスとトラマルの足音が硬質に響いた。
二人の視線の先には、ガラス越しに望むフィーアリージョン上層区画。無数の建造物の中でもひときわ高く聳え立つ、行政庁舎を中心とした区域が遠くに見えていた。
街の中枢へ。任務の幕開けと共に、二人の足取りはそこへ向けて、静かに動き出した。
構内を抜ける途中、トラマルがヒールのかかとを小さな段差に引っかけ、よろけかけた。
「わっ、とと……っぶな!」
反射的に手を伸ばしかけたタロスは、しかし寸前で止まり、淡々と一言だけ告げる。
「目立つな」
咄嗟に体勢を立て直したトラマルは、唇を尖らせながら「助けてもらえるかと思ったっス」と小声でぼやいた。
タロスは返答せず、ただ歩調を緩めずに先を進む。その背中に、トラマルの小さなため息が重なった。
フィーア・ステーションを出ると、眼前には広がる商業街区の喧騒があった。軒を連ねる屋台、呼び込みの声、香辛料と焼いた肉の混じり合う空気が鼻をつく。
だが二人の足は、そちらには向かわない。
上層街区へと通じる高架通路は商業区域の背後、遥か高みへと伸びていた。都市の地盤ごと階層構造で再開発されたこのリージョンもまた、國が司る行政・宗教・特権機関はすべて上層街区に集められている。
エレベーターで街並みを見下ろし、セキュリティゲートをくぐった先には、商業街区の喧騒とは打って変わった静謐が待ち構えていた
白と銀を基調とした舗装路。歩道脇に整然と並ぶ植栽。空には無音のドローンがゆるやかに旋回し、上層街区“行政区画”の静けさを無言で守っている。
トラマルがひとつ、息を呑む。
「フィーア……の、こっち来るの、初めてっす。あ、いや。です」
彼女の視線の先、遥かに聳える白壁の庁舎群。その一角に、巨大な円柱を抱く建築があった。白漆喰に青銅の飾り梁が埋め込まれた堂々たる建物。その中に、國直属の三機関。アマテラスの駐屯施設、ツクヨミの庁舎、そして……スサノヲの支部が並んでいる。
タロスは足を止め、わずかに眉を上げてみせる。
「貴公は隊舎からの直接出撃が多かったからな。今後は、こういった格式ばった任務もこなしていって貰わねばならん」
トラマルは黙って頷き、背筋を正した。
二人は建築群の中でも目立たない、裏手側の建物へと向かう。
張り紙すらない、事務棟のような簡素な鉄扉。壁面の目立たない隙間に設置された認証機に、タロスが手首に埋め込まれたICチップをかざす。
低い音と共に施錠が外れ、金属製のドアが音もなく開いた。
その内側には無機質な廊下と、厳重な金属扉が連なるスサノヲ支部の姿があった。
受付にて認証を済ませ、目的を伝える。
「支部経由にて任務の通知を受領。監査任務のため、ツクヨミ庁舎および九龍貿易商会への接触を予定している。必要あらば、上申書を提出してもよい」
無言で頷く受付官が、静かに数件の確認操作を行い応答する。
「承知しました。商業街区イー34区画の宿泊施設にて二室、確保済みです」
受け取ったデータを携帯端末で確認して、タロスは一礼した。
そのまま、支部を抜ける。表口とは異なる、地下連絡通路から繋がる構造だ。
次の目的地は行政区画を横断する形で位置するツクヨミ庁舎。
石造りの階段を上がり、青磁色の壁と太陽光を透かすガラス窓に囲まれた回廊を抜ける。
タロスはまるで景色のひとつでも眺めるかのように、わずかに歩調を緩めた。
「……変わらぬな。ツクヨミの庁舎は、どこも無駄に洒落ている」
「そっすねー。庁舎なのに、お茶会でも開けそうな雰囲気っす」
トラマルの肩が、少しだけ揺れる。気圧されていたのが抜け、元気が戻りかけていた。
「そういや隊長、昔ツクヨミで働いてたんすよね? 何か面白い昔話とかないっすか」
「無い」
唇を尖らせ「ケチな隊長は昔からつまんなくてケチな隊長だったんすねー」と呟くトラマルに、タロスは肩をすくめた。
監査院事務局は、ツクヨミ庁舎の中でも最奥に近い位置にあった。
古代文字を模したレリーフが彫り込まれた自動扉をくぐると、無人に近い静けさの中、中央にひとつだけ受付窓口が設けられている。
通達は既に通っていたのだろう。顔を上げた職員は一礼の後、淡々とした口調で応じた。
「……タロス隊長と副官のトラマル様ですね。特務機関スサノヲのザフト本部より通達は確認済みです。こちらが、九龍貿易商会への監査許可証と、調査資料になります」
革張りの書類バインダーがひとつと、暗号化されたストレージカードが二枚。それぞれ、タロスとトラマルに手渡される。
タロスは封蝋を指でなぞり、短く頷いた。
「感謝する。ツクヨミの働き、変わらず律儀で助かる」
「僭越ながら、そちらこそ……お手柔らかに願います」
ほんの少しだけ、職員の口元がほころぶ。
トラマルは慣れない調子で口を開いた。
「あ、えっと……あの、ここでの打ち合わせは、以上で……?」
「はい。任務内容については書面通り。九龍本社での面会は、既にアポイントが通してあります。随行職員はつけませんので、お二人のみでお願いします」
トラマルが一瞬だけタロスを見た。
タロスは言葉にせず、軽く顎を引く。それが“問題ない”という合図だった。
監査院事務局を後にし、廊下に出た瞬間。
張り詰めていた背筋を解いたトラマルが、小さく肩を回した。
「はー……今の部屋、笑ったら死刑って雰囲気だったっすよ」
低く呟いた声に、タロスはわずかに目線を横に流す。
「聞こえているぞ」
「ひょっ……! 冗談っす冗談っす!」
慌てて両手を振るトラマルを横目に、タロスは無言で歩みを再開した。
足音だけが、静まり返った庁舎の回廊に淡く響いた。
ツクヨミの事務局を後にした二人は、エレベーターで商業街区へと降り、再び外へ出る。エレベーターから直通の連絡路の先は、商業街区のメインストリートへが広がっていた。
そのまま携帯端末に示された目的地へ向け、観光客をかき分けながら歩いていく。そうしてたどり着いたのは、小さな宿泊施設。
その外観は一見、ごく普通の民間ホテルと変わりない。商業街区の表通りから少し入った路地裏、古びたアパート群に挟まれたその建物は、観光客の目にすら止まらない。
「ここ……ですよね?」
トラマルが半信半疑の声で尋ねる。
「左様。外観は偽装されているが、ここはれっきとしたスサノヲの監視施設のひとつだ」
タロスが入口の認証機に手首をかざし、登録済みのコードを送信する。瞬時に鍵が外れ、金属音と共に自動扉が開いた。
受付を済ませ、専用の一室へ案内される。
壁は防音仕様、窓は遮光と透過を任意に切り替えられる特殊ガラス。通信端末と小型のミーティングテーブルが備えられた部屋は、外観からは想像できないほど機能的で清潔だった。
トラマルが荷物をベッドの端に置き、ひとつ息をつく。
「ふぃー! さっきまでのツクヨミの監査院事務局、ちょっと緊張感すごすぎました」
「貴公という奴は……いや、トラマル。明日からはもっと緊張する場面が続くぞ。今のうちに、気を抜け」
「……たいちょーの言い方、ちょいちょいドキッとするんですよね。ホント」
苦笑する彼女の声に、タロスの視線が自然と柔らいだ。
「では……まずは、休息とするか。時刻はまだ早いが、夕刻までは任務は動かぬ。市街の確認がてら、少し歩いておくのもよかろう」
「散歩っすか?」
「名目は“地理的調査”だ」
「そーいうとこが、たいちょーなんすよね」
二人の声が重なり、小さく笑いが混じった。
日が暮れる頃、ニ人は商業街区の外れにある屋台で食事を調達し、ホテルの一室に戻っていた。
窓の外はすでに夜。建物の影に滲むようなネオンサインがちらついている。
机の上には、紙袋に包まれた焼き餅と香草の効いたスープ。それぞれの膝の上には、折り畳まれた資料ファイルが開かれていた。
「……明日から、いよいよ現場っスね」
「言い方が軽いぞ、トラマル」
「す、すみません……じゃあ、えっと、明日から監査業務が本格開始……?」
「言い直す必要はない。ただ、そういう細部に隙が出る」
「あー……なるほど」
タロスはスープを啜りながら、資料に視線を落としたままだった。
対してトラマルは、焼き餅を頬張りながらも、じっと彼の横顔を見つめていた。
「……たいちょー、ほんとに笑わないっスよね」
「任務中に笑う理由があるか?」
「いや、そうなんスけど。なんか……たまには、『緊張してても大丈夫』って言ってくれても、バチ当たらない気が……」
「教えた通りにやればいい。それだけだ」
「……あー、はい。うん、ですよね。うちのたいちょー、今日も通常運転だ……」
トラマルがスープを啜りながら小さくため息をついた。
タロスはそれに反応せず、次のページに目を通す。
スープと焼き餅の香ばしい匂いだけが、部屋の空気を温めていた。
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