#27 黒翼は凍てつく帳を払い
雪に覆われたセヴェルリージョン商業街区。
白銀の帳が街を包み、建物の輪郭すら霞ませる午後。路面には凍結防止剤の跡がまだらに残り、通行人の姿もまばらだった。
セヴェルリージョン商業街区に構える傭兵企業『バード商会』の支部ビルは、年季を感じさせる建材の継ぎ接ぎと、最新の警戒装置が同居した無骨な建築だった。
ヒューズは黒いコートの裾から滴る雪解け水を気にも留めず、廊下の突き当たりにある金属扉の前で足を止めた。
ノックは二度。機械のように無駄のない動作。
応答を待たずに扉が開いた。
室内は仄暗く、柔らかい間接照明が天井から漏れている。応接セットと小型の端末が並ぶ面談室。その中央に、小柄な女性が座っていた。
黒髪を後ろで束ね、眼鏡越しの視線を真っ直ぐこちらへ向けている。手にはタブレットを持ち、まるでヒューズの訪問を既に予定に組み込んでいたかのような佇まいだった。
「ようやく戻ってきたんですね。……待ちくたびれました」
感情を感じさせない声音。その癖、ほんの僅かに口元の線が緩んでいた。
女の名はモモ。かつてヒューズがバード商会セヴェル支部に所属していた際の専属オペレーターである。
ヒューズはモモの言葉に返事を返すことなく、軽く礼をして応接椅子へと腰を下ろした。
「戦死扱いとなっていた過去記録は、既にデータベースから切り離してあります。本日をもって、Dランク傭兵ヒューズとしての登録を再開しました」
淡々とした報告の口調に、ヒューズはわずかに口元を緩めた。
肩をすくめるように首を回し、静かに言葉を返す。
「勝手な再登録ですねぇ。貰えるなら貰っておきますけど……そういう手間も含めて、オペレーターの仕事でしたっけ?」
その言葉に、女性は一拍だけ間を置いて頷いた。
「ええ。仕事です。……余計な感情は、添えておりません」
だが、その端整な表情には、かすかに揺れる熱の残り香があった。
ヒューズはそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、どこか飄々とした調子で笑みを浮かべる。
「それはそれは。私のような新人に過大な配慮、感謝しますよ、オペレーターさん」
「貴方の帰還は、個人的な感情を除けば、歓迎に値します」
帰還という言葉を少しだけ強調するように、モモは言葉を返す。
対するヒューズは“新人”という立場を崩そうとしない。水面下の我慢比べにも似たやり取りが、続く。
「初めまして。Dランク傭兵ヒューズです。お時間を作っていただき、感謝します」
「ええ、初めまして。そして、おかえりなさい」
返される言葉には棘も皮肉もない。ただ、事実を淡々と確認するように。
ヒューズは視線をずらし、天井の薄い灯りを見上げると、小さく息を吐いた。潮時だった。
根比べに負けたヒューズは両手を軽く上にあげて降参ですと呟き、もう一度大きなため息を吐き出した。
「……それで、“死亡していた私”を呼び戻して、貴女は何をさせようというんですか? 一応これでも、最近の私は少々忙しい身でして」
モモはタブレットを操作しながら、何の感情も込めずに答える。
「ええ、存じ上げております。好物の激辛ラーメンを開拓しておいででしたね」
「……調べすぎでしょう、貴女」
思わずむせるヒューズを他所に、モモは素知らぬ顔で応じた。
「貴方が先の襲撃で翼を喪失し、先日新たな翼を得たことも確認済みです。そして、記録に残らない戦闘行為に関与していることも。
それが何かを問う権限は、私にも、バード商会にもありません。ですが、貴方に必要な“身分”を、用立てすることはできます」
「……随分と好意的ですね。貴女の口ぶりからすれば、まるで私の背中に新たな翼が生えるのを“待っていた”ように聞こえますが」
問いを含んだ声に、モモは少しだけタブレットから視線を外した。
そのまま僅かに目を伏せて、静かに、言葉を紡ぐ。
「……目をかけていた鳥が、鳥籠ごと燃えてしまったと思っていたのです。けれど、籠を抜けて空へ飛び立とうとする姿が、ほんの少し見えた。それを見届けたいと思うくらいには、私にも女性らしさが残っていたようです」
その声音に、感情はない。けれど、そこに込められた“意志”だけははっきりと存在していた。
ヒューズはため息混じりに息を吐き、ゆっくりと頷いた。
「……ならば、ひとつだけ聞かせてください」
ヒューズはわずかに身を乗り出し、静かに言葉を落とす。
その目は、まっすぐに正面のモモを射抜いていた。声の調子は柔らかくすらあるのに、空気の緊張は確実に高まっている。
「貴女が私が追っている者の尖兵でないという確信が持てない以上、その存在について詳らかにはできません。……ですが、それでもなお、そこまでして私に何を望むのです?」
静けさが落ちる。
それは問いかけであり、試しでもあった。
モモは、まばたきもせずヒューズを見つめ返す。
一拍の沈黙ののち、感情の揺らぎを感じさせない声で応じた。
「何も」
その即答に、ヒューズの眉がわずかに動く。
「……何も?」
少しだけ身を引いて聞き返す彼に、モモはすかさず続けた。
「私はオペレーターです。私が見込んだ戦士を補助し、さらに飛躍させ、そしていずれはバード商会の利益と成す。それが、私の役割。同時に、私個人の望みでもあります」
モモの声音はあくまで無機質だったが、言葉そのものには確かな芯が通っていた。
それは義務でも命令でもなく、矜持と覚悟のように聞こえた。
面談室を沈黙が包む。
遠く、壁際のアナログ時計が静かに秒を刻む音が、空気に染み込むように響いていた。
ヒューズは少しだけ息を吐き、ようやく背筋を緩める。
「……感情がないようで、時々妙に人間臭い。貴女はそういうところが実に厄介ですね」
その皮肉に満ちた評価にも、モモは反応を返さなかった。
ただ手元の端末に指を走らせ、室内の壁面に設置されたディスプレイを起動させる。
「和気藹々とした会話はここまでにしましょう。Dランク傭兵ヒューズ、最初の任務をご説明いたします」
「え、いや私はまだ――」
「異論はないとのことですので、続けさせていただきます」
淡々と重ねられた言葉に遮られ、ヒューズはわずかにうつむきながら、目元を押さえた。肺の中に溜まっていたため息は、どうやら品切れのようだった。
「……貴女、本当に厄介ですね」
苦笑にも似た呟きを残しながら、ヒューズは背もたれに体を預ける。
その様子を一瞥したモモは、無言のまま手元の端末を操作し、室内のディスプレイを起動させた。
やや遅れて立ち上がった光の画面には、簡素な地図が一枚だけ表示される。セヴェルリージョン商業街区の港湾部。その一角を、赤い枠で囲んだだけの粗末な資料だった。
「今回の任務は、提携企業である【
感情を排したまま語る声が、再び面談室に響く。
ヒューズは視線だけをディスプレイへ向けると、小さく息を吐いた。
「港湾地帯にて、九龍貿易商会の管理外の輸送業者が、継続的に荷の出入りを行っている……という話が上がっています」
モモは画面に視線を移さず、手元のタブレットをなぞるように操作し続けている。
しかし画面には、積荷の映像もなければ、物量を示すグラフすら存在しない。ただ、赤く塗られた港の区画と、薄く引かれた出入りの線があるだけだ。
「……ただの噂、というわけですねぇ」
「ええ。情報は断片的で、港湾局の公式な記録も存在しません。九龍貿易商会側も、精査するほどの価値はないと判断しているようです」
「それでも一応、依頼にはなっていると」
「はい。“暇な時に調べてくれれば”という温度感で届いた案件です」
モモの指が止まる。
静かに目線を戻すと、再びヒューズを真っ直ぐに見据えた。
「正直なところ、情報提供も不十分です。……ですので、調査方法は貴方に一任します」
ヒューズは目を細め、苦笑の気配を滲ませた。
「つまり、“何が運ばれているのか”も、“誰が関与しているのか”も分からないまま、歩き回ってきなさいと……そういうことですか」
「その通りです」
即答だった。
「現地では、虎瑛党や四龍組のジムショに立ち寄ってみると良いでしょう。地元と結びつきの強い組織ですので、何らかの動向は把握しているはずです」
「ふふ、顔を出すのが少しだけ億劫になりますねぇ。あの辺は、妙に人懐こいのに眼光は鋭い……そんな手合いばかりでした」
ヒューズが呟くように言うと、モモは頷きもせず、ただ静かに続きを述べた。
「戦闘の可能性は低いと見ています。ただし、不審な人物の目撃情報もあるため、必要と判断した場合に限り、装備の投入も許可されています」
ヒューズは椅子から身を起こし、手袋越しに顎を軽く擦った。
「……なるほど。“最初の任務”にしては、随分と歯ごたえのない、けれど面倒な依頼ですねぇ」
「チュートリアル任務に過負荷は不要です。……適切な初期値として設定しました」
淡々と返すその声に、ヒューズはうっすらとした笑みを浮かべ、立ち上がる。
黒いコートの裾から、ほんの僅かに雪解け水が滴った。
「では、最小限の労力で最大の成果を目指しましょう。……私としては、手間を惜しんだ分、楽をしてみたいところですし」
その皮肉にモモは無反応のまま、手元の端末を閉じた。
そして、音もなく立ち上がり、面談室の扉を開ける。
ヒューズは開かれた扉の前で立ち止まり、振り返ることなく右手を軽く振った。
その動作に、名残のような意味が込められていた。
背後から、モモの声音が静かに追いかける。
「……あまり無茶はなさらないように。壊れて戻られては、つまらないので」
揶揄とも、皮肉とも、優しさとも取れる曖昧な響き。
ヒューズは何も言わず、わずかに肩をすくめるだけだった。
扉が閉まり、面談室に再び静寂が満ちていった。
午後の陽射しが低く差し込むセヴェル港湾地区。潮の匂いが混じる冷たい風が吹き抜け、ところどころ雪が残る舗装路を、小型のトラックが唸りを上げて通り過ぎる。
錆びたコンテナが無造作に積まれた区画の一角。貨物ヤードの奥まった場所に、その建物はあった。ジムショと呼ぶにはいささか質素な、倉庫をそのまま使ったような構造。古いトタンと鉄骨が組み合わされた外壁には、スプレーで雑に描かれた“虎瑛党”の文字が残っている。
ヒューズは歩を進め、無骨なスチールドアの前で足を止めた。ドアの上部には監視カメラが設置されていたが、作動しているのかは定かでない。インターホンのようなものも見当たらず、彼は軽く咳払いをしてから、拳でドアを二度ノックした。
沈黙。数秒の後、ガリガリと金属が擦れる音とともに、扉の隙間から顔を覗かせたのは、いかにも喧嘩慣れしていそうな風貌の男だった。金髪に刈り上げ、顎には傷。ジャージの上からタクティカルベストを羽織り、無骨なサイドアームが脇にぶら下がっている。
「おう、なんだよアンタ。ここに何の用だ?」
男の鋭い目線にも動じることなく、ヒューズは一歩前に出て静かに礼を取った。
「九龍貿易商会からの依頼で参りました。バード商会所属、Dランク傭兵のヒューズと申します」
その声は落ち着いており、のんびりとした響きを含んでいる。だが言葉遣いには一分の隙もなく、適度な威厳があった。
ヤンキー風の男は目を細めた。
「はぁ? 商会? お偉ぇとこの犬かよ……チッ、まあいいわ。用件あんならさっさと言えや、こっちもヒマじゃねぇんだよ」
それでも、男は扉を開けきった。中には、同じような出で立ちの数人がソファに寝そべり、煙草を吹かしながらテレビを眺めている。ジムショというより、たまり場のような空気。
「……ま、客人だ。中入れや。オレが話くらいは聞いてやるよ」
ヒューズは軽く頷き、無言で室内へと足を踏み入れた。整然としたバード商会とは真逆の、雑然とした空間。だが、それもまた、“地に足のついた陸路の現場”のリアリズムなのだと、彼は思う。
その視線の先には、古びたジムショの一角があった。
煙草の煙が淀み、壁には油染みのようなカレンダー。棚には埃をかぶったトロフィーが無造作に並んでいる。
ヒューズは折りたたみ椅子に腰を下ろし、正面の男が手にした缶コーヒーの蓋がプシュと開く音に反応して、思わず手を差し出した。
「……」
だが、その手に缶が渡されることはなかった。
男はヒューズの仕草に気づきもしない様子で、自分の缶を一口啜り、足を組み直す。
「で? なんだって? 港で怪しい
乾いた声。ヒューズは手を引き、仕草一つ変えず応じた。
「ええ。ここ数週間、“非正規ルートの輸送業者”が目立っているという報告がありまして。九龍貿易商会からの依頼で、確認に伺いました」
男は煙草の灰を灰皿に落としながら、鼻で笑った。
「ふーん……
言いながら、缶コーヒーを軽く振って中身を確かめる。
「積んでんのは見たことある。トラックにコンテナ、夜間にちょいちょい走ってる。けど、中身も運び先もウチには伝わってねぇ。変に静けぇんだよな……誰も詳しく知らねぇのに、誰も手ぇ出さねぇ。おっかなくてさ、わざわざ首突っ込むバカもいねぇってわけよ」
ヒューズは眉をわずかに動かした。
「使用されている港に心当たりは?」
「“第八商業街区港”だ。海側の積み場、四龍組のシマだぜ」
少し吐き捨てるように、男は言う。
「そっちで聞いた方が早いぜ。アイツらの方が海運詳しいしな。ウチじゃ管轄外だ」
ヒューズは立ち上がり、丁寧に一礼した。
「助かりました。情報、感謝します」
男はまた一口コーヒーを飲んで、ようやく視線を向けた。
「ま、あっちに行っても門前払いされなきゃいいけどな。あのヤクザどもは筋が通ってても、気分次第で門前払いどころか海に沈められっかもしんねぇぜ?」
ヒューズはそれには返さず、ただコートの襟を正してジムショを後にする。
缶コーヒーの甘ったるい香りだけが、しばらく鼻に残っていた。
虎瑛党のジムショを後にしたヒューズが次に向かったのは、第八商業街区港の一角。塩気を帯びた風が吹き抜ける裏路地の奥に、その建物はあった。
看板には「九龍貿易商会・第八港湾出張所」の文字がかすれて残り、壁面の塗装も塩害で所々が剥げている。かつて華美だった装飾の名残が、今は古びた誇りのように建物の隅々に沈んでいた。
ヒューズが鉄扉をノックすると、中から「開いてる」と気の抜けた声が返ってきた。
中に入ると、作業着姿の若い職員が数人、事務机に向かって書類整理をしていた。その奥で、白いシャツの袖をまくった中年の男が煙草をくゆらせている。日焼けした黒褐色の肌の色と、着古されたシャツの襟から漂う潮の香りが、かすかにヒューズの鼻をくすぐった。
「バード商会、Dランク傭兵のヒューズと申します。御社の提携企業である九龍貿易商会からの依頼により、調査に参りました」
名乗ると同時に、ヒューズは丁寧に頭を下げた。
職員たちの視線が一瞬だけ集中するが、すぐに各自の作業へ戻っていく。
男は椅子を軋ませながら立ち上がると、片手で応接用のパイプ椅子を引いた。
「話ぐらいは聞いてやる。座りな」
促されて腰を下ろすと、男はペットボトルの緑茶を手に取り、ラベルを剥きながらつぶやく。
「怪しい動きがあるっつってもな、実際んとこ、ようわかっちゃいねぇんだわ」
ヒューズは頷きながら、静かに口を開く。
「非正規の輸送業者が、この港を使って頻繁に出入りしているとの報告を受けています。目立たないように小舟で洋上へ、という話も聞いておりまして」
男は鼻を鳴らした。
「見たことはあるぜ。夜な夜な小舟が出ていく。そのまま沖で輸送船に積み替えてるようだったな。ウチの船じゃねえのは確かだ……でけぇシルエットだったぜ。妙に静かでよ、どこの船かも分かっちゃいねえ」
言いながら、タバコの灰を灰皿に落とす。
「それがよ……筋が通ってねぇんだわ、どうにもな。海路でブツ運ぶなら、普通は
真っ当な企業なら普通は
ヒューズは眉をわずかに動かし、体をやや前に傾ける。
「何か他に、特徴や動きの変化などは?」
「いや、そりゃ分かんねぇな。ウチの連中も触れたがらねぇし、俺も詮索なんざしねぇよ」
男は椅子の背にもたれかかり、ようやくヒューズの目を正面から捉えた。
「こういうモンはな、知ってる奴ほど足がつくのが早えぇって話だ」
「情報、感謝します。参考にさせていただきます」
その言葉を聞き届けるとヒューズは静かに立ち上がり、一礼した。
男は軽く片手を上げ、ヒューズを見送る。
「どうせ、どっかの上が絡んでんだろ。気ぃつけな。筋が通ってねぇってのはよ……つまり誰かがワザと隠してやがるってことだ」
その言葉に、ヒューズは黙礼を返し、ジムショを後にした。
港町特有の錆の匂いと潮風が入り混じる空気の中、コートの裾を翻す彼の背に、少し遅れて扉の閉まる音が重なった。
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