第3話村田財閥令嬢、村田ミカ
国立競技場の最上階、防弾ガラスに守られたVIP席。そこには、下界の喧騒とは無縁の静寂と、冷徹なまでの「資本の論理」が支配していた。
中央に座るのは、村田ミカ。
日本の経済地図を塗り替えつつある新興財閥・村田財閥の総帥が、その才覚を最も信頼する一人娘である。東大を首席で卒業し、ウォール街での研修を終えて帰国したばかりの彼女は、父から一つの「玩具」を託されていた。買収したばかりのJ3クラブ『FC松戸ジーニアス』の再建だ。
「……ミカ様、日大のロマーリオです。あのバイシクルシュート、そして五人抜き。市場価値は既に数億円規模。獲得リストの最上位で間違いありません」
傍らに控える秘書が、タブレットに表示されたスカウティングレポートを差し出す。しかし、ミカは一瞥もくれなかった。
「退屈な選手ね」
ミカの細く白い指先が、シャンパングラスの縁をなぞる。
「確かにロマーリオは天才だわ。けれど、彼のプレーには『未来の価格』が乗っていない。自己愛を満たすための無駄なステップ、同僚を駒としか見ない傲慢なパス……。あれは消費される才能よ。上のカテゴリーに行けば、組織という壁にぶつかって破産する。我が財閥が投資すべきは、完成された宝石ではなく、掘り起こされる前の原石だわ」
彼女の鋭い視線は、表彰式の端で泥まみれのユニフォームを着たまま、拳を固く握りしめている一人の少年に注がれていた。
「……彼よ。千葉大の4番、ponzi。彼についてのデータを」
「ponzi選手ですか? しかし、今日は5対0の完敗です。ロマーリオには手も足も出ず……」
「そうかしら? 統計を見なさい。チーム全体が戦意を喪失した後半三十分以降、彼の走行距離とインターセプト数は逆に跳ね上がっている。ボロボロになりながらも、彼は一人で『最適解』を探し続けていた。かつての中田英寿やデシャンがそうだったように、ピッチ全体の構造を理解し、絶望の中でも戦術を組み立て直せる個体……。彼こそが、ジーニアス(天才)の名を冠する我がチームに必要な心臓(エンジン)よ」
ミカの瞳に、投資家としての、そして一人の女性としての「独占欲」が宿る。
「18歳。千葉大経済学部。……面白いわ。彼を徹底的に調べなさい。身体能力、家庭環境、そして……隣で泣いているあの医学部の彼女についてもね」
ミカは微笑んだ。それは獲物を追い詰める捕食者の笑みだった。
一方、勝利に酔いしれる日大のロッカールーム。
ロマーリオは、英雄として崇められていた。その夜、青山で開催された派手な祝勝会。そこには、日大のミスコン出身で、アイドルとして売り出し中だったクドウの姿もあった。彼女はponziの幼なじみであり、かつては彼と共にサッカーボールを追いかけた純粋な少女だった。
「キミハ、まるでお伽話ノ中ノ天使ダネ」
ロマーリオは、シャンパンの泡よりも軽い、しかし熱を帯びた言葉で彼女を包み込んだ。
敗北した幼なじみへの同情と、目の前の圧倒的な「勝者」が放つ眩いばかりの光。そのギャップに、クドウの心は麻痺した。ブラジル仕込みの情熱的なアプローチに、彼女は抗えなかった。
「ponzi、ごめんね……」
心の片隅で呟いた謝罪は、ロマーリオの強引な抱擁によってかき消された。
しかし、ロマーリオにとってそれは、単なる祝杯の一種に過ぎなかった。
数週間後。
松戸の街の小さなアパートで、クドウは一本の検査薬を見つめ、震えていた。陽性を示す二本線。それは、彼女の輝かしいアイドルとしての未来が閉ざされた瞬間であり、野生の怪物から投げられた、あまりに残酷な「勝利の対価」だった。
「ロマーリオ……どうすればいいの?」
震える指で掛けた電話。しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは、別の女の笑い声と、面倒そうに鼻を鳴らす「勝者」の吐息だけだった。
その頃、自身の無力さに打ちひしがれたponziは、サッカー部への足が遠のいていた。
大学の講義にも出ず、薄暗い自室で、彼はサッカーではなく「数字」の世界に逃避していた。複数のモニターに映し出される、激しく上下する株価チャート。
「サッカーが魂のぶつかり合いだと言うなら、僕はもっと冷徹な場所で、奴を越えてやる……」
ponziの手元で、数千万円単位の注文が、虚しく、しかし狂気じみたスピードで約定を繰り返していた。
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