第4話堕落

​ 千葉大学のキャンパスから、ponziの姿が消えて久しい。

 かつて新緑のピッチで未来を嘱望されていた若き天才は今、松戸の安アパートに籠もり、昼夜の区別もつかない生活を送っていた。カーテンを閉め切った薄暗い室内。唯一の光源は、デスクに並べられた四枚の液晶モニターだ。

​ そこに映し出されているのは、青と赤の数字が激しく明滅する株価の板情報。

 ピッチ上で二十二人の動きを支配しようとしたponziの知性は、今や市場(マーケット)という名の、より巨大で無機質な戦場に注がれていた。

​「……結局、サッカーも株も、情報の非対称性を突くゲームだ」

​ 髭を剃るのも忘れ、充血した目でキーボードを叩くponzi。

 当初、彼の分析力は株の世界でも遺憾なく発揮された。数万円の元手は、レバレッジをかけた信用取引によって、瞬く間に数百万、数千万へと膨れ上がった。だが、どれだけモニター上の数字が増えても、得られるのは一瞬のドーパミンだけで、心の中の「あの敗北」が癒えることはなかった。

​ そして、魔の瞬間は訪れた。

 絶対の自信を持って仕掛けたバイオ関連銘柄が、一通の適時開示によって暴落。狼狽売りが連鎖し、画面は真っ青な「ストップ安」で埋め尽くされた。

 追い証(おいしょう)の通知。強制決済。

 数分前まで「勝ち組」の数字だったものは消滅し、残ったのは、学生の身分では到底返済不可能な、三千万を超える借金という名の「不協和音」だけだった。

​ ponziが空っぽの胃を抱え、デスクに突っ伏していたその時。

 古びたアパートのドアが、ノックもなしに静かに開いた。

​ 場違いなほど高級なベルガモットの香りが鼻を突く。

 顔を上げると、そこには完璧な仕立ての紺色のスーツに身を包んだ村田ミカが、冷ややかな、しかしどこか悦びに満ちた瞳で立っていた。

​「……誰だ。借金の取り立てなら、まだ一銭もないぞ」

​ ponziの掠れた声に、ミカはバッグから優雅にタブレットを取り出し、彼の前に放り出した。そこには、ponziの取引履歴から、現在の正確な債務額までが完璧にリスト化されていた。

​「ponziくん。アナタ、株のデイトレードで大負けして、借金が数千万円あるそうね(笑)」

​ ミカは彼の乱れたデスクの椅子に腰掛け、細く美しい足を組んだ。

「千葉大の秀才が、マーケットの荒波に呑まれて溺死。笑えない冗談だわ。でも、安心して。わたしの言うことを聞くなら、村田財閥がその不始末、すべて肩代わりしてあげてもいいわよ」

​「……何のつもりだ。僕を、財閥の犬にでもする気か?」

​「いいえ。わたしが欲しいのは、犬ではなく『心臓』よ」

 ミカの指先が、ponziの乾いた頬をなぞる。

「わたしにはケンという許嫁がいるわ。東大教授で、世界的なクラシック音楽家。彼が奏でる音楽は完璧な調和(ハーモニー)に満ちている。けれど、それは死んでいるのと同じ。わたしを退屈させるだけだわ」

​ ミカの顔が、ponziの耳元まで近づく。

「でも、アナタは違う。敗北にまみれ、数字に狂い、今はどん底で不協和音を垂れ流している。その醜悪で、美しい不完全さが、わたしの心を揺さぶるの。アナタという原石を、わたしの手で磨き上げ、もう一度あのピッチに立たせたい。ロマーリオという『暴力』を叩き潰すための、我が財閥の最高傑作としてね」

​ ponziは、ミカの瞳の奥に宿る強烈な独占欲を見た。

 それは医学部の彼女、ユリエが注いでくれた献身的な愛とは、根本的に質の異なるものだった。ユリエの愛は「癒やし」だったが、ミカの愛は「契約」であり「支配」だった。

​「条件は?」

「簡単よ。サッカー部に戻りなさい。そして、次の日大戦で勝つこと。それ以外の時間は、わたしの所有物(コレクション)として過ごしてもらうわ」

​ 窓の外、雨が降り始めた。

 借金の重み、ロマーリオへの屈辱、そしてミカという抗いがたい力。

 ponziは、液晶モニターに映る真っ青なチャートを消し、ミカの差し出した白い手を見つめた。

​「……いいだろう。悪魔に魂を売るのも、デイトレードよりはマシな賭けだ」

​ その瞬間、松戸の安アパートの一室で、一つの契約が成立した。

 かつての恋人、ユリエ。そしてお腹に新しい命を宿した幼なじみのクドウ。彼女たちの存在が、ponziの意識から遠ざかっていく。

 堕落の果てに、彼は黄金の檻の中へと足を踏み入れた。ロマーリオへの「復讐」という、唯一の生きる目的を抱えて。

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